第15話 初めて、安心して眠れる場所
あれから一週間。ロッジは、ようやく形になった。
「できた」
エリオが、少しだけ誇らしげに呟く。
木を組み上げた簡素な造りだけれど、壁は枝と泥で隙間を埋め、屋根は雨を弾くように厚く重ねてある。完璧ではない。それでも、確かに「家」だった。
「すごい! エリオ、天才じゃない?」
「天才じゃないけど、騎士見習いの設営訓練をなめるなよ。まあ、半分以上はお前の無茶な注文通りの設計だけどな」
私は中を覗き込む。思ったより広い。
寝るスペースもあるし、これなら雨の日でも濡れずに、集めた野草の整理ができそうだ。
「ちゃんと風も抜けるし、雨水が溜まらないように傾斜もついてる。満足か?」
「うん。なんだか、やっとここにいてもいいって、山に言ってもらえたみたい」
これまでは、ただ山に「お邪魔している」感覚だった。
でも、自分の手で作り上げた場所がある。それは、想像以上に私の心を落ち着かせた。
私はそう言って、少しだけ笑った。
◇
日が沈み、焚き火の火がゆらゆらと揺れている。
完成したばかりのロッジの中に入ると、外の風が少しだけ遠くなった。
「あったかい」
ぽつりと呟きながら、私は持ってきた丈夫な布とロープを取り出した。
「おい、セラ。何してんだ?」
エリオが不思議そうに覗き込んでくる。
「寝る準備。この柱、一番太いからちょうどいいかなって」
私はロッジを支える太い柱に、手慣れた様子でロープを括り付けた。あっという間に、宙に浮いた簡易ベッド――ハンモックの完成だ。
「……お前、家の中でもそれで寝るのか?」
「地面はまだ土だし、冷たいでしょ? 浮いてるのが一番合理的だよ」
私がひょいっと飛び乗ってゆらゆら揺れて見せると、エリオは呆れたように肩をすくめた。
「よくそんな不安定なところで寝れるな。……まぁいい、俺はそこらへんに草でも敷いて寝るから」
「ふふ、おやすみ。エリオ」
「ああ、おやすみ。……ちっ、明日には絶対にまともなベッド作ってやるからな」
横になると、屋根越しにかすかに木々の音が聞こえる。でも、直接風を受けることはない。
(思い切って山に来て、本当によかった)
二階のベランダから落ちて、前世の記憶が戻ってから。
私はもう、家の中で怪しい実験を繰り返す必要もなくなった。知りたいことの答えは、もう自分の中にあったから。
その代わり、知識として知っていた「山の匂い」や「夜の静寂」を、今は肌で感じている。
◇
目を閉じる。体の力が、すっと抜けていく。
その時、ふと気づく。怖くない。
夜の山は音が激しいし、何がいるか分からない。昨日までは、どこかで気を張っていた。
理由は、分かっている。
今は、頼りになる兄がいる。そして……
◇
ロッジの外。静かな夜。焚き火が、ぱちり、と小さく音を立てる。
「寝たか」
エリオが小さく呟く。
「ああ。寝息が聞こえる」
すぐ近くから、低い声が返る。
白銀の巨体。ノクスは静かに座り、周囲に意識を巡らせていた。焚き火の光を反射して、その蒼い瞳が深く、静かに輝いている。
(一週間一緒にいて、ようやく慣れてきたけどさ)
エリオは薪がパチパチと優しく燃える音を聞きながら、隣に座る巨体を盗み見た。
本来なら言葉を交わすことさえ許されない、山の主。一週間、共に作業をして分かったのは、この神獣が想像以上に妹に甘く、そして理知的だということだ。
だからこそ、聞いておきたいことがあった。
「なぁ、一つ聞いていいか。あんたみたいな存在が、なんであいつに構ってるんだ?」
エリオの問いに、ノクスはすぐには答えない。風が、静かに流れる。
「精霊どもが騒がしかった。あのような魔力を持たぬ個体に、なぜ連中が寄り添うのか。理由を知る必要があった」
