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無自覚聖女の辺境山暮らし 〜婚約破棄されたけど、新しい相棒と精霊に愛されています〜  作者: なな日々
第2章:広がる噂は規格外編

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第29話 長男の憂鬱と規格外の報告

「……で?」

 

 ルーカスが机の奥、椅子に深く腰掛けたまま静かに促した。

「何があった」

 

 単刀直入な問いだった。隠しても無意味だと、その低い声が物語っている。

 エリオは小さく息を吐き、二人きりの部屋でわずかに肩の力を抜いた。

 

「父上の件だ。あの夜、主治医が出した薬は気休めにもならなかった。発作はひどく、教会の聖女を待つ余裕もなかった」

「ああ。報告は聞いている。だが、翌朝には良くなっていたそうじゃないか」

「俺が、水を使ったんだ」

 

 言葉を選ぶように、だが隠すつもりもなく告げる。

 

「水? 薬草や魔法薬ではなくか?」

「セラが山で作った、ただの濾過装置を通した水だ。それをこっそり水差しの水と替えた」

 

 一瞬、ルーカスの目がわずかに細められた。冗談を言うような弟ではないことは分かっている。だからこそ、その行動の意図が読めなかった。

 

「なぜ、そんなものを父上に飲ませた。ただの気休めのつもりか?」

「いや。気休めなんかじゃない。あいつの作ったものが普通じゃないって、分かっていたからだ」

 

 エリオは静かに、だがはっきりと答えた。

 

「山でその水を俺も飲んだが、飲んだとたん、疲労がきれいに消えた。それに、水だけじゃない。あいつが山で作ったパンを食べたら、信じられないほど体が軽くなってな。昨日の騎士団の訓練じゃ、無意識に振るった木剣で教官を吹き飛ばしそうになって、慌てて手加減したくらいだ」

「水で疲労が消え、パンで教官を圧倒しただと?」

 

 ルーカスがわずかに目を見開く。エリオの実力は知っているが、教官を圧倒するなど通常ではあり得ないことだった。

 

「ああ。ただ、幸いだったのは、パンの異常な力はずっと続くわけじゃなかったことだ。二、三日もすれば徐々に抜けて、元の状態に戻った」

「一時的な身体強化、ということか」

「そうだ。だから騎士団には『たまたま調子が良すぎた』でなんとか誤魔化せている。だが、最初は俺も単なる思い込みや、体調のブレかと思った。だから、自分で確かめたんだ」

 

 ルーカスがわずかに眉を上げ、先を促すように視線を向ける。

 

「確かめた、というのは?」

「まずは水だ。あいつが作ったのと同じ材料を集め、まったく同じ構造の『濾過装置』を自分で組み上げた。でもそれではただの水だった。だから、ルシアン様にも協力を仰いだんだ」

 

 その名を聞いた瞬間、ルーカスの眉がピクリと動いた。

 

「ルシアン様……」

 

(公爵家の嫡男にして、王都随一の精霊魔法の使い手であるあの男に、協力を仰いだというのか?)

 

 声には出さなかったが、ルーカスの瞳には確かな驚きが浮かんでいた。事の重大さを正確に測ろうとする兄の視線を受け止めながら、エリオは静かに頷く。

 

「ああ。表向きは水源確保の実験と偽って、装置の核に彼の極上の精霊魔法を付与してもらった。結果として、教会が多額の寄進と引き換えに授ける『聖水』に等しい水が出来上がったよ」

「王都随一の天才の魔法と、物理濾過の融合か。それほどのものが出来たのなら、十分な成果だろう」

 

 だが、エリオはそこで首を横に振った。

 深く息を吐き、自嘲するように笑う。

 

「ダメだったんだ、兄上。ルシアン様に協力してもらい、天才の魔法を注ぎ込んで作った水でさえ、あいつが山で作った水には到底及ばなかった」

 

 ルーカスが、わずかに息を呑む気配がした。

 

「ルシアン様の魔法を使っても、届かないというのか」

「ああ。セラが『ただの川の水です』と笑って差し出したあの一杯には、欠片ほども届かなかった」

 

 やがて、長男は試すような視線を弟へ向ける。

 

「お前はどう見ている、エリオ」

「再現不可能な現象だ」

 

 エリオは一切の迷いなく、はっきりと答えた。

 

「既存の技術でも、魔法でもない。あれはまさに『人智を超えた力』だ。……教会がありがたがってる『大昔の聖女様』って、たぶんあいつみたいなのだと思う」

 

 重い沈黙が降りた。

 深夜の部屋で、卓上のオイルランプだけが静かに辺りを照らしている。

ルーカスは視線を落とし、指先で机を軽く叩いた。コツ、コツ、と乾いた音が静寂に響く。

 

「厄介だな」

 

 ぽつりと呟いた長男の声には、確かな警戒が滲んでいた。

 

「非常に」

 

 エリオも深く同意する。

 奇跡の力。それは時に、どんな資源や兵器よりも危険な火種となる。

 ルーカスは椅子にもたれかかり、目を閉じた。

 

「知られてはいけない類のものだな。絶対に」

「同感だ。俺が持ち帰った分は完全に秘匿している。現時点で、外部への情報漏洩はないはずだ」

「……本当にそう言い切れるか?」

 

 ルーカスが鋭い視線で弟を射抜いた。

 

