第10話 無防備な彼女と、秘密の手ほどき
カチャリと軽い音を立ててユニットバスのドアが開き、温かい湯気とともにフルーティーなシャンプーの香りが部屋に流れ込んできた。
クロッキー帳に向かってシャープペンシルを走らせていた俺は、作業の手を止めて振り返る。
「ふいー、さっぱりしたー」
湿り気を帯びた茶髪のショートヘアをタオルでガシガシと拭きながら出てきた瑠以さんは、驚くほどラフな格好をしていた。
ダボついたグレーのタンクトップに、太ももの付け根あたりまでしかない薄手のショートパンツ。
タンクトップの首元は広めに開いており、彼女が身を乗り出すたびに、華奢だが綺麗な鎖骨と、すべらかな胸元の肌がチラリと覗く。
「……栃谷さん、いくらなんでも着替えがラフすぎないか?」
「ん? 何が? 家ではいつもこんな感じだけど」
瑠以さんは全く気にした様子もなく、濡れた髪を手ぐしで整えながら、俺の背後にすっと忍び寄ってきた。
「それより、何描いてるの? 見せて」
そう言って俺の肩越しに顔を覗き込んできた。
ふわりと漂う湯上がりの熱気と、柑橘系の石鹸の匂い。
彼女の柔らかい髪の毛先が俺の頬をかすめ、しっとりとした感触が皮膚を刺激する。
「……アニ研の自主製作だ。短編アニメの背景美術の下絵を描いてる」
「へえ……上手いじゃん。崖のようにそびえる階段を駆け上がるハムスター、か。……ねえ遊技、ここの影の明暗、もう少し暗く落とした方が良くない?」
瑠以さんは俺の手元を指差し、身を乗り出してきた。
タンクトップの側面から、ブラジャーの紐と引き締まった脇腹のラインが丸見えになっている。
「……こうか?」
「そうそう。光の差し込みを抑えると、切なさが引き立つでしょ? 空間の奥行きって、陰影の濃淡で決まるからさ」
空間デザイン専攻らしい、実に的確なアドバイスだった。
彼女のクリエイターとしての視点に感心しつつ、俺は「助かった、参考にするよ」と告げてクロッキー帳を閉じた。
「じゃあ、俺も風呂に入るか」
「おう、ごゆっくりー」
バスタオルを持って脱衣所に入り、鍵を閉める。
湯船にお湯を張り、温かい湯に体を沈めながら、俺は冷静に思考を整理した。
(……いくら男友達のようなノリとはいえ、あの格好は無防備がすぎるだろう。だが、ここで『目のやり場に困る』なんて指摘をしたら、俺が彼女を『女』として意識していることがバレてしまう)
俺は大きく息を吐き、平静を装うことを心に決めた。
(向こうは純粋に友達として接してくれているんだ。俺だけが変に意識して気まずくなるのは避けたい)
* * *
風呂から上がり、髪を乾かして部屋に戻ると、瑠以さんは俺の布団の上でスマホをいじっていた。
「上がったか。お疲れ」
「ああ。……さて、そろそろ寝るか」
俺は押し入れから予備の布団を取り出し、狭い六畳間の畳の上に敷いた。
シーツをピンと張りながら、俺は疑問を呈す。
「流石に、並んで寝るのは問題あるよな――俺が床の上か、向こうの壁際で寝ようか?」
男と女が、布団を並べて寝るわけにはいかない。
当然の配慮として提案したつもりだったのだが、瑠以さんはスマホから目を離し、心底不思議そうに首をかしげた。
「は? なんで? 一緒に寝ればいいじゃん」
「それは、流石に……」
「狭い部屋で片方が床の上とか、余計に気を使うでしょ。布団は別々なんだしさ――気にすることないって。ほら、早く寝なよ」
瑠以さんはあっけらかんと言い放ち、すっと布団をめくって、さも当然のように潜り込んでしまった。
断る間もなく主導権を握られ、俺はしばし呆然と立ち尽くした。
(……いや、こういうものなのか? 男女の友達同士でお泊りをするというのは、こういう距離感が普通なのか……?)
