盟約
いた。
魔王が——玉座に腰かけていた。
角が生えた長身。仕立ての良い礼装。赤い目が、こちらを見下ろしている。
最初に見た時と何も変わっていない。表情も、姿勢も、空気も。
何十人も死んだのに、何も変わっていない。
玉座の段下まで駆けた。
膝をついて、ミオを横たわらせた。
石畳の上に、栗色の髪が広がった。
顔が白い。唇に色がない。腹の脇差の周りから、まだ血が滲んでいる。
息はある。浅い。かすかに。
「おいてめぇ!!」
顔を上げて、叫んだ。
「こいつを——ミオを治せ!!」
声が玉座の間に反響した。壁を叩いて、天井に消えていく。
魔王は——動かなかった。
赤い目が、俺を見ていた。
それからゆっくりと、足元のミオに視線を落とした。
「何を言っている」
平坦な声だった。
「その者は——貴様の仲間ではないだろう」
赤い目が俺に戻った。
「貴様らは別のパーティだ。」
「うっせぇ!! さっさとしねぇとぶっ殺すぞ!!!」
刀を抜いた。切っ先を魔王に向けた。
手が震えてる。腕が重い。血が足りてない。
魔王は微動だにしなかった。
「何を焦る」
ため息をついた。人間を見て疲れたような、退屈したような息。
「その者は時期に死ぬ。放っておけばいい」
「——ッ!」
「そうすれば貴様の優勝だ」
魔王が顎を上げた。
「願いを叶えてやろう」
願い。
そうだ。勝者には願い。魔王がそう言った。
「生き返らせれるのか」
「無理だ」
即答だった。
「舐めてんのかテメェ!!」
「死者の蘇生は、できない」
魔王の声は変わらなかった。怒りもない。嘲りもない。ただ事実を述べている。
「私にも不可能なことはある。死は——覆せない」
「だったら——」
「何を苛立っている?」
魔王が首を傾げた。
本当にわからないという顔だった。人間の感情を計測しようとして、数値が合わない時の顔。
「私は約束を違えない。私にできうる事であれば、願いは叶えてやる」
約束を——違えない。
その言葉が、頭の中に引っかかった。
一瞬だけ。棘みたいに。
「レベルもそのままだ。貴様の身体に蓄積された力、あれはなかなかのものだぞ。魔族でも屈指と言っていい」
魔王が腕を組んだ。品定めするような目。
「その力を持ったまま、好きに生きればいい。貴様なら——配下にしてやってもいい」
「こいつの傷を治せっつってんだよ」
低い声で言った。
「眠てえ話してんじゃねぇぞコラァ!!」
魔王の赤い目が、数秒だけ俺を見つめた。
「——ならば、貴様が死ね」
「あ?」
「貴様がその者の手にかかって死ねば、その者が最後の生存者になる」
魔王が淡々と続けた。
「勝者の権利が、その者に移る。その時に——傷を治してやろう」
沈黙が落ちた。
ミオの手で、俺が死ぬ。
そうすれば——ミオが勝者になる。
「できぬだろう」
魔王が見透かしたように言った。
「……」
「時間も惜しい。さっさと楽にしてやれ。殺せ」
魔王が目を閉じた。
興味を失った顔。実験が終わった時の顔。
「実にくだらん興であった」
——くだらない?
ガロが命を張って通路を塞いだことが。アオイが俺を庇って斬られたことが。リンが自爆したことが。ミオが自分の腹を刺したことが。
くだらないだと?
ふざけんなよ。
「言ったなテメェ」
声が低くなった。自分でも驚くほど、静かだった。
膝をついたまま、ミオの手を取った。
冷たい。指に力がない。
その手に——刀の柄を、握らせた。
ミオの細い指を、俺の手で包んだ。
柄を握る形にして、一本ずつ指を添えた。
「下らん。茶番はよせ」
魔王の声が上から降ってきた。
「舐めんなよ」
「無理だ。やめろ」
切っ先を、自分の胸に当てた。
左胸。心臓の上。
冷たい鋼の感触が、肌を通して骨に届いた。
ふぅ——。
息を吐いた。
長く。深く。最後の一息。
ミオの手ごと——押し込んだ。
ズッ——。
刃が胸を貫いた。
熱い。
けど——思ったより痛くなかった。
腹を刺された時の方がずっと痛かった。
膝が崩れた。横に倒れた。石畳が冷たい。
ミオの手がまだ柄を握っていた。俺の手がその上に重なっていた。
玉座から、音がした。
魔王が——立ち上がっていた。
「なに?」
初めて聞く声だった。
平坦じゃない。驚いてるのか?
