第11話 彼女からの依頼
タコパとお泊りという怒涛の夜から、数日が経過した。
初夏の強い日差しがキャンパスの赤レンガを照らし、噴水広場には課題の合間にくつろぐ学生たちの賑やかな話し声が響いている。
食堂で昼食を取り終え、キャンバスバッグを肩にかけた俺は、美術学科の専用棟へ向かって歩いていた。
その時、講義棟前の広場で、見覚えのある三人組の姿が目に入った。
「あっ、富岡君だー!」
遠くから真っ先に俺を見つけ、ぶんぶんと手を振って駆け寄ってきたのは、熊川梨々花さんだった。
茶髪ロングのハーフアップを揺らし、パッチリとした大きな目を輝かせている。
ボーダー柄のカジュアルなトップスからは、細くしなやかな首筋と綺麗な鎖骨が覗いていた。
「ねえねえ富岡君! 私の絵は順調かね?」
梨々花さんは俺の前でぴたりと足を止めると、ニシシと八重歯を見せて無邪気に笑った。
「……えっ? 熊川さんの絵は描いてませんけど?」
俺が素で首をかしげると、梨々花さんは大げさに目を丸くし、手で口元を押さえた。
「ええっ! 富岡君って、好きな女の子の絵を描いてコレクションしてる変態なんでしょ!?」
「へ、変態……!?」
「だったら、私の絵も描かなきゃダメじゃん! この間、あんなに熱烈に愛を囁いて抱きしめてくれたのは嘘だったのー!?」
梨々花さんは表情をコロコロと変えながら、詰め寄ってくる。
確かに俺は、彼女の言うように告白まがいのことをしていた。
それはシオンさんに対してなのだが――彼女のからかいに乗る形で抱きしめ、「好きだ」と囁いたあの出来事だ。
すれ違う学生たちが「えっ、愛の告白……?」「変態コレクション……?」とちらちらこちらを振り返る。
「声が大きいよ、熊川さん……。あれは君が先に『シオンさんの代わりに抱きしめていい』なんて、からかってきたからだろ」
「えー、でも私、本気できゅんとしちゃったんだからね! 責任取って私の美しさもキャンバスに残してくれても良くない!?」
梨々花さんはぷくっと頬を膨らませ、距離を詰めてくる。
彼女の体から、フルーティーな甘い香水と、日差しを浴びた女子特有の温かい匂いがふわりと漂ってきた。
ここは毅然とした態度できっぱり断るべきか。
それとも、友人としての頼みを引き受けて、しっかりと描いてやるべきか。
俺が一瞬、脳内で二つの選択肢を天秤にかけようとした、その時だった。
胸の奥で、ククリヒメの『呪い』がカチリと音を立てて作動した。
思考がまとまる前に、喉の奥が勝手に熱くなり、フィルターを通さずに言葉が滑り出る。
「わかったよ。熊川さんの美しさを、俺がキャンバスに閉じ込めてやるさ」
* *
「……っ!?」
朗々と、何の迷いもなく言い放った俺の言葉に、梨々花さんは言葉を詰まらせた。
「っ、えっ、……ええっ! 堂々とそんな臭いセリフ言わないでよバカ!」
勢いよく迫っていたはずの彼女が、一転して耳まで真っ赤にし、照れ隠しに自分の顔を両手で覆う。
「ふはっ、遊技、相変わらずキザなセリフが素で出るなぁ」
後ろから歩いてきた栃谷瑠以さんが、可笑しそうに腹を抱えて笑っていた。
スレンダーなパンツスタイルに、サバサバとしたショートヘア。
先日の夜、俺の部屋で同じ布団に入り、秘密の手ほどきをしてくれた時の妖艶さは綺麗に押し隠され、今はいつもの頼もしい姉御肌の表情に戻っている。
「じゃあ、私の絵も描かなきゃだな。遊技」
瑠以さんは俺の横に並ぶと、ポンと親しみ込めて背中を叩いてきた。
届いた手応えは、男友達のそれと変わらない軽い打撃だ。
一人引き受けた以上、ここで瑠以さんだけを断るのは失礼にあたる。
俺は肩をすくめ、彼女に向き直った。