これまで俺は女友達がいなかった。
そんな自分の世間知らずさを疑いつつ、そういうものかと溜息をついて電気の紐を引いた。
カチリと音がして、部屋が深い暗闇に包まれる。
俺は瑠以さんに背を向ける形で、布団の端にそっと体を滑り込ませた。
「おやすみ、遊技」
「……ああ、おやすみ」
静寂が部屋を支配する。
しかし、俺の神経は研ぎ澄まされ、一向に眠気など訪れてはくれなかった。
* * *
俺が眠れずにいると、隣で横になっている瑠以さんが動いた。
なんと彼女は、俺の布団の方に侵入してきたのだ。
背後から伝わってくる、瑠以さんの体温。
布地越しに感じる彼女の微かな呼吸の振動と、背中に触れそうなほど近い距離から漂う髪の匂い。
頭では「彼女はただの友人だ」と何度も理解させようとしているのに、男としての本能が暴走を始めていた。
(落ち着け……理性を保て……)
脳裏に必死で般若心経を思い浮かべようとするが、血流が下半身へと急速に集まっていくのを止められない。
ボクサーパンツの中で、俺の『それ』はズボンの生地を押し上げるほど硬く、猛烈に膨らんでしまった。
冷や汗が額を伝う。
もし寝返りを打った拍子に触れてしまったら、一発で変態扱いされる。
俺が息を殺して硬直していると――
カサリ、と衣擦れの音が響いた。
そして、瑠以さんが後ろから話かけてきた。
「……遊技、起きてる?」
「……あ、ああ」
「やっぱり、眠れないよな」
暗闇の中で、彼女の瞳が薄っすらと光っている。
そして、俺の身体に回された彼女の手が――
膨らみかけた下半身の先端に、微かに触れた。
「……っ!」
俺は弾かれたように体を強張らせた。
瑠以さんは一瞬動きを止め、それから……くすっと小さく含み笑いを漏らした。
「……ふふ。私でも、そうなるんだ」
* * *
完全に悟られた。
暗闇の中で、俺の顔が一気に熱くなっていくのが自分でも分かった。
「……すまない」
俺は低い声で謝罪した。
「生理現象とはいえ、友達に対してこんな――失礼な反応をしてしまって……」
「謝ることないって」
瑠以さんの声は、いつもの強がりなトーンではなく、どこか柔らかく響いた。
「男はそういうものだって知ってるし……それにさ。ほっとしてるっていうか、ちょっと嬉しいんだ」
「……え?」
俺が振り向くと、瑠以さんは薄暗がりの中で少し照れくさそうに笑っていた。
「私さ、昔からこんな性格で、髪も短いしパンツスタイルばかりでしょ? だから男友達からは全然、女扱いされてこなかったんだよね」
彼女は自分の胸元をぎゅっと手で握りしめながら、言葉を続ける。
「だからさ、詩織の隣に住んでる『富岡遊技』ってのが良い奴で、もしフリーだったら、こうして誘ってみようって……実は梨々花と最初から計画してたんだ」
「計画……?」
「そう。詩織も『富岡君とは付き合うつもりはない』って、はっきり言ってたしな」
* *
――ドクン、と胸の奥が嫌な音を立てた。
鷹司詩織さんは、俺と付き合うつもりはないと、友人たちに断言している。
彼女には実家が決めた許嫁がいるのだから、それを考えれば当然だろう。
だが、何故だか、どうしてなのかは分からないが――
彼女から「付き合う気はない」と第三者経由で突きつけられた現実は、思いのほか鋭く俺の心を抉った。
俺の落胆に気づく様子もなく、瑠以さんはまっすぐな瞳で俺を見つめてくる。
「お前は結構私のタイプだし、良いかなって……別に覚悟もなしに男の部屋に泊まったんじゃないんだよ。……だからさ、我慢できないなら、襲っても良いぞ?」
静かな部屋に、あまりにも劇的な提案が落ちた。
スレンダーだが魅力的な女子からの、明確な許し。
理性があっけなく崩れそうになるのを、俺は歯を食いしばって踏みとどまった。
「……襲いはしないよ」
「え? なんで? 私、嫌じゃないって言ってるのに」
「俺には……シオンさんという人がいる」
俺は静かに、だがはっきりと宣言した。
「二度と会えないかもしれないが、俺はあの人を想っている。だから、君の魅力に負けて一線を越えるわけにはいかない」
