第9話 俺の部屋に泊まると言い出した彼女
ホットプレートの電源を切り、香ばしいソースの匂いがまだ残る六畳間の自室。
時計の短い針は、すでに夜の九時を回ろうとしていた。
薄いカーテンの隙間からは、初夏の冷気をはらんだ夜風が吹き込み、火照った部屋の空気を少しずつ冷やしていく。
「あー、食べた食べた! めっちゃ美味しかったー!」
熊川梨々花さんがパンパンになったお腹を摩りながら、畳の上に大胆にゴロリと横になった。
ボーダー柄の服が少し捲れ、健康的な白いお腹がチラリと覗いている。
「ちょっと梨々花、行儀が悪いぞ。……さて、そろそろいい時間だな」
栃谷瑠以さんが手元のスマホで時刻を確認し、缶チューハイの最後の一口をゴクリと飲み干した。
「これから二人が電車で帰るには、ちょっと遅い時間だな」
俺が空いた缶をまとめながら声をかけると、瑠以さんはさも当然といった様子でうなずいた。
「そうだな。夜道に女子一人で帰るのも物騒だしな。――というわけで、今夜はここに泊まらせてもらう」
「……まあ、それが良いだろうな」
アパートに泊まっていくこと自体には異論はない。
鷹司さんの部屋に二人が泊まるのであれば、防犯の面でも安心だし、何の問題もないはずだった。
そう思っていた俺に対し、瑠以さんは悪びれもせず、あっけらかんと言い放った。
「じゃ、梨々花は詩織の部屋で、私は遊技の部屋な」
「……は?」
俺は手を止め、思わず瑠以さんの顔を二度見した。
* * *
「鷹司さんの部屋に泊まればいいだろ?」
「それじゃあ、詩織の部屋に三人で寝ることになるでしょ? 狭いじゃない」
畳に転がっていた梨々花さんが体を起こし、むにゅっと頬を膨らませて抗議してくる。
「詩織の部屋、シングルベッドと机くらいしかないけど、三人で寝たら暑いし、大きさ的にもギリギリなんだよー。そんなわけでさー、一人はここで寝ないと」
「それとも、遊技はこの私に外で野宿しろとでも言う気かな?」
瑠以さんが不敵な笑みを浮かべ、いつもの調子で俺を追いつめてくる。
「え、えっと……ふたりとも!」
それまで部屋の隅で小さくなっていた鷹司詩織さんが、慌てて二人と俺の間に割って入ってきた。
大きめの黒縁メガネを慌ただしく直し、真っ赤になった顔で必死に俺の思いを代弁してくれる。
「と、富岡さんは……男女が同じ部屋で寝泊まりするのはどうか、という倫理的な面を懸念しているのよ……っ! ね、富岡さん!?」
俺の意図を正確に汲み取ってくれた詩織さんにうなずこうとした、まさにその瞬間だった。
梨々花と瑠以が、同時に噴き出した。
「ぷはははっ! なにそれ詩織、真面目か!」
「富岡君が私を襲うっていうの? 冗談でしょ!」
瑠以さんがニヤリと笑い、ノースリーブの袖から覗くスレンダーな腕の筋肉を叩いてみせる。
「来るなら来なさい。返り討ちにしてあげるわ」
* *
二人のあまりの無防備さと楽観ぶりに、俺は本気で危機感を覚えた。
サバサバしているとはいえ、年相応の華奢で魅力的な美大生の女子なのだ。
男性に対する警戒心が無さすぎるんじゃないだろうか。
俺は膝に手を置き、姿勢を正して二人をじっと見つめた。
「いや、鷹司さんの懸念は間違っていない。俺がどうこうという話ではなく、男性と二人きりになることを軽く考えすぎだ」
俺が真剣なトーンで釘を刺すと、二人の笑いがすっと引いた。
「……ふーん」
瑠以さんが少し意外そうな目で、俺の顔を見つめ直す。
「私達だって、こんなふうに男の人の部屋に、そう簡単には上がらないよ」
梨々花さんが、いつもより少しトーンを落とした真面目な声で言った。
「こうして遊びに来たのだって、富岡君の部屋が初めてだしね」
「そうそう。私がこの部屋に泊まるというのは――間違いが起こっても、別にかまわない。そう思っているからの提案と思ってくれ」
瑠以さんが肩をすくめ、さらりと恐ろしいことを口にした。
どこまでが本気で、どこからが俺をからかっているのか、表情からは読み取れない。
だが、二人が俺という人間に対して、信頼を寄せてくれていることだけは伝わってきた。
だが――
だとしても、この提案は断るべきだ。
* * *
