第13話 山の主と距離が近いのは普通じゃないらしい
久しぶりにドーナツを食べたら、満足感がすごい。甘味もやっぱり必要みたい。今は三人で焚き火を囲んでいる。客観的に見て、変なメンバーだ。
「……いや、やっぱりおかしいって」
エリオがぽつりと呟く。
目の前には、白銀の巨体。その隣に私。今はエリオのために肉を焼いているところだ。
「何が?」
「全部」
即答された。
私は首をかしげる。
ノクスは気にした様子もなく、じっと火を見ていた。
「まず距離。近い。近すぎる。というかセラ、それ当たってるぞ」
「そう?」
「そうだよ。普通、フェンリルは人間の隣に座らない。……っていうか、座らせてもらえない」
「座ってるけど」
「それが普通じゃないって言ってるの!」
エリオは頭を抱えた。
少し離れた場所に移動しようとして、やめた。ノクスが一瞬だけこちらを見たからだ。
「……なんであの距離で平然としてられるの」
「慣れた」
「慣れるものなの!?」
私は肉をひっくり返す。じゅうっ、といい匂いが広がる。
「はい、エリオ。焼けたよ」
「ありがと」
受け取ったエリオが口をつける、その前に――。
隣から、ひょいともう一枚が消えた。
「あ、今、取ったよね?」
私は叱るようにノクスの鼻先を指差した。
王国の軍隊が総出でも勝てないと言われる神獣を、まるでマナーの悪い飼い犬のように。
「余の分だ」
「さっき食べたよね?」
「追加で焼いてくれたのであろう?」
「それエリオの分だよ。」
「セラ、もういいよ、俺は次ので……」
エリオはゆっくりと視線を上げる。ノクスと目が合う。ほんの一瞬。
(――冷たい汗が背中を伝う。伝説の魔獣の眼光。睨まれただけで心臓が止まりそうなほどの威圧感だ。……なのに、その口には焼き立ての肉がぶら下がっている。威圧と間抜けさが同時に成立してるの、意味が分からない)
先に目を逸らしたのは、エリオの方だった。
「……勝てる気がしない」
「何に?」
「色々」
エリオは小さく首を振る。
ノクスは知らんぷりで肉を食べ続けている。
私はしばらくその様子を眺めた。
(……なんであんなに満足げなんだろう。ただの肉なのに)
エリオはため息をつきながら、次の一枚が焼けるのを切なそうに待っている。その横で、ノクスはこれ見よがしに「ふん」と鼻を鳴らし、エリオを一瞥してから最後の一口を飲み込んだ。
「というかさ、ノクス」
「うん?」
「なんでさっきから、そんなに勝ち誇った顔してるの?」
ノクスは何も答えない。
だが、その青い瞳は明らかに、エリオより優先されたことを楽しんでいる。
「……肉一枚で、全力のマウント取られた……」
「そんなことないよ? ノクスはただお腹空いてるだけだよ」
「あるよ。めちゃくちゃあるから。っていうかセラ、今の指差し確認、心臓に悪いからやめて」
エリオは深いため息をつく。
(――ただの肉じゃない。フェンリルが人間に『それ、俺のだから』って所有権を主張するなんて、歴史書のどこにも書いてない。懐くどころか、もう完全にセラの身内みたいな顔をしてやがる)
「やっぱりおかしいって、その関係……」
◇
食事が終わる頃には、少しだけ空気が落ち着いていた。
エリオも、完全には慣れていないものの、最初ほどの動揺はない。
「……で、セラ」
「なに?」
「ここで、ずっとやっていくつもり?」
「うん」
迷いはなかった。
エリオは少しだけ目を細める。
「……危ないよ」
「うん」
「分かってる?」
「分かってるよ。そのくらい覚悟して来たし」
少し間を置いて。
「それに、最近ノクスが来てくれるから」
私は火を見つめたまま、少しだけ笑った。
「楽しいんだよね」
エリオは何も言えなかった。
セラがこんな顔をするのを、久しぶりに見た気がした。屋敷にいた頃とは、どこか違う。もっと、のびのびとしている。
――。
ノクスは、黙ってその言葉を聞いていた。
危険も、分かっている。それでもここにいると決めた人間。
愚かだ。だが、嫌いではない。
風が吹く。火が、揺れる。
セラは何も気にせず、薪を足した。その動きに、無駄はない。
だが、そのままではいずれ限界が来る。魔力がない以上、対処できない事態は必ずある。精霊が助けるにも、限度があるーーならば。
「ここに、結界を張る」
エリオの動きが止まった。
「……は?」
「簡易的なものだ。だが、低位の魔物程度なら寄せつけぬ」
「え、そんなことできるの?」
「それくらい容易い」
ノクスは静かに立ち上がる。
空気が、変わる。風が止まり、森が息を潜める。淡い光が、ノクスを包む。
エリオは思わず息を呑んだ。
「……嘘だろ。これ、本物の結界術かよ」
エリオの知る限り、結界術とはもっと大がかりなものだ。
王都の魔術師団が何人も集まり、複雑な魔方陣を描き、膨大な魔力を注ぎ込んでようやく構築するものだと聞いたことがある。
それを、目の前の主は、ただ静かに立ち上がっただけで成し遂げようとしている。
詠唱すらなく、まるで呼吸でもするかのような自然さで。
(……とんでもねえな。俺たちは、一体何と焚き火を囲んでるんだ?)
ノクスの足元から、見えない波動が広がっていく。
地面をなぞるように、円を描くように。
やがて、それは静かに消えた。
「これでいい」
何事もなかったかのように、ノクスは座り直す。
セラはきょとんとしていた。
「……終わったの?」
「ああ」
「すごいね。便利そう」
「当然だ」
エリオは、まだ固まっていた。
「……いや、ちょっと待って」
「なに?」
「フェンリルが、普通に結界張ったんだよ?」
「うん、助かるね」
「“うん”じゃない!」
セラは少し考えて、にこっと笑った。
「安全になったね。ここでの生活も」
「そういう問題じゃないんだって……」
エリオは頭を抱えた。
ノクスは何も言わない。ただ静かに目を閉じた。
これで、多少はマシになる。それだけのことだ。
理由は、それで十分だった。
◇
風が、やわらかく吹いた。木々が揺れる。その中に、いくつかの小さな光が混じる。
――ねえ、見た?
――うん。
――あの狼、結界張ったよ。
――すごいね。
――あの人間のために?
――たぶん。
少しの沈黙。
――やっぱり、好きなんだね。
――うん。
光はくすくすと笑うように揺れて、また森の中へと消えていった。
◇
「セラ」
「なに?」
「……あのさ」
エリオは少しだけ真面目な顔になる。
「しばらく、俺もここに来るわ」
「え?」
「お前を見てないと、色々心配だからな。それにここに住むなら、もうちょっと整えないとだめだ。……大工仕事くらいは手伝ってやる」
私は少し考えて、笑った。
「いいの? 助かる!」
「……別に、礼を言われるほどのことじゃないし」
「楽しくなるね! 賑やかなのもいいよね」
エリオは呆れたようにため息をついた。
でも、その顔はどこか楽しそうだった。
傍らで聞いていたノクスが、鼻先でフンと息を鳴らす。
ノクスは何も言わない。ただ、そこにいる。
それが、もう当たり前になりつつあった。




