第32話 弟が、準備万端だった
その日の夜。
エリオはルーカスの執務室を訪れ、簡潔に報告を済ませた。
セラが山で助けた『ルーンシーカー』の生き残りたちと接触し、妹の件を秘匿すること、そして冒険者たちを山へ近づけないようギルドへ話を持ち掛けてもらうこと。
「なるほどな」
ルーカスは腕を組み、しばし考え込んだ。
「判断としては悪くない。むしろ妥当だろう」
「ただ、問題はその後なんだが」
エリオは少し顔をしかめた。
「向こうはギルドに確実な報告をするために、現状確認を求めている。一度、山に連れて行く必要がありそうだ。明日にでもノクスの了承を得るために山へ向かおうと思っている」
「……そうだな。こればかりは、勝手に決められる事では無いな」
低く呟き、ルーカスは小さく息を吐いた。
短い沈黙が落ちた。
これで話は終わりかと思ったところで、ルーカスがわずかに視線を逸らした。
「……実は、伝えておきたい事がある」
どこか歯切れが悪い。いつもの兄らしくない言い方に、エリオは眉をひそめた。
「お前にもう一人、面倒を見てもらいたい奴がいる」
「は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「どうせ止めても聞かないだろう、あいつは。俺もちゃんと止めたのだがな」
「誰の話をしてるんだ」
「フィンだ」
ルーカスはわずかに目を細めた。
「そもそもお前が余計なことを教えたせいでもある。一度、見せておいた方がいい」
何を、とは言わない。
だが、その意味はすぐに分かった。
「責任は取れよ、エリオ」
(最悪だ)
エリオは内心でそう吐き捨てた。
◇
出発の朝。
エリオが玄関に向かうと、すでに小さな人影が待っていた。
フィンだ。
小さな背中に、明らかに大きすぎるリュックを背負って、腕を組んで立っている。
「お前、何してる」
「待ってた」
振り返ったフィンの顔は、これ以上ないくらい真剣だった。
「僕も行く」
「遊びじゃないぞ」
「分かってる」
一瞬だけ、フィンの目が揺れた。
「でも、連れて行って欲しいんだ」
「今日出発することを誰に聞いた」
「兄様に」
エリオは思わず天を仰いだ。
ルーカスめ。
「兄様はね、エリオが面倒見るなら良いって」
「丸投げかよ」
「うん」
フィンは全く悪びれない。それどころか、ここが正念場だとばかりに胸を張っている。
「僕、これずっと準備してたんだよ。水筒も、着替えも、おやつも」
「おやつ……」
「大事でしょ」
エリオは深いため息をついた。
止めても無駄だ。この顔をしているフィンは、セラと同じだ。何を言っても聞かない。それくらいは分かっている。
「転んでも知らないからな」
「転ばない」
「絶対転ぶだろ」
「転ばない!」
エリオはもう一度ため息をついて、歩き出した。
「ついてこい」
「やった!」
ぱたぱたと、小さな足音が後ろからついてくる。
◇
山に入った瞬間、空気が変わった。
ひやりとした静けさが、肌にまとわりつく。
フィンが、ほんの少しだけ足を止めた。
「どうした?」
「……なんでもない」
そう言って、すぐに歩き出す。
山道は、フィンにとって想像以上にしんどかったらしい。
途中から無口になって、それでも一度も「帰りたい」と言わなかった。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
「顔が死んでるぞ」
「大丈夫って言ってる」
意地っ張りだ。誰に似たんだか。
エリオは黙って、フィンのリュックを肩代わりした。歩幅を、ほんの少しだけ落とす。
「あ、いい」
「任せとけ」
フィンは少しだけ口をつぐんで、それからこっそりと「ありがとう」と呟いた。
木々の隙間から差し込む光が、ゆらゆらと揺れる。
静かすぎる山だった。
鳥の声も、虫の音も、風が枝を揺らす音さえも、どこか遠い。生き物の気配が、ほとんどない。
フィンもそれに気づいたのか、いつの間にか口を閉じていた。さっきまでの無口とは違う。息を潜めるような、緊張した沈黙だった。
「……ねえ、エリオ」
低い声で、フィンが呟く。
「静かすぎない、ここ」
「ああ」
エリオは短く答えた。
「結界の中に入ってるんだ。ここから先は、あいつの縄張りだ」
フィンはしばらく黙って、それからゆっくりと前を向いた。
足は、止まらなかった。




