第117話 守りたい暮らしと次への一歩
再び目を覚ますと、窓の外はすっかり明るくなっていた。どうやら私は、あれからまた一晩眠ってしまったらしい。
イリディア様にいただいた果実のおかげか、身体のだるさはすっかり抜けている。けれど、二週間も眠り続けていた身体はそう簡単には動いてくれなかった。……むしろ、バルコニーから落ちた時より酷いかもしれない。
ベッドから降りようとした途端、足にまったく力が入らず、その場へへなへなと座り込んでしまった。
結局、慌てて駆けつけた侍女に支えられながら食堂へ向かうことになった。
食事を部屋まで運ぶと言ってくれたけれど、それではいつまで経っても身体が戻る気がしない。少しでも歩いたほうがいいと思い、お礼を言って断った。
この状態で廊下を歩くのは二度目。だけどずっと山での暮らしをしていたし、体力には少し自信がある。身体を動かしていけば、直ぐに元に戻れるだろうと言う根拠のない自信はある。
今は椅子に深く腰掛けながら、消化にいい温かなスープを少しずつ口に運んでいる。
「昨日は本当に、ごめんなさい……」
「部屋を水浸しにしようとするとは思わなかったぞ」
呆れたように言うヴァル様に、私は苦笑いを返した。
「助けてくれてありがとう」
(それにしても……もしかして私、大聖女様みたいにとんでもない魔力があったりするの……!?)
いきなりの水の量には、びっくりしてしまったけれど、魔力を持たなかった私が、自分の指先から自在に水を生み出せるようになったのだ。これからの生活がどれほど便利になるかを想像すると、素晴らしすぎて思わず頬が緩んでしまう。
私が一人で密かに感動を噛み締めていると、お父様は深くため息をつき、お母様は「まったくもう」と小さく首を振りながらも、どこか安堵したように笑っている。
食後のお茶が全員に行き渡ると、イリディア様は湯気の立つ茶器を静かに卓へ置いた。
「さて。少しは落ち着いたようだし、今日はこれからの話をしましょうか」
その一言で、和やかだった空気が少しだけ引き締まる。
私が『聖女』の力を受け継いだこと。
この事実を、これからどうするのか。
イリディア様は私たち一人ひとりを見回し、ゆっくりと口を開いた。
「まず考えなくてはならないことは三つよ」
「三つ、ですか?」
「ええ。あなたが聖女であることを誰まで伝えるのか。そして、エルシェを王家へ帰してあげる方法。最後に――これからあなた自身が、どう生きていくか」
その言葉に、部屋は静まり返る。
どれも、簡単に答えの出る話ではなかった。
そんな中、お父様が腕を組み、ゆっくりと私へ視線を向ける。
「セラ。まずは、お前の考えを聞かせてくれ」
私はしばらく考え込み、お茶の入ったカップを両手で包み込んだ。
「……先に、一つだけ聞いてもいいですか?」
「もちろんよ」
イリディア様が優しく頷く。
「聖女になったら……もう今までみたいには暮らせないんでしょうか」
部屋が静かになる。
私は言葉を探しながら続けた。
「山へ帰ったり……畑仕事をしたり……。みんなとご飯を食べたり、精霊さんたちとお話ししたり……そういう毎日を送れなくなるんですか?」
自分で口にしてみて、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
私が守りたいと思ったものは、世界を救うような大きなものじゃない。
ノクスと暮らしたあの山も。
畑で育つ野菜も。
焼きたてのパンの香りも。
精霊さんたちの笑い声も。
そういう、当たり前の毎日だった。
「もし、それが全部なくなってしまうなら……少しだけ、寂しいです」
ぽつりと漏らすと、イリディア様は一瞬きょとんと目を丸くした。
そして、堪えきれなくなったように笑い出す。
「あらあら……!」
肩を揺らしながら笑うイリディア様を見て、私は何か変なことを言ってしまったのかと首を傾げた。
「どうして笑うんですか?」
「ごめんなさい。でも、本当にあなたらしい心配事だもの」
イリディア様は笑みを残したまま、ゆっくりと話を続けた。
「安心なさい。聖女になったからといって、暮らしを捨てる必要なんてないわ」
「え……?」
「むしろ逆よ。あなたが守りたいと思ったその穏やかな毎日こそ、私たちが守りたい世界なんだから」
その言葉に、胸のつかえが少しだけ軽くなる。
ヴァル様も静かに口を開いた。