「なんだ——これは」
赤い目が見開かれていた。
俺を見ていた。胸に刺さった刀を見ていた。ミオの手と俺の手を見ていた。
理解が追いついていない顔だった。
60余人の命を玩んだ超越的存在が、目の前の光景を処理できずに立ち尽くしていた。
「……約束……守れよ…………」
声が掠れた。
口の端から血が溢れた。温かかった。
魔王が——笑った。
「ははは」
静かな笑いだった。嘲笑じゃない。感嘆でもない。
何と呼べばいいのかわからない笑い。
「面白い」
一歩、降りてきた。玉座の段を一つ。
「これが——愛だとでもいうのか?」
俺は答えなかった。答える力が残ってなかった。
視界が暗くなっていく。端から黒く塗り潰されていく。
でも——まだ死ねない。
ミオが治るのを見届けるまで、死んでたまるか。
魔王がぶつぶつと呟いていた。
一人で考え込んでいる。
「愛。執着。自己犠牲。いや——本質はそこではない」
一歩。また一歩。近づいてくる。
「詰まるところ刺激と反応だろう?」
魔王の足が止まった。
「こういうことか」
赤い目が、ミオの方を向いた。
魔王の手が持ち上がった。指先から、淡い光が零れた。
「見ろ」
魔王が俺の顎を掴んで、ミオの方に向けさせた。
冷たい指。万力みたいな力。逸らせない。
「よく見ていろ」
光がミオの腹部に触れた。
脇差の傷口から、血が引いていく。
赤黒く染まっていた布の染みが、端から消えていく。まるで時間を巻き戻すように。
裂けた皮膚の縁が寄り合って、くっついて、塞がった。
次に——顔色が変わった。
蝋みたいに白かった頬に、血の気が戻っていく。唇にうっすらと赤みが差した。
こめかみの血管が脈打つのが見えた。
呼吸が変わった。
浅く不規則だったリズムが——穏やかに、深く、整っていく。
胸が規則正しく上下し始めた。
生きてる。
ミオは——生きてる。
魔王が顎を離した。
「治したぞ。約束通りだ」
魔王の声が、どこか遠くから聞こえた。
「どうだ——死ぬのだろう?」
観察していた。
俺の目を。俺の呼吸を。俺の心臓の音を。
っせぇな……。
そうだよ、バーカ。
治った。ミオは治った。
もう——大丈夫だ。
張り詰めていた糸が、ぷつんと切れた。
意識を保っていた最後の力が、指先から抜けていった。
俺は——目を閉じた。
よかった。
ミオ。
お前が無事なら、俺は十分なんだ。
リン、ガロ、アオイ
みんな——守れなくてごめんな。
でも、仇は取ったぜ。全員分。
あとミオは無事だ。すげえだろ。
あーあ。
よかった……。
……。
……。
ミオの体が、淡く光った。
光が満ちた。
石畳の冷たさが消えた。ダンジョンの暗がりが消えた。
重力が一瞬だけ途切れて——風を感じた。
地上の風だった。
ミオは目を開けた。
青い空が見えた。
雲が流れていた。
地面に横たわっていた。草の匂いがした。土の湿った感触が背中に伝わった。
ダンジョンの入り口があった場所。
壁になっていたはずの場所に、ミオはいた。
ミオは——空を見ていた。
青い空。どこまでも続く空。
手のひらに、何かが残っていた。
温もり。
カナエの手の温もりが、まだ残っていた。
青い空が滲んで揺れた。