「わかったよ。本人よりも美人に描いても恨むなよ」
「なにをー」
瑠以さんはニヤリと笑うと、拳をつくってどっ軽く俺のお腹を小突いてきた。
「私だって脱いだらすごいんだからな? あ、遊技はもう知ってるか」
「おい、人前で紛らわしい言い方をするな」
「あはは、冗談だって!」
カラカラと笑う瑠以さん。
このあたりのテンポの良いやり取りは、本当に気を許した男友達のようで心地よい。
* *
「じゃあなー、遊技! 課題が終わったらモデルになってやるから覚悟しときな!」
「またね、富岡君! めっちゃ美人に描いてくれないと許さないんだから!」
瑠以さんと梨々花さんは楽しそうに手を振りながら、デザイン棟の方へと歩き出した。
だが――
三人組の最後尾にいた鷹司詩織さんだけは、その場に残っていた。
黒髪の一つ結び、ダボダボのグレーのパーカー、大きめの伊達メガネ。
目立たない地味な装いをした彼女は、二人の背中が遠ざかるのを確認すると、トコトコと小走りで俺の至近距離まで寄ってきた。
「……富岡さん」
伊達メガネの奥で、彼女の黒目がちな瞳がじっと俺を見つめている。
そして、桃色の唇を可愛くとがらせると、頬をぷくーっと膨らませ、不満そうに横を向いた。
「……浮気者」
ぽつりと落とされたのは、小さな嫉妬の不平だった。
「え?」
「富岡さん……すぐ他の女の子の絵を描くなんて言っちゃって……大ウソつきの浮気者です」
詩織さんはパーカーの袖口から指先だけを出し、俺の服の裾をキュッとつまむ。
ひょっとして、焼きもちを焼いているのだろうか?
(……何気に、めちゃくちゃ可愛いんだよな)
普段は大人しくて地味な彼女が、こうして感情を露わにしてすねる姿は、胸を激しく突いてくる魅力があった。
「すまない。断れなかったんだ。……でも、シオンさんへの想いは変わってない。彼女を好きな気持ちは、俺の心の中で燃え続けているんだ」
俺がそう宣言すると、詩織さんは「っ……!」と顔を跳ね上げ、真っ赤になって手を放した。
「も、もうっ! だからそういうこと急に言わないでください!」
詩織さんはフードを深々とかぶり直し、逃げるように二人の後を追って走っていった。
(なぜ、君が照れる?)
少し疑問に感じたが、真剣に考えるようなことでもない。
そんなことよりも――
照れて逃げていく彼女の背中を見送りながら、俺は心の中で決意した。
あの悪戯っぽくすねた詩織さんの魅力的な表情も、必ずキャンパスに描き留めておこう、と。
* * *
午後からの講義を終え、美術学課の専用棟からアニ研の部室がある部室棟へと向かう渡り廊下。
油絵の具の独特なオイルの匂いが漂う静かな廊下で、後ろからパタパタという軽い足音が追いかけてきた。
「ねえねえ、富岡君!」
振り返ると、そこに立っていたのは一学年上の先輩、白崎小湖乃さんだった。
ライトブラウンのゆるふわウェーブの髪に、ぱっちりとした大きな瞳。
身長は百五十センチほどしかなく、実年齢よりもかなり幼く見える、油絵科のキュートな先輩だ。
俺と同じ安アパートの二階――
俺の201号室の二つ隣(詩織さんの隣)に住んでいる。
「白崎先輩。お疲れ様です」
「うん、お疲れ様〜! えへへ、偶然だね」
小湖乃先輩は胸の前で小さな両手を合わせ、ふわっと花が咲くような笑顔を向けた。
同じ油絵科で、しかもアパートの近所同士ということもあり、日頃から挨拶を交わす程度の面識はあった。
だが、先輩はどこかソワソワした様子で、上目遣いに俺の顔を覗き込んでくる。
* *
「ねえねえ、富岡君。さっき広場で見かけちゃったんだけど……」
「広場で、ですか?」
