第34話 ふわふわと、おいしい水で幸せいっぱいの弟
ノクスの許可が下りたことで、場の空気は完全に緩んだ。
――いや、正確には。
緩んだのは、エリオ以外だ。
「ねえねえ、触ってもいい?」
フィンが、目を輝かせながらノクスを見上げる。
先ほどまでの圧倒的な存在感を前にしてなお、この態度である。
エリオは内心で頭を抱えた。
(普通は、近づこうとも思わないだろ……)
ノクスはわずかに目を細め、フィンを見下ろした。
「……好きにしろ」
低く、短い返答。
それが許可であることを、フィンは即座に理解した。
「やった!」
次の瞬間には、もう動いていた。
ぱたぱたと駆け寄り、そのまま躊躇なくノクスの巨体に飛びつく。白銀の毛並みに顔を埋め――
「……ふわふわ!」
至福の声が漏れた。
ノクスの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
払いのけることもできたはずだが、しなかった。静かに受け入れている。
「エリオ、見て! ふわふわだよ!」
「……ああ」
エリオは遠目にその光景を眺めながら、なんとも言えない気持ちになった。
あの神獣が、子供に好き放題されている。
(……俺の時と扱いが違いすぎるだろ)
ノクスは何も言わない。ただ、わずかに目を閉じているだけだった。
それが拒絶ではないことは、十分すぎるほど伝わってくる。
◇
ノクスと散々触れ合った後、フィンはじっとしていられなくなったらしい。
「セラお姉さま、これなに?」
「それはね、お水をきれいにするやつ」
「これも作ったの?」
「うん。これはエリオも手伝ってくれたよ! あとこっちの窯でパンを焼くと、すっごく美味しいんだよ」
「すごい……!」
ロッジを覗き、濾過装置を覗き、石窯を覗き。
見るものすべてに目を輝かせている。
その後ろを、ノクスが当然のようについて歩いているのがまた妙な光景だった。
まるで、巨大な番犬が子供の背中を見守っているようだ。
(なんであいつ、あんなに素直なんだ……)
エリオは思わず眉をひそめた。
自分に対する威圧的な態度との差がひどすぎる。
◇
太陽が高く昇り、心地よい風が吹き抜ける昼頃。
エリオたちは花畑の傍の木陰に腰を下ろし、屋敷から持参した軽食を広げていた。
「わあ、お肉のサンドイッチ! エリオ、ありがとう!」
「お前がちゃんと飯を食ってるか、母上たちも心配してたからな」
セラは嬉しそうにサンドイッチを頬張り、その隣でフィンも大きな口を開けている。
ちなみに、少し離れた岩場で休むノクスの前には、エリオが持参した甘いドーナツが山積みになっていた。神獣がドーナツを器用に食べる姿はなかなかにシュールだったが、エリオはもう突っ込まないことに決めている。
軽食を平らげた後、フィンが自分の大きなリュックをごそごそと漁り始めた。
「じゃじゃーん! 僕が持ってきたおやつ!」
「えっ、クッキー? フィンが選んでくれたの? やったー!」
得意げに広げられたクッキーや焼き菓子を囲み、和やかなおやつタイムが始まる。過酷な山道を必死に登ってきたフィンも、すっかり疲れを忘れたように笑っていた。
だが、しばらくクッキーを頬張っていたフィンが、ふと自分の水筒を傾けて声を上げた。
「あ、僕の水筒、空になっちゃった!」
山道を歩き、セラとはしゃぎ回ったせいだろう。一滴も残っていない水筒を振って残念そうにするフィンに、セラがにこりと笑いかける。
「これどうぞ。水筒にも入れとくね」
セラが木のコップに注いで差し出したのは、きらきらと透き通った綺麗な水だった。
フィンは何の疑いもなくそれを受け取り、ごくごくと一気に飲み干す。
――次の瞬間。
「おいしぃー!!」
ぱあっと顔が輝いた。
「なにこれ! なにこれ! すごいおいしい!」
おかわりを注いでもらい、ごくごくと勢いよく飲み干していく。その様子は、見ているこちらが気持ちよくなるほどだった。
「でしょ? 山のお水を私がろ過しただけなんだけど、すっごく美味しくなるんだよ! そんなに喜んでくれるなら、樽で持って帰る?」
「樽!? いいの!?」
「いいよ」
即答だった。
フィンの目がきらきらと輝く。
その横で。
「いや、待て待て待て」
エリオがすかさず口を挟んだ。
セラ本人はただの「ろ過した水」だと思っているようだが、どう見ても精霊の力がたっぷり溶け込んだエリクサー級の代物だ。
「こんなもん持って帰ってどうするんだよ。父上も兄上も、見たらまた大騒ぎになるだろ。扱いに困るんだよ、こういうのは」
「何でそんなので大騒ぎになるのよ? じゃあ、いらない?」
セラが不思議そうに首をかしげる。
エリオは、ゆっくりと視線を横にずらした。
そこには。
両手をぎゅっと合わせて、上目遣いでこちらを見つめるフィンがいた。
「……」
「お兄様」
「……分かった。もらう」
即答だった。
エリオは深いため息をつきながら、セラが持ってきた大きめの水容器を受け取る。
ずしり、と重い。
(……これ、どう説明するんだ)
頭痛の種がまた一つ増えた気がした。
案の定、水をがぶ飲みしたフィンの顔色は、過酷な山を登ってきた時よりもはるかにツヤツヤで健康そのものになっている。
えへへと笑い合う、平和な姉弟。
その光景を見つめながら、エリオの顔だけが引きつっていた。
エリオはそっと額を押さえ、本日何度目か分からない深いため息を、誰にも気づかれないように吐き出した。
◇
帰り際。
フィンは名残惜しそうにセラにしがみついた。
「また来る」
「いつでもおいで」
「絶対来る」
「うん」
やり取りは短いが、迷いはない。
それから、フィンはくるりと振り返り、ノクスを見上げた。
「ノクス、また来ていい?」
ノクスはフィンを一瞥し――
「……ああ」
それだけだった。
だが、フィンの顔はぱあっと明るくなった。
◇
山を下りながら、フィンはずっと喋り続けていた。
ノクスのこと。セラのこと。ロッジのこと。おいしかった水のこと。
疲れた様子など微塵も見せず、立ち止まる気配はない。
エリオは適当に相槌を打ちながら、手に持った容器の重みを確かめた。
中身は、満タンだ。
屋敷に帰ってこの水を突きつければ、兄のルーカスと父がどんな顔をするか。
容易に想像がつく。
――きっと、あんぐりと口を開けて絶句するだろう。
そう思うと。
頭痛の種のはずなのに、ほんの少しだけ、帰るのが楽しみに思えるのだった。




