SCIENTIA FLORENS: I
起床時刻は社会的地位によって大きく異なるものではない。奴隷や肉体労働者であれば夜明け前には目覚め、平均的な市民も彼らにやや遅れて床を離れる。帝国の上位一分に属する貴族たちもまた、昼過ぎには執務等を済ませるのが普通であるから、昼頃まで寝て過ごすということはあまりない。もしそれが常態であれば、その者の人格は不名誉、怠惰、無責任、堕落といった悪徳に結び付けられることになる。
それゆえフラウィアも、いつも空が白むころには起床する――正確には奴隷に自身を起こさせる――ことにしている。盲目の彼女は光によって時間を把握することが不可能であるためか、寝起きはあまり良くない。ゼノビアが体をゆすってもむずかるだけで眠りから離れようとせず、半刻ほどかけて、とても人には聞かせることのできないうめき声とともに、頭を掻きむしりながら体を起こすのである。
にも関わらず、彼女は人前に出るときにはすっかり明朗快活に振る舞えるようになっている。そのための努力を日常的にしているのだ。それが「体操」である。
彼女は毎朝、自分が発案した、良く言えば「人を哲学的思索に誘う」たぐいの、独特な室内運動をすることを習慣としていた。当人によれば「血液の循環を促進し、生気を脳に届けることで、たちまち意識が明晰になってくる」らしいのだが、毎朝眺めているゼノビアにはどうも胡散臭く聞こえて仕方がなかった。
「それに体力もつくだろう。私とて君に頼りきりではいけないだろうと常日頃から考えているのだよ」
右手と左足の踵をくっつけながらフラウィアが言うと、ゼノビアは首を傾げた。
「お前それ昔からやってるけどさあ、体力がついているようにはとても見えないぜ。前だって蟹に負けていただろう」
「むっ、あれは引き分けだよ、今度は勝つさ……あだっ」
不自然な体勢から転んだフラウィアをぼうっと眺めながら、ゼノビアはマッサリアでの出来事を思い返していた。
『蟹』。
『帝国』の海岸部に生息している頑強な甲羅と鋭い鋏を持った生物であり、いわゆる蟹と似ていることからその綽名が付けられているものの、体高は大人一人分にも達する恐るべき魔物――の方ではない。いわゆる蟹である。
フラウィアはマッサリアの港に降り立った直後、そこらをふらふらしていた蟹に足を挟まれ、反撃を試みた。ゼノビアは黙ってそれを見守っていたが、結局フラウィアは蟹を倒すこともできず、奴隷に助けを求めた。あえなくゼノビアに捕らえられた蟹はその後茹でられて二人の胃袋に収まった。その敗北は体に怪我を与えたわけではないが、代わりに心を傷つけたのかもしれない。
ところで、彼女たち二人が、最近マッサリア-ネマウスス間で発生している失踪事件を「発見」したのは、その翌日のことであった。
× × ×
被害者は全員女性。そのほとんどが奴隷身分であり、それゆえ大事件であるとはみなされていない。奴隷が逃亡することは稀ではないし、主人も一応当局に届を出すものの、追跡能力を有する集団を組織しえない一属州都市(それが存在するのは首都および東方属州の大都市のみである)に、発見を期待しているわけではない。見つかればそれに越したことはない、程度のことである。
一週間ほど前に自由民の女性が失踪したことが明らかになっても事態はとりたてて進展しなかった。基本的に殺人を含めた私人間の抗争の解決は自力救済を基本とし、加害者を突き止め訴訟に持ち込む責任は被害者側にある。少なくとも今の段階では都市が関与する必要がある事柄ではない。被害者たち同士が親族や近しい関係の者であり、かつ一連の事件が同一人物による犯行である証拠が存在すれば、遺族が都市当局に調査を依頼するということもありえたかもしれない。しかしそれらの条件はどちらも満たされていなかった。
そしてまた、フラウィアが関与するべき事態でもない。その程度のことは都市自宅に任せておけば良いことである。皇帝から預かっている任務はより国家大安に関わる事項、すなわち騒擾や反社会分子の抑制、法の執行状況の確認、および財政状況の調査であって、このような些末な事件ではない。
にも関わらず、都市の文書館にあった記録をゼノビアに読み上げさせたフラウィアは、その事件に関心を示し、未解決のまま放置されていることを知るや否や、失踪した者の人柄、失踪した場所と時期などを精力的に調査した。ネマウサにも書簡を送り、同様の案件が存在していることも確かめた。アントニウスには虚偽を伝えたが、実のところ彼女はひと月に少し満たない程度はマッサリアに滞在していたのである。
何が彼女を動かしたのか?
