第2話 とりあえず山に行こうと思う
何日か眠っていた間に、少し体が鈍ってしまった。
けれど痛みはすっかり無くなり、今は散歩をして体を慣らしている。
昔から、何故か怪我の治りは早かった。
今回もまあ、そういうものなのだろう。
目が覚めてからというもの、私はずっと山のことを考えていた。
あの風の抜ける感覚。登りきった瞬間に広がる景色。
ああ、体がちゃんと覚えている。
山道を登っている最中は息が上がるし、足は重くなるし、途中で何度も「帰りたい」と思う。
それでも、登りきった瞬間に風がすっと抜けていく。
一気に視界が開けて、眼下に広がる景色が目に飛び込んでくるあの感じ。
思い出した瞬間、胸が少しだけ弾んだ。
「あー、これ」
思わず、笑いが漏れる。
「めっちゃ好きなやつだ」
しんどさも、そのあとの気持ちよさも。
しんどいからこそ、気持ちいい。
全部ひっくるめて、ただひたすらに楽しかった。
ああ、そっか。私、これが好きだったんだ。
元登山部の血が騒ぐ、ってやつだ。
視線が、窓の外の遠くの山へと向く。
さっきまでただの景色だったそれが、急に"行きたい場所"に変わっていた。
「いいな、山」
と、そこまで考えて、ふと手が止まる。
今の自分の部屋を見渡してみる。当たり前だけど、あるのは貴族の生活用品ばかりだ。
テントもなければ、ランタンもない。保存食も、火を起こす道具も、何もない。
「さすがに無理かな、これ」
前の人生とは違うのだ。整備された登山道なんてないし、親切な目印もない。
そもそも魔物がいる。
現実が、じわじわと重くのしかかってくる。
普通に考えれば、やめるべきだ。
準備をして、情報を集めて、安全を確保してからって分かってる。ちゃんと分かってる。
視線が、また遠くの山に向く。
あの空気。あの景色。あの達成感。
それを思い出してしまったら――。
「あー! 行きたい!」
小さく息を吐く。
分かってるけど、でも。だからって諦められるほど軽いものでもない。
「じゃあ、せめて最低限の準備でも始めよう」
決めた瞬間、迷いは消えた。
ああ、もういいや。
どうせ止められるし、どうせ反対される。
だったら、先に動いた方が早い。
◇
屋敷の倉庫に自ら足を運び、使えそうなものを片っ端から引っ張り出す。
布、ナイフ、水、簡単な食料。
あとは使えそうな袋とか紐とか、適当に。
適当って言ったけど、割とちゃんと選んでいる。
たぶん。
「こんなもんかな」
完璧とは言えない。
でも、何もないよりはマシだ。
たぶん。たぶん大丈夫。
「セラお嬢様、また変なことしてるらしいわよ」
「え、今度は何?」
「山に行くって言ってるらしくて……」
「誰も止めないの?」
ひそひそとした声が、廊下の向こうから聞こえてくる。
あ、これ絶対私のことだ。
まあ、いいけど。もう慣れたし。
どうせ何しても言われるなら、好きにした方がいい。
「……ですが」
その中に、ひとつだけ聞き慣れた声が混ざる。
ぴたりと、手が止まる。
「セラお嬢様には、しばらく離れていただいた方が、都合のいい方もいらっしゃいますから」
それは、アリシアの声だった。
彼女は確か、公爵家から紹介されてやってきた優秀なメイドだったらしい。その背景があるせいか、この屋敷でも他のメイドたちに慕われているようだった。
「おっしゃる通りですわ、アリシア様。お嬢様には、このまま……」
「ええ。ですから、ご自身で勝手に出て行ってくださるのが一番なのです」
へりくだって同調するメイドの声に、アリシアが優越感たっぷりに答える。
……イラッ。
思わず、眉間に思いきり皺が寄った。
都合がいい? 勝手に出て行くのが一番?
問い詰めようとしたけれど、その前に足音が遠ざかっていく。
廊下はすぐに静まり返った。
……そっか。そういうことか。
すとん、と冷たいものが腹の底に落ちるのと同時に、ふつふつと呆れが湧いてきた。
私がいない方が都合がいい?
