第96話 空っぽの器
ヴァルディオスと呼ばれ、一人の美しい銀髪の男性へと姿を変える。
その信じがたい光景に、セラは息を呑んだ。
頭が混乱しているが、今はそれどころではない。
視線の先には、冷たい石の床で無様に縛り上げられたイザベラと、そして――その傍らで、まるでただ眠っているかのように横たえられたリアナの姿があるからだ。
「リアナちゃん……っ! 彼女を返しなさい!」
セラが叫ぶ。
その瞬間、洞窟の奥からさらりと風が吹き抜けた。
髪がふわりと揺れ、どこからともなく温かな気配が集まってくる。
まるで誰かが背中を押してくれるような、不思議な安心感だった。
それは無数の精霊たちが、セラの感情に寄り添い、全力で彼女を守ろうとする意思の表れだった。
サーヴェラはその光景に、微かに目を細める。
しかし、サーヴェラはすぐに深紅の瞳でセラをじっくりと観察し……ふっと、慈愛に満ちたような笑みを浮かべた。
「もちろんよ。私は貴方の味方だもの。安心して、この子は今は眠っているだけ。……この子を攫ったこの女に付けられた傷も、私が治してあげたわ」
「え……?」
「なるほど。やっぱり、あなたが次の子なのね」
「何のこと、ですか……?」
意味不明な言葉にセラが眉をひそめた瞬間。
それを聞いたノクスが、凄まじい殺気を放った。
「黙れ、サーヴェラ。その口を閉じろ」
「怖い顔。ヴァルディオス……あなた、この子に何も話していないのかしら?」
ノクスの足元が、ぱきり、と音を立てる。
見れば、踏みしめた岩肌が白く凍りついていた。
それでもサーヴェラは楽しげにセラを見つめている。
「ふふ……何も聞かされていないのね。ヴァルディオス。今回は随分と丁寧に扱っているようだけど」
「……まだ、話す時ではなかっただけだ」
ヴァルディオスが言いにくそうに紡いだその一言を、サーヴェラは待っていたとばかりに微笑んだ。
「ほら。『話す時ではなかった』ですって」
サーヴェラはセラへ向き直り、優しく語りかける。
「考えてごらんなさい。本当にあなたのことを大切に想っているなら、こんな大事なことを隠すかしら?」
サーヴェラの甘い声が、洞窟の中に反響する。
セラは隣に立つノクスを見上げた。
出会った日からずっと、不器用ながらも自分を守り、導いてくれた存在。彼が自分を騙していたなんて思いたくない。
けれど、突然のノクスの変化や、何かを隠していたという事実が、「どうして教えてくれなかったの?」という小さな疑問となって胸の奥をチクリと刺した。
そのわずかな心の揺らぎを見逃さず、サーヴェラは畳み掛ける。
「結局、あなたに選ばせる気なんて最初からなかったのよ。自分が何者なのかも知らずにここまで来たなんて、可哀想に。知らないなら教えてあげるわ。この世界で聖女に選ばれる者は、生まれた時から少しだけ特別なの。最後の継承を受けるまでは、まだ何色にも染まっていない。だから『器』と呼ばれているのよ」
サーヴェラはセラの表情を観察しながら続けた。
「百二十年前の聖女もそうだった。世界を守るため――そう言われて、自分を犠牲にして私ごと封印する道を選ばされた」
「……」
「ねぇ、それって本当に救われたと言えるのかしら?」
「……っ、サーヴェラァッ!!」
ノクスの足元から這う氷が爆発的に広がり、殺気が洞窟を震わせる。図星を突かれたからではなく、かつての聖女の気高き覚悟を泥で塗るような言葉への激昂だった。
しかし、サーヴェラはその怒気を心地よさそうに受け流し、セラに向かって――まるで慈愛に満ちた聖母のように、優しく手を差し伸べた。
「だから、私が導いてあげなくちゃ」
「え……」
「ねえ、私と一緒にいきましょう。彼らに押し付けられて犠牲になる必要なんてないわ。私からの力を継ぎなさい。そうすれば、貴方を縛るものなんて何もないわ」
甘い誘惑。
事実と嘘を織り交ぜてノクスへの不信感を煽り、さらに「リアナを無事に助ける」というセラの最大の目的すらも解決してみせた。
サーヴェラの深紅の瞳が、獲物を絡め取るように細められる。
「さあ、選びなさい。あなた自身の意思で」




