第116話 目覚めの果実と初めての生活魔法
「どうかしら、セラちゃん。私たちと、その『契約』を結んでくれる?」
ふと気がつけば、部屋中を漂っていた小さな光たちが、一斉に私へ向いている気がした。返事を待つように。
「……私は」
答えようと、小さく息を吸い込んだ瞬間。
ぐらり、と視界が大きく揺れた。
「おっと。危ないわ」
倒れそうになった私の肩を、イリディア様がそっと支え、そのままベッドへ背中を預けさせてくれる。
「セラちゃん、その返事は今じゃなくてもいいわ」
「でも……」
「二週間も眠り続けていたのよ。今のあなたは、自分で思っているより疲れているはずだわ。それに、こんな重い話を起きてすぐ決めさせるなんて、よくないわね」
イリディア様が優しく微笑むと、ヴァル様も静かに頷いた。
「急ぐ必要はない。お前はまず、己の身体を休めることだけを考えろ」
二人の気遣いに、私は小さく息を吐き出す。
たしかに、全身の力が抜けていくような疲労感があった。
「あら、そうだわ」
イリディア様は何かを思い出したように微笑むと、手のひらに淡い桜色の光を集めた。
光がほどけると、その中には艶やかな果実がひとつ。
「これを、食べると良いわ。少し休めば、きっと元気になれるはずよ」
「ありがとうございます」
両手で受け取ると、果実は驚くほど瑞々しく柔らかかった。
そっと口元へ運び、小さな一口をかじる。
薄い皮がぷつりと弾けた瞬間、中から溢れ出した果汁が口いっぱいに広がった。鼻に抜ける爽やかな香りは深い森の風のようで、それでいてとろけるような濃厚な甘みがある。
飲み込んだ途端、身体の芯からじわじわと温かな巡りが生まれ、手足の先まで心地よい温もりが満ちていくのが分かった。奪われていた気力が、内側から満たされていくような不思議な感覚。
バンッ!
廊下から慌ただしい足音が響いたかと思うと、大きな音を立てて勢いよく扉が開かれた。
「セラぁぁぁぁ!!」
「お母様!? お父様!?」
顔を見るより早く、父が一直線に駆け寄り、ベッドの上の私へと勢いよく抱きついてきた。
「よかった! 本当に、本当によかった……!」
私を抱きしめる腕の力には一切の容赦がない。骨が鳴りそうなほどの力強さに、私はたまらず情けない声を漏らす。
「く、苦しいです、お父様……」
「あっ、す、すまない!」
父は慌てて私から離れたかと思えば、今度は私の頬や額をぺたぺたと触り始めた。
「熱は!? どこか痛くないかい!? ちゃんと見えてる!? お腹空いてないかい!?」
「えっと、あの、大丈夫、です……」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、私は咄嗟に返答できず瞬きを繰り返す。
そんな父の背後から、ゆっくりと母が近づいてきた。
「目を覚ましたのね」
安堵の声だった。それに私を見つめるその両目は真っ赤に充血していた。
「お母様……」
「まったく……長い間眠り過ぎよ」
母は不器用にそう零すと、私の頭に手を乗せ、優しく撫でた。手のひらから、ほんのわずかに震えが伝わってくる。
「生きて、顔を見せてくれて、本当によかった」
「父様、母様……ごめんなさい。心配かけて」
私が小さく謝ると、母も私を抱きしめ、目元を拭った。
「本当にね……。でも、無事でよかったわ。……それで、セラ。あなた、本当に『聖女』なのかしら?」
恐る恐る尋ねる母と、固唾を飲んで見守る父。
私は少しだけ戸惑ったものの、手のひらの上で嬉しそうに跳ねる小さな精霊を見て、こくりと頷いた。
「えっと……うん。そうみたい」
「そうみたい、って……あなた……」
あまりにも軽い返事に、両親が揃って脱力したように肩を落とす。
だが、今の私の頭の中は、世界の危機よりも、もっとわくわくすることでいっぱいになり始めていた。
「あ、そうだ! エルシェ様……前の聖女様がね、これからは私でも『生活魔法』が使えるようになるって言ってたの!」
「せ、生活魔法?」
きょとんとする両親をよそに、私は興奮で胸を高鳴らせた。
魔力を持たなかった私にとって、指先から水を出したり、かまどに火を点けたりする日常的な魔法は、幼い頃からの密かな憧れだったのだ。
「私にも魔法が使えるかもしれないなんて……ちょっと、試してみてもいいかな!?」
先ほどまでの疲労感も忘れ、わくわくしながら両手を胸の前で広げた。どんなふうに魔力を練ればいいのだろう。まずは小さな水滴からだろうか。
期待に目を輝かせる私を見て、部屋の隅から深いため息が聞こえてきた。
「……先ほどまで、世界の命運を懸けた話などをしていたはずなのだがな」
呆れ返るヴァル様の低い声に、イリディア様がくすくすと楽しげな笑い声を上げる。
「ふふっ。いいじゃない。大精霊との契約より、生活魔法に目を輝かせる。それがこの子の『欲のなさ』であり、強さなのよ」
「えっと、水の生活魔法って、どうやるんだろう?」
見よう見まねで手を伸ばし、指先に意識を集中させてみる。
その瞬間、イリディア様の笑みが、ぴたりと止まった。
「あら……」
イリディア様が私の手元を見つめたまま、小さく苦笑する。
「ヴァルディオス」
「何だ?」
「来るわよ。任せたわ」
「お、おい、待て――」
ヴァル様の制止が終わるより早く。
ぼごっ、と部屋の空気が重く震えた。
「……!」
私の手のひらから、滝のような水が一気に噴き出す。
「きゃああっ!?」
イリディア様がふわりと軽やかに飛び退いた。
入れ替わるように一歩踏み出したヴァル様が、低く声を響かせる。
「風よ」
突風が巻き起こり、部屋を呑み込もうとした水を中央へと押し集める。
渦を巻きながら巨大な水球へと変わった、その瞬間。
「凍れ」
ピキィィンッ、と甲高い音が弾け、水球は一瞬にして透き通る氷へと姿を変えた。
天井近くに浮かぶ巨大な氷塊が、窓からの光を受けてきらきらと輝いている。
「……」
氷の表面から、ぽたり、と一滴の水が床へ落ちた。
視界の隅では、お父様とお母様が口を半開きにしたまま、石像のように固まっている。
「…………」
私は自分の両手と、頭上の巨大な氷を何度も見比べた。
「わ、私……コップ一杯のお水を出したかっただけなのに……」
氷の塊を見上げながら言い訳のように呟いた、次の瞬間。
ふっ、と身体の内側から力が抜け落ちるような感覚があった。
「あれ……?」
視界がぐらりと傾き、私はそのままベッドの上で仰向けになっていた。
「セラ!?」
「ちょっと、あなた今度はどうしたの!?」
再びパニックに陥る両親の声が、まるで水の中にいるようにくぐもって遠のいていく。
抗いようのない眠気が押し寄せ、まぶたが重く落ちていった。
「あの果実を食べても、あれだけ放出すれば魔力枯渇も起ころう」
頭の上から、ヴァル様の呆れ返ったような低い声が聞こえる。
頬にひんやりとした風が触れ、誰かがそっと私に毛布を掛けてくれた。
「ふふっ。本当に規格外で、せっかちな子ね。……おやすみなさい、セラちゃん」
イリディア様の楽しげな笑い声と、額を優しく撫でる温もりを最後に、私は静かに眠りへと落ちていった。




