第12話 山の主の日課
夜明け前に、獲物を置いた。
セラが喜ぶかもしれない。それだけだ。
しばらくして、セラが目を覚ます。ハンモックから降りて、獲物に近づいて。
「またこんなに。なんかお供え物みたいだね」
お供え物――この娘は、いつもどこかズレている気がする。
返答に困るのだが。
◇
余は長く生きた。
この山に何百年と在り続け、人間というものをよく知っている。
欲深く、自然を壊し、精霊を利用したがる。いつの時代も、そういうものだった。ただ、ひとりを除いて。
だから最初は、この人間も同じだと思っていた。
だというのに。
精霊が嫌がることを、しない。
それだけのことだが、今の人間にはできない。なのにこの人間は、当たり前のようにやる。だから精霊が集まる。理屈としては、分かっている。
調査は、とうに終わっているはずだった。
それでも――
気づけば、また足が向いていた。
理由など、分かっている。
分かっていて、認める気がないだけだ。
◇
セラが振り返った。
「ノクス、今日も一緒に食べるよね? 違うの作ろうと思ってるの。楽しみにしててね」
「何を作る」
「まだ秘密」
セラが笑う。
余は長く生きた。人間の笑い方など、見飽きるほど見てきた。
だというのに。
この笑い方は、なぜか目に残る。
「楽しみにしている」
口から出た言葉に、自分でわずかに驚く。
そんなことを言うつもりは、なかった。
セラは少し嬉しそうに笑って、火の準備に戻った。余は、その背中をただ見ていた。
◇
午後になり、風がわずかに変わる。
鳥の声も、途切れる。
異質な気配がする。でも、どこかセラと匂いが似ていた。
「来る」
「え?」
「人間だ」
セラは首をかしげる。
やがて、木々の間から人影が現れた。ピンクの髪。飄々とした顔。片手に袋を提げている。
「やあ、セラ。元気そうで――」
言葉が、途切れた。
視線が、余に向く。
余は人間の目を見れば、だいたいのことが分かる。恐怖。驚愕。畏れ。長く生きれば、そういうものに慣れる。
だが。
気づけば、セラの前に体を寄せていた。無意識に。自分でも、気づかなかった。
「セラ」
「あ、エリオ。久しぶり」
「それ」
「ノクスだよ」
「その大きさ――フェンリル、だよね」
「よく知ってるね」
「なんで普通にしてるの」
「可愛いでしょ?」
……何を言っているのだ、この娘は。
「フェンリルが……可愛い」
エリオの手から、ドーナツの袋がずり落ちそうになる。
余はエリオを一瞥した。敵意はない。ただ、戸惑っている。セラの知り合いなら、害はないだろう。
「セラの知り合いか」
ノクスの一声に、エリオが一瞬固まった。
「……喋った」
「ふふ。凄いでしょ? 私も最初びっくりしたんだよね――うん、兄だよ」
「そうか」
それだけで十分だ。視線を外す。
エリオが、セラと話している。
他愛のないやり取りだ。
だが――
妙に、耳障りだった。
余はわずかに目を細める。
理由は分かっている。
この人間が、セラの知り合いだからだ。
それだけのはずだ。
なのに。
セラが笑うたびに、視線がそちらへ向く。
エリオの言葉に、頷くたびに。
――なぜか、面白くない。
……くだらん。
余は小さく息を吐いた。
「あの」
「なに、エリオ」
「それ、本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「どこが」
「ノクスがそう言ってるから」
「フェンリルが言ったら信じるの?」
「うん」
彼奴は言葉を失ったようだ。
余は黙って、肉を食べ続けた。
この人間はセラを心配している。それは分かる。だが、余がいる。余がいる限り、この山でセラに害が及ぶことはない。それだけのことだ。
「あの」
「なに、エリオ」
「それ、今、肉食べてるの」
「うん。美味しいんだよ、ノクスが獲ってきてくれるやつ」
「獲ってきてくれる……」
エリオの表情が、ゆっくり消えていく。
「何か用か」
「いや、まあ」
エリオはドーナツの袋を持ち直して、深呼吸した。
「兄上から、これ」
「え、ドーナツ?」
セラの目が、ぱっと輝いた。
「うん。甘いの好きだっただろ」
「ありがとう! ノクス、甘いやつだよ。食べる?」
「甘い、か」
「食べたことない?」
「ない」
「じゃあ食べてみて」
セラが差し出す。
余は少し間を置いた。
人間の食べ物に、興味を持ったことなどなかった。
――本来なら、口にする理由もない。
一口、かじってみる。
その瞬間、動きが止まった。
これが、甘い。
今まで知らなかった味が、ゆっくりと広がっていく。
もう一口、かじった。
また、甘い。
――なんだ、これは。
舌に残る感覚が、妙に離れない。
こんなものに、価値があるとは思っていなかった。
……だが、悪くない。
「夢中だね」
セラが、くすりと笑った。
余は何も言わなかった。
言う必要が、ない。
少しだけ、尻尾が揺れていた。自分でも、気づかぬほどに。
――小僧に見られた、か。
「セラ」
「なに?」
「色々、聞いていい?」
「いいよ」
「どこから話せばいいんだろう」
余はもう一口、ドーナツを食べた。セラも自分の分を食べ始める。
小僧は、しばらくその場に立ち尽くしていた――滑稽なものだ。