「面白そうだから」
ゼノビアに問われた皇女は、銀色の前髪をゆるく指に巻き付けてそう答えた。つまりは好奇心であり、正義感ではない。それが彼女の回答である。
半分は本当であるだろうとは思いつつも、もう半分の動機は別であろうとゼノビアは想像――いや、期待している。
事件についてそれとなく都市政務官に尋ねたフラウィアに、彼は言いにくそうではあったがこのように答えた。
男性が失踪し、しかもそれが連続しているとなれば、それは確かに調査すべき案件になりうる。親族も調査を請願してくるだろう。そうなればこちらとしても人員を組織しよう。だが今回の件で姿が晦ませたのは全員若い女性である。このようなものたちが衝動的な行動に出るのは珍しくないのではあるまいか。たとえば駆け落ちなどというのは良くある話である。無論皇女はその例外ではあるが、そのように見られるのは当然であり、それゆえ市民の親族としてもことを公にするのは憚られるに違いない。我々としてもそうとしか……。
彼は帝国における一般的な通念を口にしたに過ぎなかったから、フラウィアは穏やかにほほ笑んで感謝の言葉を述べた。しかし心中は如何なるものだったか?それはゼノビアにもはっきりとは分からないが――少なくとも、彼女の主人にはかかる「一般的通念」など知ったことではないはずなのである。
いずれにせよ、フラウィアもその時点では大事にはしなかった。しばらくするとその件を話題にしなくなり、近くにある「花園」に関心を示し始め、ネマウサに向かう途中で一時滞在するとゼノビアに伝えた。なんでえ、と思いつつ、彼女もあえて蒸し返すこともなかった。
フラウィアが花と死体の関係について伝えたのは、屋敷に向かう途中の馬車の中であった。
「……え、なんでそんなことするんだ」
言われたゼノビアはあっけにとられてそう応じた。
奴隷の体面に座っていたフラウィアは、車輪が立てる騒音に掻き消されない程度の、しかし御者には聞こえぬぐらいの小声でささやいた。
「君、動物の死体を埋めたことはあるかい」
「いや、ないが」
「今度実験してみようか。そうすると、その周りよりもずっと綺麗に花が咲くんだ。これだけなら肥料になっているだけだという話なんだが……埋められた死体の種類によって花の性質が変わる、という言い伝えがある」
明らかに「実験」をしたことのあるような口ぶりであったが、その点は保留する。動物の死体を使ったのであろう、まさかフラウィアも人間の死体を利用はしていないはずである、とゼノビアは自身を納得させた。
「種類っていうのは?」
「一般論だが、虫よりは動物、動物よりは人間、老人よりは若者、のほうがより良い特性が現れる……らしい。例えば大きさとかね。加えて、その個体の性質の一部を引き継ぐ……と聞く。すなわち、美しい――より客観的な表現をすれば、人間の眼に好ましく見える、かな――死体を埋めると、その植物も『美しく』なる。これが形態的なものなのか色彩的なものなのかは私には分からないが」
「有り得るのか、そんなこと。いまいち理屈が分からんのだが。花に着色するのとは訳が違うぜ」
ゼノビアが反論するとフラウィアは嬉しそうに顔を綻ばせた。彼女は奴隷の好奇心を尊重している。
「そう、これは技術ではない。魔術だ」
魔術。物質の物質に対する力を利用する技術ではなく、魂が物質に働きかける力を制御する技。ほぼ自然発生的に存在していたものが、東方のある宗教の司祭によって整備され、体系化されたものである。
近年(といっても一世紀ほどまえだが)海を渡って帝国にも伝えられたそれを、自在に操れる人間はごくわずかだ。今から向かう屋敷の主がそうだというのか?
