第111話 帰る場所は、それぞれに
「ありがとう、セラ。でもね――あなたには、私が見ることのできなかった景色を見てほしい」
そう言って、エルシェ様は私の両手をふわりと包み込んだ。
……けれど、そのまま少しだけ困ったように微笑む。
「ごめんなさいね。あなたとお話しするのが嬉しくて、つい長く引き留めてしまったわ」
「そんな……私も、もっとお話ししたいです」
「私もよ。でも、もう帰らなくては」
エルシェ様は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ここでは、ほんのひとときのつもりだったのだけれど……現実では、ずいぶん長い時間が流れてしまったみたい」
「え……?」
「あなたの身体は、もう限界。大切な人たちも、どれほど心を痛めていることか……」
どういう意味だろう。
しばらく考えて――ようやく、その言葉の意味に思い至る。
(まさか……時間の流れが違うの?)
それなら、みんなを待たせてしまっている。
「ごめんなさい。楽しくて、つい時間を忘れてしまったの」
「そんな……エルシェ様が謝ることじゃ……」
「ふふ。でも、これ以上は本当に駄目。あなたには、帰る場所があるもの」
優しく微笑んだエルシェ様が、そっと私の手を包み直した。
「準備はいい?」
「……はい」
私が頷きを返すと、彼女もまた優しく頷いた。
「それでは、私が守ってきたものを、あなたへ託します」
その瞬間、私とエルシェ様の重なった手から、淡い光がゆっくりと溢れ始めた。
それは眩しさで目を焼くような光ではなく朝日が雪を照らすような、どこまでも穏やかで優しい輝きだった。
光は静かに私の手を伝い、腕へ、胸へと染み込んでいく。
(……あたたかい)
冷え切った身体に湯が満ちていくような、不思議な温もり。
ただ、胸の奥にぽっかりと空いていた場所へ、何か大切なものがゆっくりと還ってくるような、安心する感覚だった。
私の中が温かな光で満たされていくのとは対照的に、エルシェ様の輪郭が、少しずつ淡く透け始めた。
彼女の内にあった光が私へと移り、その分だけ、彼女自身が空っぽになっていくのだ。
「エルシェ様!」
「大丈夫」
思わず声を上げた私を制するように、彼女は静かに首を振る。
「私の役目が、終わるだけよ」
「でも……これじゃあ……お別れなんてしたくないのに。せっかく、やっとお話しできたのに」
視界が滲み、声が震える。
私が顔を俯かせると、エルシェ様は困ったように、けれどたまらなく愛おしそうに微笑んだ。
「泣かないで、セラ。私はずっと孤独だった。……でもね、最後にあなたのような素敵な女の子に出会えて嬉しかったのよ。それに」
エルシェ様はそこまで言うと、少しだけ照れたようにふわりと笑った。
「……ねえ、セラ」
「はい?」
「あちらで、あの人たちに会えるかしら」
私が小さく首を傾げると、彼女はひどく愛おしいものを思い浮かべるように目を細めた。
「夫と、子どもたちに」
その笑みは穏やかなのに、どこかひどく心細そうだった。
「百二十年も待たせてしまったもの。『遅い』って怒られてしまうかもしれないわね」
小さく笑ったあと、ほんの少しだけ視線を伏せる。
「……それとも、許してはもらえないかしら」
(エルシェ様……)
世界を守るために、自ら別れを選んだ彼女。
大聖女として毅然と振る舞っていた彼女でも、心の奥底でずっと、自分を『家族を置いていった人間』だと責め続けていたのかもしれない。
「そんなこと、絶対にありません」
私は、透けかけている彼女の冷たい手を、両手でぎゅっと握り返した。
「きっと、ずっと待っていてくれています。……だって、ご家族はエルシェ様が守ってくれた世界で、生きていたんですから」
「……」
エルシェ様は一拍遅れてまばたきをし、それから、ふわりと花が綻ぶように笑った。
「もし会えたら、今度こそ、ちゃんと母親をさせてもらえるかしら」
「はい。……きっと」
そう口にした瞬間、不思議と胸の奥が温かくなった。
まるで、その約束を誰かが静かに受け取ってくれたような気がして。
「ありがとう」
春風のような、優しい声だった。
「私を、終わらせてくれて」
その瞬間。
エルシェ様の身体が、幾千もの花びらのような光となって、ふわりと舞い上がった。
私を優しく包み込み、そのまま胸の奥へと、ひとつ残らず吸い込まれていく。
最後の一枚まで。
百二十年間、世界をたった一人で支え続けた女性の願いも、想いも、母親としての心残りも。そのすべてが、私の中へと受け継がれていく。
真っ白な世界から、エルシェ様の気配が消えた。
◇ ◇ ◇
「……少し、長すぎるな」
ふと、低く掠れた声が耳に届いた。
ノクスの声だ。どこか焦燥感を滲ませたような、聞いたことのない響き。
(……あれ?)
右手が、痛いほど握られているように感じる。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、ぼんやりとした視界の先に、見慣れた天蓋と、ベッドの傍らに座り込むエリオの姿があった。
「エリオ……?」
私の声は酷く掠れていた。
こんなに声が出しにくいなんてどのくらい眠っていたのだろうか。
「セラ……ッ!」
は――っと顔を上げたエリオの瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「おはようございます、セラ様」
部屋の隅から、ルークの震える声が聞こえる。
私は彼らの顔を交互に見つめ、それから、安堵に表情を緩めるノクスに向かって、ゆっくりと微笑んだ。
「……ただいま。帰ってきたよ」