「やっぱり、そうなのか。あんたから見ても、あいつは異質なんだな」
エリオは小さく息を吐いた。
ベランダから落ちて、あいつは変わった。婚約破棄を吹っ切ったのか、それとも頭を打った衝撃か。
もともとそういうやつだった。何かが頭に引っかかると上の空になって、思いついたことには片っ端から手をつける。話しかけても生返事、飯を食ってるのかもあやしい。別に暗いわけじゃない、ただ周りが見えなくなるだけだ。
それがあの日を境に、すっぱり消えた。
見たこともないほど清々しい顔で、あいつは「山に行く」と言い出した。
今のセラは、まるで何かに取り憑かれたように山を愛している。
「それで? もう理由は分かったんだろ。用が済んだなら、あんたがここに居続ける理由はないはずだ」
ノクスは、蒼い瞳をロッジの方へ向けた。
「理由はもうよい。だが、あれではいずれ死ぬ。魔力もなく、戦う術も持たぬ。それなのに、誰よりもこの山を理解しようとしている。理解できぬ、奇妙な生き物だ」
「だよな。あいつ、やめないんだ。前と違って今はあんな顔して笑うんだよ。だから」
言葉が続かなかった。守りたいとか、放っておけないとか、そういう言葉にするには少し気恥ずかしくて、エリオは口をつぐんだ。ただ、このまま無事でいてほしい、それだけははっきりしていた。
「ところで、昨夜我が一度戻ったとき、獣がうろついていたぞ。追い払っておいたが」
「あー……やっぱそういうことだよな。こっちも何度かな、弱いのは精霊のお陰で少ないようだが、一定の力を持ったやつは現れてるよな」
二人はしばらく黙った。言わなくてもわかる話だった。
エリオは一度だけ、夜の冷たい空気を深く吸い込んだ。
「お願いだ、ノクス。あいつを、守ってやってくれないか」
(俺一人じゃ、手が足りない)
エリオは自分の掌を見つめる。
自分には家の仕事や、任務があり、訓練もある。用事を済ませてはここに来るつもりだが、二十四時間ここで見張っているわけにはいかない。
あいつがここを居場所と決めたのなら。兄として、その場所の安全を確保するのが、今自分にできる精一杯の仕事だ。
「俺も来るが……でも、ずっとそばにいてやることはできない。あんたにしか、頼めないんだ」
ノクスはしばらく黙っていたが、やがて静かに立ち上がった。
「言われるまでもない。この山にいる限り、余の視界から外すつもりはない。貴公が来ぬ間も、余がここに居よう」
その言葉に、エリオの肩からふっと力が抜けた。神獣の言葉に嘘はない。その絶対的な保証が、何よりも欲しかった。
「そっか。あんたにそう言ってもらえるなら、少しは安心して家に帰れるよ。礼を言う」
「勝手に安心するな。余は余の都合でここにいるだけだ」
「はいはい。本当に、頼りにしてるよ」
エリオは小さく笑った。
厄介な妹を持ったものだと肩をすくめ、彼は夜の空を見上げた。
◇
夜は、静かに更けていく。
ロッジの中で、セラは深く眠っていた。今までで、一番穏やかに。
エリオは、外で焚き火がちろちろと燃える音を聞きながら、独り、思いを巡らせる。妹が手に入れた「自由」と、それを支える「蒼い瞳の守護者」。
自分が守るべきだと思っていた妹は、いつの間にか自分では到底届かないような存在を味方につけて、勝手に幸せになろうとしている。
それは少しだけ寂しくて、けれど、それ以上に誇らしかった。
◇
二人の寝息を、外から感じ取りながら。
ノクスは静かに目を閉じた。
――悪くない。
そう思った。
この場所も。この時間も。
焚き火の火の粉に混じって、淡い光の粒がいくつか漂い始めていた。
それは、新しく生まれた「家」に誘われたのか、あるいは中に眠る少女の気配に惹かれたのか。
誰も気づかないほど、小さな存在たちが。




