第3話 思ってたより全然しんどい
山に入って最初に思ったのは、整備された登山道がいかに偉大だったか、ということだった。
足場は悪い。枝は顔に当たる。地面はぬかるんでいて、一歩踏み出すたびに靴が沈む。
「……しんど」
それでも。
木々の隙間から差し込む光が、地面にまだらな影を作っている。葉が揺れるたびに、土と草の匂いが鼻をかすめる。
「……あー」
ふっと、体の力が抜けた。
これだ、と思った。しんどいのに、嫌じゃない。この感覚を、ずっと忘れていた気がする。
「やっぱ好きだわ」
思わず笑いながら、また一歩踏み出す。
◇
しばらく歩いて、開けた場所を見つけた。
木々が少し間隔を空けていて、地面も比較的平らだ。日当たりもいい。
「……ここでいいかな」
荷物を下ろして、周囲を見渡す。
日が傾いてきていた。やれることから片付けた方がいい。
「とりあえず、火だな」
枝を集め始める。乾いていそうなものを選んで、地面に並べていく。
思い返せば、記憶が戻る前からやっていた。
夢で見たような気がして、枝を削って摩擦で火を起こそうとしたこともあった。何度やっても煙が出るだけで、結局うまくいかなかった。そのうち石を使うやり方を試して、ようやく小さな火種が出た時は、使用人に大騒ぎされて止められた。
でも、やり方だけは体に染み込んでいる。
ナイフを取り出し、石を拾う。
「……マッチ、ないよね」
当たり前だ。
「作れる気もしないな」
即諦めて、石を打ち合わせる。
カチン。カチン。
何度繰り返しても、火花はほとんど出ない。
「……いや、無理かな、これ」
ため息をついて、ふと手のひらを見る。
「……あ、そういえば」
そういえば、この世界には魔法がある。使えるかどうかは別として。
指先に意識を集中する。
――ぽす。
小さな火が、一瞬だけ出て消えた。
「……弱っ」
もう一度。ぽす。消える。
「安定しなさすぎるでしょ」
眉をひそめて、結論を出す。
「……使えないな、これ」
やっぱり普通にやるしかない。
……分かってたけどね。
最初から分かってたけどね。
石を打つ。カチン。カチン。
何度も繰り返す。指先が少し痛くなってきた頃、小さな音がした。
「……ん?」
小さな火種が、枝の先に移っていた。
思わず動きを止める。火は、消えない。じわじわと、確かに広がっていく。
「……ついた?」
しばらく見つめて、ゆっくりと息を吐いた。
「……っしゃ」
小さく拳を握る。
その火は、思ったよりも安定して燃えていた。
――その時、ほんの少しだけ風が吹いた。炎が揺れて、まるで何かに育てられるようにじわりと大きくなる。
違和感が一瞬だけ胸をかすめる。
けれど。
「……いい感じ!」
そのまま気にせず、火の前に腰を下ろした。
ぱち、と小さく薪が弾ける。
じわじわと広がる熱が、冷えていた指先に戻ってくる。
「……あ」
ふと、思い出した。
「……ご飯」
そういえば、朝からほとんど何も食べていない。
空腹を感じていなかったのは、多分、久しぶりの感覚に浮かれていたせいだ。
荷物を引き寄せて、中を探る。
布に包んでいたものを取り出すと、ほんのりとした香りが広がった。
「サンドイッチか」
出発前に、用意されていたものだ。
……たぶん、兄様だ。
あの人、ああいう顔してるくせに、妙なところで世話がいい。
頼んだ覚えはないけど、見ていれば分かる。
「……ほんと、分かりにくいんだよなあ」
指先で軽く押すと、まだ少し柔らかい。
一口かじる。
思ったよりも、ちゃんと美味しかった。
肉と野菜を挟んだだけの、シンプルなもの。
だけど、疲れた体にはそれで十分だった。
もぐもぐと咀嚼しながら、ぼんやりと火を見つめる。
ぱち、とまた音が鳴る。
――不思議だ。
同じ食べ物でも、場所が違うだけでこんなにも違う。
屋敷の中で食べていた時は、味なんてほとんど覚えていなかったのに。
「……外で食べると、美味しいんだな」
ぽつりと呟く。
サンドイッチを食べ終えて、次に手に取ったのは固めのパンだった。
せっかくだし軽く炙ってみる。
表面が少しだけ色づいて、香ばしい匂いが立ちのぼる。
「……いい感じ」
かじると、外は少しだけ固くて、中はまだ柔らかい。
いつもよりも、ずっと美味しく感じた。
山の中は静かだった。
風の音と、火の音と、虫の声、自分が何かを食べる音だけだ。
「……」
ふと、手が止まる。
「……一人で食べるの、久しぶりかも」
前の人生を思い出す。
仕事の合間に、こっそり屋上に上がって。
人のいない場所で、風に当たりながらぼんやりするのが好きだった。
手すりにもたれて、適当に買ったパンをかじりながら、ただ景色を眺める。
忙しい日ほど、あの時間が妙に落ち着いた。
誰かと話すわけでもなく、何かをするわけでもなく。
ただ、外の空気を吸っているだけなのに。
「……ああ」
なんだか、妙にしっくりきた。
今の自分は、ちゃんと“ここにいる”気がする。
食べ終えて、手を軽く払う。
火のそばに残った余熱が、じんわりと体を温めてくる。
組んだばかりのはずの火は、不思議なくらい安定して燃えていた。
さっきまで湿っていたはずの枝も、もう音を立てて乾いている。
火力も落ちる気配がなく、均一に熱が広がっているのが分かる。
――こんなにうまくいくものだっけ。
一瞬だけそう思って、すぐに首を振った。
「……まあ、ラッキーってことで」
深く考えることもなく、視線を外す。
「……さて」
小さく息を吐いて、立ち上がる。
次は寝床だ。
周囲を見回す。地面、木、枝。
「……地面は、嫌だな」
即決だった。湿っているし、虫も気になる。
「じゃあ――上か」
木を見上げる。ふたつの幹が、ちょうどいい間隔で並んでいた。
布を取り出して、幹と幹の間に結びつける。体重をかけると、ぎし、と音がした。
「……あ、ちょっと怖いな」
ゆっくり乗ってみる。
――ぐら。
「おっと」
バランスを崩して、そのまま地面に落ちた。
「……痛っ。これはダメだ」
もう一度やり直す。
結び方を変えて、高さを調整して、張り方を工夫して。数回繰り返した末に、ようやく安定した。
「……これかな」
恐る恐る乗ると、ぎし、ぎしと鳴きながらも今度はちゃんと体を受け止めてくれた。
「……いけるな」
仰向けになって、空を見上げる。木の隙間から夜空が見えた。星が、思ったよりずっと多かった。
……すごい。
こんなに見えるんだ。
風が吹く。ハンモックが、ほんのりと揺れる。
その揺れが、不思議なくらい優しかった。さっきまでのぎこちなさが、嘘みたいに消えている。
「……疲れた」
小さく息を吐く。体中が重くて、瞼も落ちてくる。
「でも」
口の端が、自然と上がった。
「楽しいな」
そのまま、ゆっくりと意識が落ちていった。
◇
少し離れた場所。木の影に、ひとつの人影があった。
「……普通にやってるな」
しばらく眺めて、小さく息を吐く。
「……なんだ、あれ」
火の燃え方も、風の流れも、ほんのわずかに自然じゃない。
だが、それに気づいていない様子が、余計に奇妙だった。
影は、静かにその場に腰を下ろした。
視線だけは、ずっとセラに向いたままだった。




