第2話 とりあえず山に行こうと思う
何日か眠っていたようで、少し体が鈍ってしまった。
けれど痛みはすっかり無くなり、散歩して体を慣らしている。
昔から、何故か怪我の治りは早かった。
今回も――まあ、そういうものなのだろう。
目が覚めてからは、ずっと山のことを考えていた。
あの風の抜ける感覚。登りきった瞬間に広がる景色。
ああ、と思う。
体が、覚えている。
山道を登って、息が上がる。足は重くなるし、途中で何度も「帰りたい」と思う。
それでも。
登りきった瞬間、風が抜ける。
一気に視界が開けて、眼下に広がる景色が目に飛び込んでくる。
あの感じ。
思い出した瞬間、胸が少しだけ弾んだ。
「……あー、これ」
思わず、笑いが漏れる。
「めっちゃ好きなやつだ」
しんどさも、そのあとの気持ちよさも。
しんどいからこそ、気持ちいい。
全部ひっくるめて、楽しかった。
――ああ、そっか。
私、これが好きだったんだ。
元登山部の血が騒ぐ、ってやつだ。
単純に。ただ、好きだった。
視線が、窓の外の遠くの山へと向く。
さっきまでただの景色だったそれが、急に"行きたい場所"に変わっていた。
「……いいな、山」
◇
と、そこまで考えて。
ふと、手が止まる。
「……いや、待って」
今の自分の部屋。当たり前だけど、あるのは貴族の生活用品ばかりだ。
テントもなければ、ランタンもない。
保存食も、火を起こす道具も、何もない。
「……いや、無理かな、これ」
ぽつりと呟く。
前の人生とは違う。
整備された登山道なんてないし、目印もない。
そもそも――
「魔物、いるんだよね」
さらっとした事実が、じわじわと重くのしかかる。
少し、黙る。
普通に考えれば、やめるべきだ。
準備をして、情報を集めて、安全を確保してから。
そういうものだ。
分かっている。
ちゃんと分かっている。
「……」
視線が、また遠くの山に向く。
あの空気。
あの景色。
あの達成感。
それを思い出したら――
「……行きたいんだよなあ」
小さく息を吐く。
分かってるけど、でも。
分かってるけど、だからって諦められるほど軽いものでもない。
「……じゃあ、せめて」
ぽつりと呟く。
「最低限の準備くらいは、するか」
決めた瞬間、迷いは消えた。
ああ、もういいや。
どうせ止められるし、どうせ反対される。
だったら――先に動いた方が早い。
◇
屋敷の倉庫に自ら足を運び、使えそうなものを片っ端から引っ張り出す。
布。ナイフ。水。簡単な食料。
あと使えそうな袋とか紐とか、適当に。
……適当って言ったけど、割とちゃんと選んでる。
たぶん。
「……こんなもんか」
完璧とは言えない。
でも、何もないよりはマシだ。
たぶん。
たぶん大丈夫。
たぶん。
「セラお嬢様、また変なことしてるらしいわよ」
「え、今度は何?」
「山に行くって言ってるらしくて……」
「誰も止めないの?」
ひそひそとした声が、廊下の向こうから聞こえてくる。
……あ、これ絶対私のことだ。
まあ、いいけど。
もう慣れたし。
どうせ何しても言われる。
だったら好きにした方がいい。
「……ですが」
その中に、ひとつだけ聞き慣れた声が混ざる。
ぴたりと、手が止まる。
「……セラお嬢様には、しばらく離れていただいた方が、都合のいい方もいらっしゃいますから」
一拍。
沈黙。
「……え?」
思わず、声が出た。
今の。
今の、アリシアの声。
なんで?
どういう意味?
考えようとしたけど、その前に足音が遠ざかっていく。
廊下はすぐに静まり返った。
……聞き間違い?
いや、そんなはずはない。
でも。
「……まあ、いっか」
考えても分からないことは、考えても分からない。
それに――
ちょうどいい。
どうせ出ていくつもりだった。
◇
「お姉さま、凄い荷物だね! なにしてるの?」
振り返ると、フィンが立っていた。
六歳の末弟だ。ピンクアッシュの髪に、ヘーゼルの大きな瞳。顔立ちは母親譲りで、見ているだけで顔がほころぶような可愛さがある。
「準備」
「じゅんび? どこいくの?」
「山に行こうかなって」
フィンの瞬きが、ぴたりと止まる。
「……やま?」
「うん」
「すぐ帰ってくる?」
「んー、まだ決めてないよ」
「えっ」
分かりやすく固まる。
「お山にはお家あるの?」
「木の下とかで寝たら気持ちよさそうじゃない?」
フィンの顔が、みるみる歪んでいく。
あ、これは。
まずいやつ。
「……やめた方がいいと思う」
「そう?」
「ちょっと待ってて!」
ぱたぱたと走り去っていく。
……あー、呼びに行ったな。
まあ、来るよね。
知ってた。
◇
「兄様! 早く止めて!」
勢いよく扉が開く。
フィンに引っ張られるようにして、ルーカスが入ってきた。
長男のルーカスだった。グリーンアッシュの髪に緑の瞳。兄弟で唯一、父親似だ。
部屋の中を一瞥して、眉をひそめる。
「……何をしている」
「山に行く準備」
「……何故だ」
「気分転換?」
軽く答える。
「ほら、私すっかりやる事もなくなっちゃったし」
沈黙。
空気が、少しだけ重くなる。
「ふざけるな」
低い声だった。
一瞬で、空気が張り詰める。
「そんな軽々しく言うが、何をしようとしているか分かっているのか」
淡々としているのに、圧が強い。
「整備された山でもなければ、安全も保証されていない。魔物も出る。遊びで行くような場所じゃない」
正論。
めちゃくちゃ正論。
でも。
「ちゃんと考えたよ」
軽く返す。
「危ないし、普通はやらないよね」
一拍。
「でも、行きたいの。もう決めたの」
ルーカスの目が、細くなる。
「……無茶だ」
「うん、知ってる」
即答。
沈黙。
少しだけ、空気が緩む。
ルーカスが小さく息を吐いた。
「……ここ数日大人しくしていると思ったら、メイドを使ってこそこそ準備をしていたというじゃないか」
「バレてた?」
「最初からだ」
「……そっか」
ですよね。
筒抜けでしたか。
また沈黙。
フィンが不安そうに見上げる。
「兄様……」
ルーカスは懐から小さな護符を取り出し、無造作に投げた。
「魔物避けだ。持っていけ」
「へえ、ありがと」
「……死ぬな。面倒だ」
それだけ言って、踵を返す。
フィンが慌ててついていきながら振り返る。
「お姉さま、気をつけてね」
「うん、大丈夫」
小さく手を振る。
◇
準備を終えて、部屋を出る。
廊下を進み、屋敷の外へ。
門をくぐる。
振り返らない。
……振り返ったら、たぶん戻る。
だから、見ない。
怖くないわけじゃない。
不安がないわけでもない。
でも。
「……楽しみだな」
ぽつりと呟く。
少しだけ、笑った。
◇
「……あれ、マジで行くんだ」
少し離れた場所から、その背中を見ている影があった。
呆れたような声。
「……面倒なことを」
壁に寄りかかりながら、小さく息を吐く。
「まあ、適当に見るか」
影は静かに動き出す。
誰にも気づかれないまま。
その後を、追った。




