第107話 ルーク私記
目を覚まさぬセラ様のことを綴るなど、不謹慎かもしれない。
エリオ様はセラ様の傍らを離れず、私もまた、何もできぬ己の無力さを痛感するばかりだ。
先日、妹のリアナが攫われた際、セラ様とヴァルディオス様のお力添えがなければ、私は妹を失っていたかもしれない。
あの御恩は、生涯をかけても返しきれるものではない。
だからこそ、この屋敷で何が起きていたのかを書き残そうと思う。
セラ様がお目覚めになった時、失われた時間を知るための一助となることを願って。
◇ ◇ ◇
一日目。
セラ様は眠ったまま。
エリオ様は寝室を離れようとなさらない。
そんなエリオ様を励ますつもりだったのか、ヴァルディオス様も終日そばで寄り添っておられた。
「心配するでない」と仰るものの、その声音には力がない。
ただお一人、イリディア様だけが、奥様の用意した焼き菓子を次々と口へ運びながら「大丈夫、大丈夫」と呑気に食べておられるように見える。
あの方は、本当にすべてを見通して楽観しておられるのか、あるいは皆を案じて道化を演じておられるのか。
浅学な私には、到底判断がつきそうにない。
三日目。
セラ様にいささかの変化もない。
皆、口数が減っている。
奥様は寝室へ何度も足を運び、エリオ様へ食事を摂るよう勧め続け、ご主人様は執務の合間を縫っては、何度もセラ様の様子を覗きにこられた。
夜明け前、さすがにエリオ様を休ませようと私が部屋を訪れたが、やはりヴァルディオス様は同じ場所に腰を下ろしておられた。
少なくとも、私が見た限りでは眠っている姿を一度も見ていない
誰も口にはしないが、「本当に戻ってこられるのだろうか」という思いを、それぞれ胸の内へ押し込めているように見える。
五日目。
フィン坊ちゃんが、ずっとヴァルディオス様を怖がっておいでだった。
フェンリルの姿のノクス様には抱きついて遊ぶほど懐いているというのに、人の姿になると物陰へ隠れ、そっと様子を窺うばかりである。
それにお気づきになったのだろう。
その日からヴァルディオス様は、フェンリルの姿で過ごされるようになった。
その姿を見たフィン坊ちゃんは、たちまち表情を明るくし、
「ノクスー!!」
と、嬉しそうに駆け寄っていった。
その光景をご覧になったイリディア様が、楽しげに声を弾ませる。
「まあ、それなら私も負けていられないわ!」
そう仰ったかと思うと、次の瞬間、目の前にノクス様より一回り小柄な、美しい純白のフェンリルが姿を現した。
「ねぇ、あなた人間からそんな良い名前で呼ばれてるのね。ずるいわ、私にはないの? さあ、可愛い坊や。私にも名前をつけてちょうだいな!」
神獣の姿で、しゃがみこみ目線を合わせるイリディア様に、フィン坊ちゃんは恐れることなく首を傾げた。
「うーんとね。……じゃあ、リディ!」
「リディ! いいわね、すっごく気に入ったわ!」
……衝撃とは、まさにこのような瞬間のためにある言葉なのだろう。
大精霊様が人間の子どもに二つ名をねだり、あっさりと命名されるという歴史的瞬間に、私は眩暈を覚えた。
突然、屋敷に二頭ものフェンリルが並び立つこととなり、フィン坊ちゃんだけが大喜びで「ノクス!」「リディ!」とその毛並みに顔をうずめている。
一方で、それを見た奥様は一瞬で顔を強張らせ、すぐさま使用人たちへ次々と鋭い指示を飛ばされた。
信用のおける一握りの者だけを屋敷に引き留め、それ以外の者には急遽、多めの手当と共に長期の休暇を与えたのである。
お二方の存在が外へ漏れれば、騒ぎでは済まない。
この日、屋敷の中で最も忙しかったのは、間違いなく奥様であった。
十日目。
セラ様にやはり変化はない。
水分と栄養は魔法で最低限は補っているとヴァルディオス様は仰る。
それでも、日に日に頬は細くなり、お顔から血色が失われていくように見えた。
目を閉じておられるだけなのに、そのお姿はあまりにも弱々しい。
十二日目。
奥様が見舞いの際、その細くなった腕を見て、思わず口元を押さえておられた。
エリオ様は何もおっしゃらない。
ただ、その手を握る力だけが少しずつ強くなっていた。
十四日目。
ヴァルディオス様のお顔から、余裕が消えた。
「……少し、長すぎるな」
その小さな呟きを聞いてしまった時、血の気が引いた。
あの方でさえ、不安を隠せなくなっている。
セラ様。どうか、お目覚めください。皆様が、ずっとお待ちしております。




