第114話 不器用な変化
「ええええっ!? 本物なの!?」
私がベッドの上で素っ頓狂な声を上げると、腕にしがみついていたフィンがビクッとした。大声で驚かせてしまっていたようだ。
美しいフェンリルは、面白そうに喉の奥でくくっと笑う。
「あら。本物以外に何があるの?」
そう言い終わった直後、ふさふさとした純白と桜色の毛並みが、ふわりと淡い光の粒子となる。
まばゆい光が渦を巻き、巨大な獣の輪郭がみるみるうちにしなやかな形へと変わっていく。
光の粉がさらさらと床に落ちて消えた後、そこに立っていたのは一人の女性だった。
流れるような蜜色の髪は、毛先だけがふんわりと桜色に透けている。鮮やかな翡翠の瞳をぱちりと瞬かせ、茶目っ気たっぷりに微笑む姿は、人間離れした圧倒的な美しさを放っていた。
「……っ」
神話の世界からそのまま抜け出してきたような姿に、私は声も出せずに口をぱくぱくと動かしてしまう。
私の反応を見て、イリディア様は満足そうに微笑みを深めた。
「人間の姿だと、こういう感じかしら。驚かせてごめんなさいね。改めてよろしく、セラちゃん」
優雅に手を差し出され、私は慌てて居住まいを正そうとベッドの上でもがいた。
「は、はいっ! あ、あの、ご挨拶が遅れまして……!」
「イリディア。これ以上、病み上がりの人間をからかうでない」
ベッドの上で土下座でもしそうな勢いで慌てふためく私の頭を、ノクスが横から大きな前脚で軽く押さえた。
呆れたような低い声に、イリディア様はくすくすと楽しげに笑う。
「あなた、本当にずいぶん丸くなったじゃない」
「変わったつもりはない」
「本人はみんなそう言うのよ」
そこでイリディアがセラにいたずらっぽく片目を閉じて、ウィンクして来た。
「ねぇ、セラちゃんもそう思わない?」
「え、えっと……たしかに、前よりは話しやすくなった気はします」
「ほら、セラちゃんもそう言ってるじゃない」
ノクスはわずかに考え込む。
「そうであろうか?」
「それにしても。あなた、その堅苦しい喋り方、いつまで続けるつもりなの?」
「……何?」
「古いわよ」
イリディア様の言葉に、ノクスは一瞬だけ目を見開く。
その表情は、「そんなことを言われるとは思っていなかった」とでもいうようだった。
「百二十年間、封印されていた貴様に言われる筋合いはない」
「私がいなかった百二十年より、ずっと前から、古かったじゃない」
呆れたようにため息をつき、イリディア様は不意にこちらへ視線を向けた。
「セラちゃんもそう思わない?」
「えっ」
突然話を振られ、私は二人の顔を交互に見比べた。ノクスの青色の瞳が、じっとこちらを見つめている。
「えっと……その……少しだけ、厳格すぎるかな、とは……」
言い終わるか終わらないかのうちに、私の頭に乗っていたノクスの前脚がすっと離れた。
「……古いのか」
低い呟きとともに、ノクスは視線をふいとそらす。しばしの間、虚空を見つめて何事か思案していたようだが、やがて小さく咳払いをした。
「……調子はどうだ? こんな感じか、セラ」
一瞬、部屋に沈黙が流れる。
声の低さも、威圧感のある響きも何ひとつ変わっていない。ただ、ほんの少し語尾が柔らかくなっただけだ。
イリディア様は両手で口元を押さえ、肩を震わせた。
「……っ、何も変わってないじゃない……!」
「語尾は変えた」
「そこじゃないわよ。もっと人間らしく話してみなさいな」
ノクスは再び考え込む。
そして、今度はどこか自信ありげに口を開いた。
「……よく眠れたか?」
「えっ?」
「ねえ。二週間も眠っていた子に、それを聞くの?」
イリディア様は額に手を当て、小さく首を振った。
「もう、本当にあなたって……」
ノクスは不満そうに鼻を鳴らし、長い尻尾の先で床をぱたん、と叩いた。
「あ、でもっ!」
私は慌てて身を乗り出す。
「今のは、すごく柔らかい話し方だったと思います!」
「本当か」
「はい! 親しみやすくて、とても素敵でした!」
私が力いっぱい頷くと、尻尾だけがゆっくりと機嫌よさそうに左右へ揺れ始めた。
その様子を見たイリディア様は、くすりと笑みをこぼした。
「その子の言葉だけは、ちゃんと信じるんだから……。その調子、その調子! 千年も続ければ、きっと板についてくるわ」
「千年もかからぬ」
「あら」
イリディア様は目を丸くしたあと、肩を揺らして笑う。
「もう元に戻ってしまったじゃない」
ノクスは気まずそうに視線をそらす。
「ふふっ。でも、その子と一緒なら大丈夫。きっと、自然と変わっていくわ」
優しく微笑みながら、イリディア様はひらりと手を振った。
「焦らず、少しずつ頑張ってみなさいな」