ゼノビアの疑問にフラウィアは首を横に振った。
「魔術の中には特定の条件を満たせば自動的に発動するものも存在する。『命令権』だってそうだ。あれの仕組みは私にも良く分からないが、構文を守って宣言すれば発動する。形式を遵守したうえでどこかに魂を介在させれば魔術は使えるはずだよ」
「いつも気になるんだが、その『魂』ってのはなんなんだ」
「あ、聞きたい?」
フラウィアは珍しく年相応の声で問うた。否、それは疑問ならずして確認であり、そして彼女の確認とは強制なのである。
ゼノビアは自らの失敗に気付いた。
「そうだね、まずはどこから始めるべきだろうか。まず世界が四つの構成要素と二つの法則に従っていることは知っているね、すなわち火、水、土、空気の四大元素、そして時間律と因果律だ。これら述語的……うん、君に分かりやすい表現をするならば、『いかにあるか』を統合し、一つの『あるもの』にするのが、第三の法と呼ばれている『魂』なのだ。言い換えれば魂なくして『物』は『物』足りえない。しばしば生命と魂を一緒くたにする人々もいるのだが、それは私には大いなる誤謬であると思っているよ。私たちにはそれらの魂が見えない、認識できないだけなのだ。我々のそれとは類似性が少ないからね。むろん非生命のそれが著しく不活性である――これは変化であるところの火や、運動であるところの風が弱いことに起因しているのだけれども――のは事実ではあるがね」
「おう、万事すっかりわかったぜ。ところで」
抵抗は無意味であった。
「さて、ここまで話したところで、次は魂がいかに身体を動かしているのかを説明しなくてはならないね。まず先ほど話した通り魂はすべての物質に宿っている――というよりも、『個体性』こそが魂であるわけだが、人間身体においては、実のところ複数の魂が共同しているのだ。例えば君、心臓を止めたりできないだろう?消化を自発的に操作することはできないはずだ。左様、それらは意識とは別の魂が宿っているからに他ならない。といってもこれらも我々の意識であるところの魂、それを構成している部分からの物理的干渉を受けてはいるのだがね。我々の思考がどこかに依存しているかは知っているだろう?そう、脳だ。心臓が人間の魂の座なんてのは嘘っぱちさ。解剖現場に立ち会ったことがあるんだがね、心臓を破壊されても会話のできる奴はこの耳で聞いたのさ。逆に脳を破壊されて口を利けた奴は一人もいない。いや、待ちたまえ、言わんとすることは分かるよ。むろんその真の理解には自らの身を投じる必要があるだろうが、その実験は老後に取っておくことにしよう。それで……」
「…………」
「そこで本題だ。では一体どうやって人は身体以外の部分、すなわち外界に、魂を通じて働きかけるのか、これはまだ理論化されているわけではないんだ。しかし一部の学者は脳にある松果腺と呼ばれる一部分に秘密が隠されていると読んでいる。それというのも……」
彼女の「講義」は小一刻ほど続いた。聞き終えた時には明らかにうわの空であったゼノビアに、フラウィアは激怒した。
「まったく! 人にものを尋ねておいてそれかい!」
「すまんすまん、おまえの声があんまりにも心地よくてついうとうとしてしちまったんだ」
「なるほど、これは折檻だな」
フラウィアはぺちぺちとゼノビアを叩いたが、蟹さえ倒しえぬ彼女の力ではゼノビアの痛覚を刺激するには至らなかった。フラウィアは憤然やるかたなしといった表情で手を下ろし、奴隷から顔をそむけた。
「……だけどよう、それは分かったが」しばらくしてゼノビアが話を続けようとすると、
「嘘だ、分かってない」とフラウィアは頑なにそれを拒もうとしたが、
「魔術師でなくても、ってとこだよ。そういう魔術があるとしてだ、アントニウスとやらはそれをどうやって知ったんだ?」
と強引に言い終えると、それはもっともな疑問だと考えたのか、即座に怒りの表情を引っ込めた。こういうところでの切り替えは早い。少し考えて、指をくるくる回しながら説明をはじめる。