「あいつのことだぞ。山に入った冒険者や遭難者に、その『ただの水』や『ただのパン』を、善意でホイホイ振る舞っていない保証がどこにある」

 

 その言葉に、エリオの顔からスッと血の気が引いた。

 

「……やりかねないな。あいつなら絶対に」

「至急、冒険者ギルドや周辺の村を探れ。妙な回復をしたとか、山で奇跡を見たという噂が流れていないか確認するんだ」

「了解した」

 

 ルーカスは表情を引き締め、その冷徹な視線を完全に次期当主としての”判断者”のものに切り替えた。

 

「不審に思う者は必ず出るだろう。そうなれば、教会が動きはじめる」

 

 空気が一段と重くなった。

 

「異端として排斥されるか、教会の都合のいい道具として幽閉されるか。どちらにせよ、セラにとってろくな結果にならない。エリオ、明日すぐにでも護衛を連れて山へ向かえ。セラを連れ戻すんだ」

「いや、それはできない」

 

 兄の即断を、エリオはきっぱりと否定した。

 

「なぜだ。あいつが嫌がっても、引きずってでも連れて帰るべき状況だぞ」

「物理的に不可能なんだよ、兄上。あいつ、山でとんでもない番犬を手懐けてる」

「番犬? 熊や魔獣でも手懐けたというのか。だが、それくらい――」

「フェンリルだ」

 

 エリオが短く告げた瞬間。

 ルーカスの言葉が、ぴたりと止まった。

 

「……は?」

 

 常に冷静沈着な長男の口から、間の抜けた声が漏れた。

 

「白銀の毛並みを持った、山の主だ。セラは『ノクス』って名前までつけて、普通に隣に座らせてる。あいつが嫌がる事をすれば、俺たちどころか王都の騎士団が束になっても勝てる相手じゃないぞ」

「…………」

 

 ルーカスはしばらく動きを止めたのち、ゆっくりと両手で自分の顔を覆った。

 

「それに、あの神獣はセラにかなり甘い。俺がいない間も、ずっとそばで護衛をしてくれている。だから皮肉な話だが、この屋敷にいるより、山の主の結界が張られたあそこの方が、今は世界で一番安全なんだよ」

 

 沈黙が降りた。

 ランプの火が揺れる中、ルーカスは顔を覆ったまま深く、ひどく深く、息を吐き出した。

 

「セラは、本当に俺たちの妹か?」

「そうだな。信じたくない気持ちは痛いほど分かる」

 

 エリオは苦笑しながら、兄の肩を軽く叩いた。

 

「方針を決める」

 

 やがて顔を上げたルーカスの表情は、ひどく疲労していた。

 

「表向きは魔獣の生態調査にして、領主の権限で立ち入りの制限をかける。面倒な申請手続きを増やして時間稼ぎをするんだ」

「了解した」

「だが、エリオ」

 

 ルーカスは鋭い視線で弟を射抜く。

 

「お前がルシアン様を巻き込んだ以上、『ローエン家が優秀な浄水装置を作った』という事実はすでに上層部に知られているだろう。それに騎士団での一件だ。誤魔化せたと言ったが噂が広がるのを完全に止めることは不可能だと思え」

「……耳が痛いな」

 

 エリオは苦虫を噛み潰したような顔で、小さく肩をすくめた。

 

「いいか」

 

 ルーカスが机に両肘をつき、疲れた声で念を押す。

 

「公爵家や教会が本気で圧力をかけてくれば、うちの権力での封鎖などすぐに突破される。いいか、我々の目的はあいつを守ることだ。そして同時に、無知な連中が山を荒らし、フェンリルの怒りを買わないように国を守ることでもある」

「ああ、分かってる」

「あいつ、本当に何も分かってないんだろうな」

「分かってないな。自分の水がヤバいことも、隣にいるのが神獣なことも」

 

 すべての方針が決まり、エリオは苦笑交じりに口を開いた。

 

「自分の水がどれだけ価値があるか知ったら、たぶん『役に立つならあげる』って、そこらの石ころみたいに差し出すぞ」

「だろうな」

 

 ルーカスも呆れたように短く返し、深く息を吐いた。無欲で突拍子もない妹の姿は、容易に想像がついた。

 だからこそ、余計に厄介なのだ。

 

 「お前は明日、朝一でギルドと周辺の村を探れ。これ以上、妙な噂が広まる前に手を打つぞ」

「了解した。……父上にはどう伝える?」

「俺から報告しておく」

 

 ルーカスは机に置かれた書類の束を軽く揃えながら、事もなげに言った。

 

「余計な心配をかけないよう、都合の悪い部分は伏せて上手く伝えておこう。……まったく、仕事がまた一つ増えたな」

「すまない、兄上。頼りにしてるよ」

 

 エリオが頭を下げて退出すると、執務室には再び静寂が降りた。

 深夜の部屋で、光量を絞った卓上の魔導ランプだけが、机の上を静かに照らしている。

 

 窓の外。遠くに、夜闇に沈む山の稜線が見える。

 あの奥にある”本物の奇跡”を、王都はまだ知らない。だが、気づく者は確実に増えている。

 

 知られてはいけない。あの山も。あの水も。

 そして――何も知らずに山で暢気に過ごしている、大切な妹のことも。

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