第33話 季節外れの花と、神獣の許可
山道を抜け、見慣れたはずの景色に辿り着いた瞬間。
エリオは、ぴたりと足を止めた。後ろを歩いていたフィンが、エリオの背中にこつんとぶつかる。
「ちょっと! 急に止まらないでよ! ……え? なに、ここ」
文句を言いかけたフィンの声が、驚きに裏返った。
そこには――本来、この季節に咲くはずのない花が、一面に広がっていた。
淡い色の花弁が風に揺れ、光を弾く。柔らかな香りが空気に溶け込んでいる。
まるで、この場所だけ世界から切り取られ、別の季節が置かれたかのようだった。
「きれい……」
フィンは呟くように言い、ゆっくりとその中へ歩み出る。踏みしめるのもためらうような、おっかなびっくりの足取りだった。
エリオはその様子を見ながら、静かに目を細める。
(いくらあいつの『水』でも、こんな範囲になるはずが……)
風が吹き抜ける。
花々が一斉に揺れ、さざ波のように広がった。
その瞬間だった。
――空気が、変わる。
ひやりとした重い気配が、肌を撫でた。
フィンの足が止まる。気づいたのはエリオだけではない。
“それ”は、そこにいた。
白銀の巨体。ただそこに在るだけで、すべてを押し潰すような圧倒的な存在感。
神獣、フェンリル――ノクス。
静かにこちらを見下ろすその青い瞳からは、感情を読み取れない。ただ、生き物としての次元が違うという事実だけが、そこにあった。
フィンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
足が動かない。動かせない。
それは恐怖というより、あまりに巨大で美しいものを前にした時の、あの感覚に近かった。
喉が、わずかに鳴る。
それでも。
「かっこいい……」
ぽつりと、こぼれ落ちた。
恐怖ではなかった。純粋な感嘆だった。
フィンは恐る恐る、一歩、また一歩と前へ進む。
その様子を、ノクスは静かに見ていた。
止める様子も、威圧する様子もない。ただ、小さな子供を見守るように静かに見据えている。
「すごい……」
フィンが小さく息を吐くように言った、その時だった。
「フィン!」
聞き慣れた声が、弾むように響いた。
振り返ると、セラが花畑の奥から駆け寄ってくるところだった。
「セラお姉さま!」
フィンの顔がぱっと明るくなる。そのままセラの元へ駆け寄り、勢いよく抱きついた。
「わあ、フィン! 来てくれたの?」
「うん!」
セラがしっかりと抱きとめると、フィンはまじまじとその顔を見つめて目を丸くした。
「あれっ? セラお姉さま、髪の毛短いとエリオ兄様にそっくりだねぇ! 驚いちゃった!」
「えへへ、そうでしょう?」
嬉しそうに笑う双子の妹と末の弟を一瞥し、エリオは短く息を吐いてノクスへ視線を向けた。
「……ノクス。本題に入る前に、一つ聞きたいんだが」
「なんだ」
「この季節外れの花は、どういうことだ。いくらあいつの『水』でも、こんな範囲になるはずがないだろう」
エリオの問いかけに対し、ノクスはさして気にした様子もなく鼻を鳴らした。
「ああ、あれか。セラが裏に『風呂』なるものを作りおってな。その湯を毎日あの辺りに捨てているからだろう」
「……風呂?」
「うむ。もっぱら本人は精霊の仕業だとは気付いておらぬようでな。『温かいお湯で季節を勘違いさせてごめんね』と花に謝っておったが」
「は?」
エリオの思考が、完全に停止した。
「花が、勘違い……?」
「セラが数日がかりで穴を掘り、精霊どもが騒がしく湯を沸かしておる」
呆れたように、だがどこか満足げに目を細めるノクス。
エリオは、目の前の神話の存在と、大量の『風呂の残り湯』で育った見事な花畑を交互に見比べた。
王都で必死に情報統制の算段を立てている裏で、妹は神獣に見守られ、精霊をこき使いながら風呂を満喫している。
――頭が痛い。
「……いや、もういい。その話は後だ」
深く息を吐き、気を取り直す。本来の目的を先に済ませておきたかった。
「セラのことだが。以前、この山で死にかけていた冒険者を助けたことがあっただろう」
エリオが静かに切り出すと、ノクスはわずかに耳を動かした。
「ああ。酷い血の匂いがしていた時の事だな」
「その時の話が尾ひれをつけて、王都で『神隠しの聖女』として噂になり始めている。このままでは、セラが教会に目をつけられかねない」
ノクスの青い瞳に、すっと鋭い光が宿った。
「だから、噂の出所である冒険者たちを探し出して、接触してきた。口止めと協力関係は取り付ける予定だ。だが、向こうはこちらに従う前に、事実の確認を求めている」
「……」
「一度、この場所に彼らを連れてくる許可が欲しい」
言葉を切ると、山の静けさが戻る。
風が、花を揺らした。
ノクスは、しばらく沈黙していた。
やがて、ゆっくりと視線を動かす。
視線の先では、セラとフィンが花を摘みながら、無邪気な笑い声を上げている。
ノクスは短く、深い息を吐き出した。
「人間のしがらみというやつは、どうにも厄介だな」
「全くだ」
エリオの自嘲気味な返答に、ノクスはわずかに目を細めた。
「構わぬ。連れて来るがいい」
あっさりと下りた許可に、エリオがわずかに目を見張る。
ノクスは遠くで笑うセラを見つめたまま、低く唸るように続けた。
「セラの足枷にならぬよう、上手く立ち回るのだな」
そして、青い瞳が静かにエリオを射抜く。
空気が、びりりと震えた。
「あの娘が悲しむようなことになれば、我は容赦せぬぞ」
「……言われるまでもない。助かるよ」
一瞬の重圧を真正面から受け止め、エリオは短く頷いた。




