第98話 祈りのかわりに思い描いたもの
「ノクス、しっかりして……!」
セラは慌てて持ってきた布で肩口から流れる赤黒い血を圧迫した。
だが、血はすぐに布を赤黒く染め上げ、指の隙間から溢れ出してくる。
(どうしよう……出血が酷い。圧迫止血だけじゃ足りない……!)
セラは必死に前世の応急処置を思い出そうとする。
心臓より高い位置を保った方がいい? でも、四つん這いの獣に対してどう寝かせればいいの? そもそもこれはただの怪我じゃない。毒が回らないようにするには――。
「っ……あ……」
知識が何の役にも立たない。
手のひらから伝わるノクスの体温が下がるのを感じて、セラの視界が涙で滲む。
その時だった。
「セラ様!!」
洞窟の入り口から、息を切らした声が響いた。
ルークとゼインだ。
「ルークさん、ゼインさんっ……! どうしよう、血が止まらなくて……っ!」
血まみれの両手を震わせるセラを見て、ルークは駆け出した。
だが、その途中で視界の端に倒れたリアナの姿を捉え、足が止まる。
「リアナ……!」
一歩踏み出しかける。
だが、フェンリルの肩口から立ち上る黒い瘴気と、地面を染める夥しい血が目に入った。
(外傷は見当たらない……。だが、ノクス様は――)
「ゼイン、リアナを頼む!」
「ああ」
ゼインは瞬時に状況を察し、周囲を警戒しながら駆け寄る。
ルークは一度だけ妹を振り返った。
そのまま唇を引き結び、セラとノクスのもとへ駆け寄る。
傷口から立ち上る黒い瘴気を見た瞬間、顔を強張らせた。
「瘴気……! 尋常な濃さだ」
ルークの脳裏に、かつてゼインが瀕死になった時の記憶が蘇る。あの時、ゼインの命を繋いだのはセラが差し出した『水』だった。
「セラ様、いつものお水はありますか!?」
「え? う、うん、水筒に少しだけ……!」
「ルーク」
背後からゼインの落ち着いた声が届く。
「リアナは気を失っているだけだ。命に別状はない」
「……そうか」
安堵は一瞬だった。
ノクスの肩からは、なおも赤黒い血が流れ続けている。
ルークはセラから受け取った水を、躊躇うことなく傷口へぶちまけた。
「ジュウウウッ!」と焼け焦げるような音が鳴り、黒い瘴気がわずかに薄まる。
だが。
「……足りない。傷が深すぎる」
ルークが舌打ちをして周囲を見渡す。
視線の先の崩れた祭壇の奥に、鍾乳洞の天井から滴る水が溜まった澄んだ水溜まりがあった。
「セラ様、あの水……使えますか?」
ルークの問いに、セラは水溜まりを見つめた。
透き通っていて、ここにある中では一番綺麗そうだ。
「でも……このままじゃ駄目。怪我に使うなら、せめて一度、しっかり沸騰させないと」
切実に思いながら呟いた。
(火があれば……お湯を沸かせるのに)
その願いに呼応するように、誰にも触れられていない水溜まりの底の石に、ぷく、と小さな気泡がひとつ、ふたつと付き始めた。
気泡は次第に数を増し、やがて大きな泡となって水面へ浮かび上がり――数秒後には、ボコボコボコッ! と真っ白な湯気を上げて激しく沸騰し始めた。
「……え、なにこれ」
セラは完全に固まった。
ただの水溜まりが、何もないのに勝手に沸騰している。
「すごい……精霊が応えている……!」
背後でルークが目を見張っているが、セラはハッと我に返った。
今はどうでもいい。使えるなら使うだけだ。
「そうだ、塩!」
セラは慌ててマジックバッグを漁り、調理用の塩を取り出した。
それを沸騰する水の中へ、記憶にある濃度を頼りに適量放り込む。
「これでよし……傷口を洗う水!」
(体液と同じくらいの塩水……生理食塩水みたいなものになれば、少しでもノクスの負担が減るはず……!)
「でも熱すぎてこのままじゃ使えない……っ。ルークさん、これ冷やせる!?」
「はい!」
ルークが即座に手をかざし、魔法で一気に水温を下げる。
すぐに人肌ほどの温度になったそれを、セラは水筒で掬った。別の布にもたっぷりと含ませた。
「ノクス、少ししみるかもしれないけど、我慢してね」
セラは傷口へ、布を添えながらそっと水を流し落とした。
水が触れた瞬間だった。
傷口から立ち上っていた黒い瘴気が、白い湯気のようにシュワシュワとほどけていく。
「……え?」
セラ自身が一番驚いていた。
「ただの塩水なのに……邪神の毒に効いた?」
呆然と呟くセラに、ルークが優しく微笑みかける。
「セラ様なら、少しもおかしいことではありませんよ」
「え……?」
「精霊たちは、いつもセラ様の傍にいますから。今日はいつにも増して張り切っていたのでしょう」
ルークは、この不思議な光景を何度も目にしてきた。セラの傍では、いつも精霊の気配が濃くなり、不思議な出来事が起こる。
ノクスの体を蝕んでいた青黒い痣も、いつのまにか嘘のようにスッと薄らいでいた。
『……っ、ふ……』
ノクスの喉の奥から、微かに安堵したような息が漏れる。
荒々しかった呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。
「よかった……本当に、よかった」
その言葉と同時に、セラの膝から力が抜けた。その場にへたり込んで、涙が頬を伝うのも止められなかった。
「……ん……」
すぐ傍らから、小さな呻き声が聞こえた。
ずっと気を失っていたリアナが、ゆっくりと目を開ける。
「私……何が……」
ぼんやりと身を起こしたリアナの目に映ったのは、ボロボロになって倒れているノクスと、涙目でへたり込むセラ。そして、安堵する顔の兄とゼインの姿だった。