「誰かの言いなりになる必要なんて無いし、山へ帰りたければ帰ればいい。畑を耕したければ耕せ。お前は今まで通り、お前らしく生きればよい」
「……本当に?」
「ああ」
短い返事だった。
けれど、その一言だけで私は自然と笑みがこぼれる。
「よかった……」
その呟きを聞いたお父様が苦笑する。
「世界の命運より、山暮らしの心配とはな」
「だって、大事なんだもん……」
そう答えると、部屋のあちこちから小さな笑い声が広がった。
ひとしきり和やかな空気が流れたあと、お母様が表情を改める。
「それで、このことは誰に伝えるべきなのかしら」
その一言で、部屋の空気が少しだけ引き締まった。
イリディア様は静かに頷く。
「誰彼構わず知らせる必要はないわ。知るべき人だけが知れば十分よ」
「知るべき人……」
「まずは王家。そして、カーライル家ね」
「ルシアン様のお家、ですか?」
私が尋ねると、イリディア様は頷いた。
「ええ。歴代の聖女を支え、その記録を受け継いできた家系よ。表立って語られることは少ないけれど、あの家には聖女に関する知識が数多く残されているはず」
ヴァル様も静かに言葉を継ぐ。
「カーライル家が動けば、教会も軽々しくは手を出せぬはずだ。先日様子を見てきたが、聖女を支えるという役目は、今も受け継がれているようであった」
「なるほど……」
小さく頷きかけて、私ははっと顔を上げた。
「えっ、いつの間に見てきたんですか!?」
「散歩のついでだ」
「散歩……?」
ヴァル様は当然のように頷く。
「ついでとは何だったのかしら」
イリディア様がくすりと笑い、部屋の空気が少し和らいだ。
王家とカーライル家。
その二つが事情を知っていれば、余計な混乱は避けられるのかもしれない。
「実は、カーライル公爵家の件なら少し話は進めている。前日、エリオがルーカスを連れて話をしに言っていた。」
お父様の言葉に、私は思わず目を丸くした。
「えっ?」
「お前が眠っていて迷ったが、こちらから先に動いておいた方がいいと判断した。邪神のこともある。動ける者は、早めに対策すべきだと思ったのでな」
「ルシアン様のところへ?」
「ああ。まずはルシアン殿だけに、お前の身に起きたことを伝えてある。カーライル公爵やオリヴィア様へは、改めて正式に話をするつもりだ」
お父様の言葉に、ヴァル様も静かに頷く。
「ルシアン殿は、話を聞いてすぐ納得したそうだ」
「納得……?」
「以前から、お前の濾過した水を使って協力してもらっていたのは知っているだろう。魔力を持たぬはずのお前が、誰よりも浄化を成し遂げる。その理由を、ずっと調べていたそうだ」
お父様は少しだけ口元を緩める。
「『器』だったと聞いて、ようやくすべての辻褄が合ったと言っていたそうだよ」
その言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
ルシアン様は、婚約破棄のあとも浄化のために何度もエリオを通して協力してくれていた事は知っている。
もちろん、それは王都を守るためだったのかもしれない。私のためだけじゃない。
それでも、あんなことがあったあとも変わらず協力を続け、私の力の正体まで調べようとしてくれていた。
そう思うと、不思議と胸が温かくなった。
お父様はそこで一度言葉を切り、私を真っ直ぐ見つめた。
「ここから先は、セラ、お前自身が決めなさい」
部屋の空気が少しだけ静まる。
「カーライル公爵家へは、いずれ改めてこちらから出向くことになるだろう」
お父様は静かに続けた。
「ただ、その前に一つだけ聞かせてくれ」
「はい?」
「ルシアン殿は、一度お前に会いたいと言っている」
その言葉に、思わず瞳が揺れた。
お父様は私の表情を見て、小さく息をつく。
「もちろん、お前が望まなければ断る。無理に顔を合わせる必要はない」
「お父様……」
「婚約破棄の件があった以上、お前の気持ちが一番だ。聖女だろうと何だろうと、それだけは譲れん」
「……大丈夫です」
そう答えると、お父様は心配そうに眉を寄せた。
「無理をしていないか?」
「いいえ。ルシアン様には、ずっと協力して頂いていましたから。それに、エルシェ様のことをお話しするなら、私の口からちゃんと伝えたいんですよね」
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