第109話 魔法がくれた景色
エルシェ様は少しだけ困ったように眉を下げた後、ふわりと空気を和ませるように笑った。
「ごめんなさいね、暗い話ばかりになってしまったわ。……せっかくだから、私が聖女になって楽しかったことの話でもしようかしら」
思い出を語るエルシェ様の声が、少女のように弾んでいる。
胸の前でそっと組まれた手が、当時の喜びを反芻するようにそっと握り込まれた。
私の中にあった重い緊張が少しだけ解けていく。
「最初に感動したのは、生活魔法だったわ」
「えっ?」
てっきり神聖な儀式や祈りの話が続くと思っていた私は、予想外の言葉に不意を突かれた。
「王城にいた頃、私は魔法が使えなかったでしょう? 身の回りのことはすべて従者たちの魔法に支えられていたから、生活に困ることはなかったの。けれど……魔法の教練を受ける兄弟たちの姿を、ずっと羨ましく思っていたわ」
その声が、嬉しさを隠しきれないようにわずかに弾む。
「お城を出て、初めて何から何まで自分の手でやらなければならなくなったわ。最初は少し苦労したけれど……自分の力で魔法を使えるようになった当時は、毎日がとてもわくわくしたのよ」
(……なんと逞しいお方だろう)
不便なはずの生活を嘆くどころか、心から楽しんでいる。目の前のたおやかな姿を眺めながら、私は密かに感嘆の息を吐いた。
お淑やかに見えて、この方は私よりずっと行動力も生活力もあるのかもしれない。
王女として大切に育てられ、魔力を持たなかったという彼女が、今こうして目を輝かせながら当時を語っている。
「魔法が使えなかった私のために、お父様はたくさんの魔道具を用意してくださったのだけれど……やっぱり、自分の力で魔法が使えるというのは全然違うのよ」
初めて自分が魔法を使った日のことを思い返しているのか、その横顔はとても楽しそうだ。
「嬉しくて、必要もないのに何度も火をつけたり消したりしていたわ」
(わ、分かる……!)
魔法が使えない今の私だからこそ、その気持ちが痛いほどよく分かる。もし魔法が使えるようになったら、絶対に同じことをしてしまう自信がある。
「浄化も治癒も、本当に自分が使えているのか不思議で、何度も何度も確かめたのよ」
「……私も、そうなれるのかな」
これから自分に宿る力への期待で、自然と胸が高鳴ってくる。
「ええ、きっとなれるわ。そしてね、魔法の次に驚いたのは、精霊たちのこと」
「え?」
「それまで何も見えなかった世界が、急に賑やかになったの。小さな花の精霊や、水の精霊、風の精霊たちが、あちこちにいるのよ。……まるで、毎日がお祭りみたいだったわ」
その光景を思い描いているのか、エルシェ様の瞳が楽しげに揺れている。
無数の精霊たちが飛び交う賑やかな世界を想像して、私も思わず頬を緩めた。
「ふふっ。私も会ってみたいです!」
「ええ、きっとすぐに会えるようになるわ。……そしてね、もう一つ嬉しかったことがあったの」
エルシェ様はふふっと優しく微笑んだ。
「どれだけ魔法を使っても、決して魔力が尽きることがなかったのよ」
「えっ?」
「怪我を治す治癒も、土地を清める浄化も、どれだけ行ってもまったく疲れないの。だから、毎日あちこちを飛び回って、本当にたくさんの方のお手伝いをすることができたわ」
(魔力切れがないなんて……!)
とんでもない恩恵だ。魔法を使う上での最大の制限がないのだから、これ以上心強いことはない。
「人々はそんな私を『歴代最高』だとか『大聖女様』と呼んで、とても喜んでくれたわ。誰かの役に立てることが、私もただ嬉しかった」
当時の賑わいを思い返すように、エルシェ様は視線を少しだけ落とした。
だが、その口元に浮かんでいた柔らかな微笑みが、ほんの少しだけ寂しそうな表情に変わっていく。
「でも……振り返ってみると、それが間違いの始まりだったのかもしれないわ」