俺は極めて常識的な意見を言おうとしが、それよりも早く――胸の奥でククリヒメの『呪い』がカチリと音を立てた。
俺の意思とは無関係に、口が勝手に滑り出す。
「……わかった。そういうことなら提案を受け入れる」
「うぇえええ〜!? ちょっと富岡さんっ!?」
詩織さんが裏返った悲鳴をあげた。
「なんで受け入れちゃうんですか!? ダメ駄目、ダメです! いくら栃谷さんでも、男の人と同じ部屋なんて――!」
「はいはい詩織、お邪魔虫は退散だよー!」
パニックになる詩織さんのダボダボのパーカーの首根っこを、梨々花さんがひょいと掴んだ。
「えっ、ちょっと熊川さん!? 離して、私、富岡さんにちゃんと言わないと――!」
「じゃあね富岡君! 瑠以をよろしくー!」
バタン、とドアが閉まり、詩織さんの叫び声は廊下の向こうへと消えていった。
* *
(また余計な一言を……)
だが、夜遅くに女の子を外に追い出すわけにもいかないのは事実だ。
俺が一人で溜息をついていると、部屋に残った瑠以さんが、持参していた大きなトートバッグをごそごそと漁り始めた。
「じゃあ、早速お風呂を借りようかな。……一緒に入る?」
「入るわけないだろ」
トートバッグからは、きれいに畳まれたバスタオルと、小さなポーチに入ったお泊まりセットが手際よく取り出された。
「……荷物が大きいと思ったら、最初からこの部屋に泊まる気で来たのか?」
俺が呆れるように言うと、瑠以さんは手を止め、サバサバとした笑みを浮かべた。
「いや、実際にこうして喋ってみて、それで決めたんだ。遊技がろくでもない奴だったら、狭くても詩織の部屋に逃げ込むつもりだったよ」
「……なるほどな」
俺はハッと気づいた。
この二人は、ただ遊びに来たわけではなかったのだ。
おとなしくて気弱な詩織さんの隣に、どんな男が住み着いたのか。
彼女に危険が及ばないか、自分たちの目で確かめるためにこうして乗り込んできたのだ。
「鷹司さんは、いい友人を持っているな」
俺が素直な感想を漏らすと、瑠以さんは少し照れたように鼻を鳴らした。
「それにしても、いきなり泊まるというのはどうかと思うが……」
「気にするなって。遊技とはもう友達になったんだし、多少のことなら目を瞑っててやるからさ」
瑠以さんはポンと俺の肩を叩いた。
その手つきは男友達のノリそのものだった。
不思議と――
彼女のことは、すでに男友達のように思えている。
今まで彼女はおろか、女友達すらいなかった俺だが、この距離感はどこか心地よかった。
(男女の友達で同じ部屋に泊まるっていうのは、案外普通のことなのかもしれないな。今まで女子の友人がいなかった分、意識し過ぎなのかもしれない)
俺は彼女がこの部屋に留まることを、完全に受け入れることにした。
* * *
「じゃあ、先に風呂に入ってくれ。俺は後から入る」
「サンキュ。……覗くなよ?」
瑠以さんはポーチを手に立ち上がり、ニヤッと笑った。
「馬鹿言え。そんなことしないから安心して入れ」
「無理しちゃってぇ」
瑠以さんは狭い脱衣所へと消え、カチャリと鍵がかかる音がした。
しばらくすると、衣擦れの音に続いて、シャワーの温かい水音が狭いユニットバス内に響き始めた。
男友達のようだ、と自分に言い聞かせてはいたものの。
脱衣所の向こうで、スレンダーでスタイリッシュな女子が服を脱ぎ、肌を濡らしているという事実は、否応なしに男としての意識を揺さぶってくる。
ドアの隙間から、ほのかに甘いシャンプーと柑橘系の石鹸の香りが漂ってきた。
(いかん、雑念を払わねば……)
俺はローテーブルの上にクロッキー帳を広げ、アニ研の自主制作に取りかかることにした。
弥太郎から任された、短編アニメの背景美術。
『離れ離れになった恋人を探し、世界を旅するハムスター』
その一場面、『雨の階段を駆け上がる』カットだ。
鉛筆の先を紙に滑らせ、重々しい岩肌のような絶壁と、激しく打ち付ける雨の構図を描き込んでいく。
このクロッキー帳の原画をアニ研のスキャナーで取り込み、液タブ上で油彩風の重厚な彩色と雨のエフェクトを乗せれば一枚完成だ。
シャワーの水音と、紙を擦る鉛筆の音。
静かな夜の部屋で、俺のペン先は不思議な集中力を帯びて滑っていった。




