第28話 父が倒れた夜
その夜、エリオは自室で書類仕事に追われていた。
騎士団の訓練記録、来月の予定、細々とした報告書。山から戻って以来、溜まりに溜まったそれらを片付けていると、廊下に慌ただしい足音が響く。
直後、扉が強く叩かれた。
「エリオ様……! 旦那様が……!」
切羽詰まった使用人の声が、かすかに震えていた。
父の部屋へ駆けつけると、ベッドに横たわる父のアルベルトの傍らで、母がすがりつくようにして付き添っていた。
「父上! ……母上、いつからですか?」
「夜になってから、急に胸が苦しいと言い出して……。すぐに主治医に診せてもらったのだけど、気休めの薬を出されるだけで、一向に良くならないの……」
母が涙声で答える。ベッドの上の父は顔面を蒼白にしながら浅い呼吸を繰り返し、胸を押さえる手はかすかに震えていた。
医者の薬が効かないとなれば、すがるのは人智を超えた力だけだ。
「聖女様を呼びますか……?」
使用人の一人が、おそるおそる口を開いた。
近頃、王都では“百二十年振りに現れた聖女”として、イザベラの名が広く知れ渡っている。
痛みを取り除く奇跡の力は上位貴族たちの間でも評判となり、診療を願う者は後を絶たなかった。
だからこそ、この場にいる誰もが、最後に縋るべきは彼女しかいないと思っていた。
エリオは少しだけ間を置いた後、重々しく頷いた。
「……ああ。すぐに教会へ使いを走らせてくれ。だが、到着には時間がかかるだろうな」
「しかし、旦那様がこんなに……!」
「今は夜更けだ。それに最近の聖女様は上位貴族からの指名も多く、順番待ちだと聞く。すぐには動けないだろう」
冷静にそう口にしながらも、エリオの内心は別の疑念で渦巻いていた。
長男であり次期当主のルーカスは現在、遠征で王都を離れている。不在の兄に代わり、今ここで決断を下せるのは次男の自分しかいなかった。
ここ最近、父は何度か聖女イザベラの治療を受けている。
確かに治療を受けた直後は、驚くほど楽になるのだ。
痛みが嘘のように消え、顔色まで良くなる。
だが数日も経てば、再び症状はぶり返す。
それどころか、以前より発作の間隔が短くなっているようにさえ思えた。
(聖女の治療……本当に、父上のためになっているのか?)
そんな不信感を抱き始めているからこそ、ただ到着を待っているわけにはいかなかった。エリオは部屋の隅へ退き、思考を巡らせる。
カバンの中には、セラが作った濾過装置を通した『あの水』がある。山から持ち帰って以来、ずっと手放せずにいたものだ。
あの水がただの水ではないことは、エリオ自身が身をもって体感している。飲めば瞬時に体に染み渡り、疲労が嘘のように消し飛び、騎士団の訓練でもあり得ない好成績を叩き出した。
しかし、これは父の命に関わることだ。いくら双子の妹とはいえ、セラに断りもなく勝手に使っていいものだろうか。
いや。エリオは静かに息を吐いた。あいつが知ったら、何て言うだろうか。
――『何でもっと早く使わなかったの』
呆れた顔でそう言い放つセラの姿が容易に想像できて、エリオは迷いを振り切り、カバンに手を伸ばしていた。
「母上、少し下がって休んでください。聖女様が到着するまで、私が水を飲ませて様子を見ます」
「……ええ、お願いね」
不安を押し隠せていない母と代わるように、エリオはベッドの脇へ腰を下ろした。
誰にも気づかれないよう、自然な動作で水差しにこっそりと例の水を混ぜ込む。
「父上、ゆっくり飲んでください」
「ああ……」
アルベルトは差し出されたグラスを何気なく受け取ると、ゆっくりと一口飲んだ。
特に何かを口にするわけでもなく、ただ、もう一口喉を鳴らす。エリオは黙ってその様子を見守った。
しばらくして。
「なんだ? 少し楽になった気がするな……」
アルベルトがぽつりと呟いた。
「休んだからでしょう」
エリオが何気ない顔で返すと、父は深く息を吐いて目を閉じた。先ほどまでの苦しげな様子は完全に消え去り、呼吸が穏やかに落ち着きを取り戻している。
エリオは椅子を引いて父の傍らに座り直し、静まり返った部屋の中でじっと様子を窺った。
「セラは、ひとりで大丈夫なのか」
唐突な父の問いかけに、エリオは短く「大丈夫ですよ」と返す。
「無茶してないといいがな」
「してます。……と言いたいところですが、俺がちゃんと監督しているので安心してください」
「そうか……ならいいが」
父は少しだけ苦笑して、再び目を閉じた。その顔は、先ほどまでの発作が嘘だったかのように穏やかになっている。
エリオは水差しをそっと一瞥した。
娘を想う父を、当の娘が知らないうちに救っている。セラ本人は自分の作った水がこんな奇跡を起こしているなど露知らず、今頃は山で焚き火でもしながらのんびりしているのだろう。
まったく。呆れているのか笑いたいのか、自分でもよく分からない感情を抱きながら、エリオは小さく息を吐いた。
翌朝。
「今日は調子がいいな」
アルベルトは昨夜の死にそうだった姿などすっかり忘れたように、すっきりとした顔で朝食の席についていた。
「昨夜は心配しましたよ」
「そうか? 心配させて悪かったな。もうすっかり良くなったよ」
けろりとしている父に、エリオは何も言わなかった。
以前、イザベラの治療を受けた直後も「楽になった」と父は口にしていた。
だが今回の回復は、それとはどこか違って見えた。
ただ、カップに口をつけながら窓の外、遠くに見える山の稜線を見つめる。
(セラ……お前、本当に何者なんだ)
声には出さず、心の中だけで静かに呟いた。
そして数日後。
遠征から戻ったばかりの長男ルーカスの部屋を、エリオは使用人たちに見られないようこっそりと訪れた。
父の不自然な回復と、双子の妹であるセラの規格外な力について、兄にすべてを打ち明けるために。
「兄上、今いいか?」
二人きりになった途端、エリオは肩の力を抜き、真っ直ぐに兄を見据えて切り出した。
「……どうした。こんな夜更けに」
ルーカスは相変わらず硬い表情を崩さなかったが、手にしていた羽ペンを静かに置き、弟の言葉を聞くためにしっかりと向き直った。
「父上のことと……セラのことで、話がある」