瑠以さんは目を丸くし、それから「……そっか」と呟いて、どこか感心したように目を細めた。
「まじで一途なんだな、遊技は。……でもさ、それ、どうするの?」
瑠以さんの視線が、俺の腰元――
いまだ主張をやめない部分へと落ちる。
「……ほっとけば、そのうち収まる」
「嘘つけ。そんなカチカチで収まるわけないじゃん。……辛いでしょ?」
瑠以さんはフッと笑うと、布団の中でゆっくりと手を伸ばしてきた。
「私のせいでもあるしさ。……収めるの、手伝ってあげるよ」
「っ、おい……!」
制止する間もなく、彼女のしなやかで温かい手が、俺のボクサーパンツのゴムをすっと滑り降りてきた。
* * *
「遠慮するなって。『シオンさん』は連絡先もわからずに離れ離れなんだろ? その人には黙っといてあげるから」
指先が、直接俺の熱線に触れる。
「っ……く……!」
瑠以さんの細い指によって導かれた彼女の秘密の温もりが――
吸い付くような感触で俺を優しく包み込んだ。
湯上がりの彼女の手はすべすべとしていて、少しだけひんやりとしていて、それが猛烈な熱を帯びた俺の肌に尋常ではない快感をもたらす。
「ふふ、すごい……すっごく熱いよ、遊技……」
耳元で聞こえる、瑠以さんの少し上擦った熱い息吐き。
彼女は素肌の先端から根元に向けて、一定のリズムで優しく指を滑らせ始めた。
微かに擦れる感触、柔らかい肉圧。
女友達だと思っていた彼女から伝わる圧倒的な「女性」の存在感に、俺の理性が白く染まっていく。
「んっ……あ……」
「声、ガマンしなくていいよ……詩織たちに聞こえない程度なら……」
瑠以さんは空いた方の手で俺の首元に回し、密着するように抱きついてきた。
タンクトップ越しに伝わる、彼女の小さめの胸の柔らかさ。
「あ……く、つ……!」
彼女との接触が少しずつ早くなる。
擦れる摩擦音と、溢れ出る滑らかなものがローション代わりとなり、快感が加速度的に跳ね上がっていく。
「……っ!」
「うん、出して……! 遠慮しなくていいから……っ」
彼女の優しさと抱擁に、俺は一気に限界を迎えた。
俺は瑠以さんの肩に顔をうずめ、激しい呼吸を繰り返した。
* * *
「……ふぅ。すごかったね……いっぱい出た」
暗闇の中、瑠以さんはティッシュ箱から何枚も紙を引き抜き、自分の手を丁寧に拭き取っていた。
部屋の中に、独特の甘く濃厚な匂いが立ち込める。
「……すまない、汚してしまって」
「気にすんなって。……ん?」
瑠以さんが拭き終えた手を俺の腰に戻した瞬間、彼女の動きが止まった。
一度放出したはずの俺の体は、この密着したシチュエーションと、彼女の甘い匂いのせいで、収まるどころか二度目の熱を帯びて再び硬度を取り戻しつつあった。
「……あはは、嘘でしょ? へー、まだこんなに元気なの?」
瑠以さんが呆れたように、だがどこか嬉しそうに呟く。
俺は彼女の手首をそっと掴み、制した。
「これ以上続けたら……俺は本当に君を抱いてしまう」
「……抱いてくれても、いいんだよ?」
瑠以さんは上目遣いで俺を見つめてきた。
その瞳には、冗談ではない艶やかな光が宿っていた。
だが、ここで彼女を抱いてしまえば、俺たちの関係は「友達」から完全に逸脱し、取り返しのつかない線を越えてしまう。
「ダメだ。……これ以上は、絶対にしない」
俺は固い決意を込めて言った。
瑠以さんは俺の目をじっと見つめ返し――
やがて「……ふふ、意外と頑固なんだから」と小さく笑った。
「本当に真面目なんだね、遊技は。……分かった、今夜はここまでにしてあげる」
瑠以さんは俺の胸元にそっと頭を預け、猫のように体を丸めた。
「おやすみ、遊技。……ありがとね」
「……おやすみ、栃谷さん」
結局、二度目の熱が引き切るまでには、それなりに時間がかかった。
しかし俺は、ギリギリの境界線を踏みとどまり、「友達」という関係を守り抜いた。
隣でスースーと規則正しい寝息を立て始めた瑠以さんの温もりを感じながら、アパートの夜は静かに明けていくのだった。