「例の東方遠征がきっかけでね。元の居場所を破壊された司祭が貴族や神殿から離れてその知恵を世にまき散らした。そういうのを使って金を稼いだり、あるいは知識それ自体を売りつけたり、といった形だ。だから東方系の商人であればそうした知識――人間を使用するかはともかく、死体を使った栽培法の知識を有している可能性は高い。というか、首都の『協会』がその情報を得たのはそうした経路だったはずだ。彼らは当然秘匿しているがね。で、アントニウスだが、あれはもともと騎士身分で、海洋貿易で財をなした人物だ。その伝手をつかって花の収集も行っているらしい。これは彼の友人から聞いた話だ。で、あれば、そうした魔術について知識があってもおかしくはない。まああと北の連中だが……うん、あいつらも極めて怪しいが、まあそれは保留だな」
説明を理解しつつ、首都の『協会本部』とルテティアの『支部』に対するフラウィアの言いようの違いに、ゼノビアは面白みを感じた。
「お前、あいつらに偏見あるよな」
「あんな蛮族に馴染んで過ごしている魔術師どもを信用する方がおかしい」
フラウィアには外人や迷信を軽蔑しているが、これは『帝国』の知識人には共通する傾向である。その態度はゼノビアに対しても例外ではない。フラウィアの「甘さ」は愚かな飼い犬に向けるそれと同根のものだとゼノビアは認識している。
が、それはどうでも良いことである。
「しかしそれだけか?それはあいつが犯人だって証拠にはならないぜ」
「証拠はこれから探すんだ。とはいえ、失踪した場所と時期……つまり彼がマッサリアを離れていた時期だ、これを考慮すると、アントニウスはだいぶ怪しい。あとは勘。それと……私ならそうするから、ってのが一番の理由かな」
「は?」
率直な疑問符に、しかしフラウィアは楽しそうに頬を歪めた。
「花が好き。世界中から花を集めて、自分の別荘に施設を作るほどに。で、死体を使って花をより美しく咲かせる技術があるとする。人間を使ったらより美しく、あるいは逞しくすることができる。使わない理由を見つけることの方が難しい」
にやにやと笑う主人に、ゼノビアはどういう対応するべきか判断しかねた。フラウィアのこういう傾向は今に始まったことではないが……。
奴隷の困惑を感じ取ったのか、フラウィアは陰湿な表情を引っ込めて、代わりに微苦笑を浮かべた。
「そう心配するな、その『使わない理由』が私にはある。ふう、いっぱい話をしたら喉が渇いてしまった。ちょっと飲み物を出してくれ。ついでに無花果でも食べるかな」
× × ×
ゼノビアの想起が終わったのは、彼女が主人の着替えを手伝え終えたのとほとんど同時であった。
ここでゼノビアは、いまだに十分知らされていない件が存在していることに思い至った。
「ところで、仮に死体が……」
言いかけたゼノビアの唇に、フラウィアは素早く人差し指を当てた。ゼノビアは即座に了解し、主人から離れた。聴覚では皇女に分がある。
ゼノビアの心臓が十拍打ったあたりで、客室の扉が数度叩かれた。フラウィアがどうぞと答えると、昨夜案内をした女奴隷が朝の挨拶とともに扉を開いた。後ろにはさらに二人の奴隷が控えている。その右手には大きな銀の盆が乗せられていた。朝食だ。
『帝国』においては、朝食は家庭などで個人的に摂るものだとされている。夕食のように誰かを招くというのはあまりない。前日の夕食の残り物や、晩餐から持ち帰った食事を朝に回す事が多いから、比較的朝食はしっかりと食べることになる。一方、昼食はあまり一般的ではなく、食べるにしてもごく軽く済ませる。
二人に供されたのは昨日の残りものではなかった。麺麭と乳酪、ゆで卵、果物がいくつか、胡桃、豚の腸詰。飲み物は蜂蜜と水で割った葡萄酒。
奴隷たちが立ち去ると二人は部屋に備え付けの卓についた。先に手を付けたのはゼノビアであったが、フラウィアは文句を言わない。本来であればそれで正しいからである。
「ところで、先ほど何かを言いかけていたようだが」
フラウィアから許可を与えられたゼノビアは、しかし手元の腸詰を眺めてひどく嫌そうな顔をしつつ、
「いや、やっぱ後でいいわ」
と答えた。