それはつまり、この数日の妙な孤立は偶然じゃなくて、「私をこの家から追い出すために、意図的に動いている人間がいる」ということだ。
付き合いはそこまで長くはないけれど、親身になって色んなことを教えてくれた、優しい人だと思っていたのに。
あの時、私が「読んで」と頼んだとはいえ、あんな内容の手紙を家族全員の前で最後まで読み上げるのをやめなかったのも。
婚約破棄されてからというもの、メイドたちが一斉に寄り付かなくなったのも。
全部、誰かの指示だったんだ。
繋がった。
少しだけ、胸の奥がきゅっと痛んだ。
けれど、同時に妙に頭は冷静だった。いや、それ以上に鬱陶しさが勝る。
「……面倒くさ」
思わず本音が口からこぼれた。
誰の指示で動いているのかは知らないけれど、自分の家の中で見えない敵の思惑を気にしながら生きるなんて、絶対に嫌だ。
それに、こんなドロドロした陰謀の渦中にいたら、家族にまで変な迷惑がかかるかもしれない。
「長居は無用だね」
ショックを受けて立ち止まっている暇はない。
むしろ、家を出る前にこの事実を知れてよかった。これでもう、この家に留まる理由なんてなくなったのだから。
再び歩き出した私の足取りは、さっきよりもずっと軽くなっていた。
◇
「お姉さま、凄い荷物だね! なにしてるの?」
振り返ると、フィンが立っていた。
六歳の末弟だ。ピンクアッシュの髪に、ヘーゼルの大きな瞳。顔立ちは母親譲りで、見ているだけで顔がほころぶような可愛さがある。
「準備」
「じゅんび? どこいくの?」
「山に行こうかなって」
フィンの瞬きが、ぴたりと止まった。
「やま?」
「うん」
「すぐ帰ってくる?」
「んー、まだ決めてないよ」
「えっ」
分かりやすく固まってる。
「お山にはお家あるの?」
「木の下とかで寝たら気持ちよさそうじゃない?」
フィンの顔が、みるみる歪んでいく。
あ、これはまずいやつだ。
「やめた方がいいと思う」
「そう?」
「ちょっと待ってて!」
ぱたぱたと走り去っていく。
あー、呼びに行ったな。
まあ、来るよね。知ってた。
◇
「兄様! 早く止めて!」
勢いよく扉が開く。
フィンに引っ張られるようにして、長男のルーカスが入ってきた。
グリーンアッシュの髪に緑の瞳。兄弟で唯一、父親似だ。
部屋の中を一瞥して、ルーカスは眉をひそめた。
「何をしている」
「山に行く準備」
「何故だ」
「気分転換とか? ほら、私すっかりやる事もなくなっちゃったし?」
一応明るく振る舞って笑顔で応えてみたが……沈黙。とても空気が重たい。
「ふざけるな!」
おぉ、怖い。一瞬で、空気が張り詰める。
「そんな軽々しく言うが、何をしようとしているか分かっているのか」
淡々としているのに、圧が強い。
「整備された山でもなければ、安全も保証されていない。魔物も出る。遊びで行くような場所じゃない」
正論。めちゃくちゃ正論。でも、そんな事で諦められない!
「ちゃんと考えたよ! 危ないし、普通はやらないよね。でも、行きたいの。もう決めたの」
ルーカスの目が、細くなる。
「無茶だ」
「ごめんねっ!」
即答し過ぎて呆れられたかな。
沈黙の後、少しだけ空気が緩んだ。
ルーカスが小さく息を吐いた。
「ここ数日大人しくしていると思ったら、メイドを使ってこそこそ準備をしていたというじゃないか」
「バレてた?」
「当たり前だ」
「そっかー」
ですよね? 筒抜けでしたか……
また沈黙だ。
フィンが不安そうに見上げる。
「兄様……」
ルーカスは懐から小さな護符を取り出し、無造作に投げた。
「魔物避けだ。持っていけ」
「へえ、ありがと!」
「死ぬな。面倒だ」
それだけ言って、踵を返す。
フィンが慌ててついていきながら振り返る。
「お姉さま、気をつけてね」
「うん、大丈夫」
小さく手を振った。
◇
準備を終えて、部屋を出る。
廊下を進み、屋敷の外へ。
門をくぐる。
振り返らない。
何だかんだ家族は私に優しい。振り返ったら、たぶん戻ってしまう。
だから、見ない。
怖くないわけじゃないし、不安がないわけでもない。
でも。
「楽しみだな」
そう思うと少しだけ笑みが溢れた。
◇
「あれ、マジで行くんだ」
少し離れた場所から、その背中を見ている影があった。
呆れたような声。
「面倒なことを」
壁に寄りかかりながら、小さく息を吐く。
「まあ、適当に見るか」
影は静かに動き出す。
誰にも気づかれないままその後を、追った。