「うん! 美人を描くのが趣味なんだって〜? 立ち話が聞こえちゃったんだよね」
小湖乃先輩は人差し指を唇に当て、悪戯っぽく首を傾げた。
「詩織ちゃんたちを熱心に口説いてたじゃない。『モデルになってくれ』って。富岡君って、意外と肉食系だったんだ〜?」
(……ああ、そういう風に伝わったのか)
先ほどの梨々花さんたちとのやり取りを中途半端に耳に挟んだせいで、俺が自ら三人組を口説き落とし、絵のモデルに志願したと勘違いされているようだ。
(ここで『いや、彼女たちから言い出されたんです』と事実関係を説明すべきか……。だが、それも言い訳がましくて、みっともない気がするな)
俺の頭の中で、ふたつの選択肢が激しく交錯する。
そして――どちらの結論を選ぶか決める前に、またしてもあの神社での『神様の呪い』が作動した。
喉が熱くなり、制御不能になった口が滑らかに言葉を紡ぎ出す。
「ええ。俺は美人を描いてコレクションしていこうと思ってまして。よければ、白崎さんの絵も描かせてくれませんか。是非ともモデルになって貰いたいです」
一分の隙もない、澄まし顔での完璧な口説き文句。
* * *
「え……えええっ!?」
小湖乃先輩の時が止まった。
ゆるふわの髪を揺らし、パチクリと目を瞬かせたかと思うと、一瞬で顔を耳まで真っ赤に染め上げた。
「び、びびび、美人……!? 私が……!?」
小湖乃先輩は、あわあわと両手を胸の前で振り回し、視線をあちこちに泳がせる。
「そんな……っ! 私って昔から、『可愛い』とか『ちっちゃくて妹みたい』とかはよく言われてたけど……『美人』なんて言われたの、初めてだよ……っ!」
先輩は自分の両頬をぽっと赤く染めた手で包み、もじもじと身をよじらせた。
「で、でも、そうかな……? 私も最近、少しは大人っぽくなったかな……?」
小湖乃先輩は上体を少し前に傾け、斜め四十五度の角度から、キュルンとした潤んだ瞳で俺を見上げてきた。
ふわりと広がる、ベビーパウダーのような甘く可憐な匂い。
小動物のような愛らしさと、上目遣いの完璧なあざとさが合わさり、破壊力は抜群だった。
(か……かわいい……)
思わず心の中で悶絶する。
幼い見た目とはいえ、一学年上の先輩女子だ。このギャップは反則に近い。
俺は空気を読み、大人の落ち着いた表情を崩さずに追撃の言葉を投げかけた。
「えっと……はい。白崎さんは、間違いなく美人です」
「〜〜〜〜っっっ!!」
小湖乃先輩の顔から、ぷしゅーっと湯気が立ち上りそうになる。
彼女は照れ隠しにエイッと俺の腕を軽く叩くと、上機嫌にふふんと胸を張った。
「もうっ! 仕方ないな〜! そんなに情熱的に頼まれちゃったら、断れないじゃない!」
小湖乃先輩は、人指し指をピンと立てて宣言する。
「いいよ! 今度の休み、富岡君のために特別にモデルになってあげる! ちゃんと可愛く……じゃなくて、美しく描いてよね!」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
「うん! じゃあまたアパートでね、富岡君!」
小湖乃先輩は弾むような足取りで、パタパタと廊下を走っていった。
去り際に振り返って小さく手を振る姿は、どう見ても上機嫌の子供そのものだった。
静まり返った廊下に一人残された俺は、そっと溜息をついた。
(……やってしまった)
梨々花さん、瑠以さん(それに俺が、自主的に書きたいと思った詩織さん)。
そして新たに、同じアパートの小湖乃先輩。
気づけば俺の手元には、魅力溢れる四人の美少女モデルを絵にするという仕事が山積みになっていた。
波乱の予感をはらんだ休日が、俺を待っている。




