第12話 甘い休日と、秘密のスケッチ
休日の午後。
カーテン越しに差し込むやわらかな陽光が、六畳間の畳の上に温かな光の四角を描いていた。
部屋の中には、スケッチブックとクロッキー帳、そして鉛筆の削りかすをまとめた小さなゴミ箱だけが置かれている。
カツ、カツと廊下を歩いてくる小さな足音が聞こえた直後、コンコンと控えめなノック音がドアを叩いた。
* *
「はーい、どうぞ。開いてますよ」
俺が声をかけると、ガチャリとドアが開き、ひょっこりと顔を出したのは白崎小湖乃先輩だった。
ライトブラウンのゆるふわウェーブの髪に、フリルがあしらわれた薄桃色のブラウスとフレアスカート。
身長百五十センチほどの小柄な体にマッチした、実に可愛らしい休日用の私服姿だ。
彼女はトートバックを肩にかけて、手にも何やら抱えている。
「お邪魔しまーす! ふふ、富岡君、お待たせしちゃってごめんね?」
小湖乃先輩は小さな靴を脱ぎ、パタパタと部屋に上がってきた。
その手には、可愛らしいリボンでラッピングされた透明なタッパーが抱えられている。
「ごめんね、休日にわざわざ時間を取ってもらっちゃって」
「いえ、俺にとってもすごく良い勉強になりますし、全然気にしないでください」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな。……あ、これね! 絵を描いてもらうお礼っていうか、私が作ったお菓子なんだけど、差し入れ! 召し上がれ」
先輩は「はいっ」と両手でタッパーを差し出してきた。
フタを開けると、甘いバターと香ばしいバニラの香りが部屋いっぱいに広がる。
中には、綺麗に焼き色のついた手作りのクッキーと、一口サイズに切り分けられたパウンドケーキがぎっしりと詰まっていた。
「わあ、すごい……。手作りですか?」
「うん! 実は私、お菓子作りが趣味なんだ〜。お口に合うといいんだけど……」
上目遣いにこちらの様子を伺ってくる小湖乃先輩。
女子から手作りのお菓子をもらうなんて、これまでの俺の人生には一度もなかったイベントだ。
一つ手に取り、口に運ぶ。
サクッとした心地よい歯応えの後に、やさしい甘さと豊かなバターの風味が口いっぱいに広がった。
「……すごく美味しいです。お店で売ってるやつみたいだ」
「本当!? やったぁ! 富岡君に喜んでもらえてよかった〜!」
小湖乃先輩は胸の前で両手をギュッと握り締め、飛び跳ねるようにして喜んだ。
ほのぼのとした温かい空気が部屋を満たし、俺の胸にもくすぐったいような幸福感が広がる。
「よし、美味しいお菓子もいただいたことですし、早速始めましょうか」
俺がスケッチブックを開き、イーゼル代わりに膝の上で構えると、小湖乃先輩は「あっ!」と声を上げて自分のトートバッグを引き寄せた。
「ちょっと待って! 私、着替えるから、脱衣所借りるね!」
「えっ? 着替え……ですか?」
「うん! せっかくモデルになるんだもん、はりきって準備してきたんだ〜。すぐ戻るね!」
先輩はバッグを大事そうに抱えると、パタパタと脱衣所へ入り、カチャリと鍵を閉めた。
* * *
衣擦れの音と、カサカサと袋をあける音が聞こえてから、およそ三分。
「……ふぅ、お待たせ。……あの、笑わないでね?」
脱衣所のドアが、ゆっくりと開いた。
温かい空気とともに漂ってきたのは、ふんわりとしたベビーパウダーのような甘い匂い。
そしてドアの隙間から現れた小湖乃先輩の姿を目にした瞬間、俺の思考は完全にフリーズした。
「……白崎、先輩……?」
そこに立っていたのは、いつもの可愛らしい私服姿ではなかった。
黒を基調とした、繊細なレースがあしらわれたセクシーなランジェリー(下着)姿だった。
小柄で華奢な肩、薄いお腹とキュッと引き締まったくびれ、そして意外なほど豊かな胸の膨らみが、透け感のある黒レースのブラジャーに包まれている。
細い太ももと滑らかな白い肌が惜しげもなく露わになっており、視線のやり場に困るどころの騒ぎではない。
先ほどまでのほのぼのとしたお菓子タイムから、一気に加速した激しいギャップに、俺の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。
「……その姿は、一体……?」
かすれた声で尋ねると、小湖乃先輩は顔を耳まで真っ赤に染め、恥ずかしそうに両腕で自分の体を隠すように身を縮めた。
「う、うん……。私ね、昔からどうしても子供っぽく見られがちだったんだ……。『妹みたい』とか『可愛い』とか……」
彼女は潤んだ瞳で、上目遣いに俺をじっと見つめてくる。
「だから……服装だけでも大人っぽくしようと思って。富岡君が『美人だ』って言ってくれたのがすっごく嬉しかったから……ちゃんとした大人っぽいモデルになりたくて、背伸びして買ってきちゃった……」
彼女の吐息は少し荒く、緊張で肩が微かに震えている。
先輩が背伸びして買ったという大人っぽい下着。
そのアンバランスな妖艶さと、俺のために一生懸命準備してくれたという健気な純粋さが重なり、脳裏に猛烈な熱が駆け巡った。
(……落ち着け。ここで動揺して変態扱いされたら終わりだ。彼女は勇気を出して、モデルとして俺の前に立ってくれているんだ)
俺は深呼吸を一つ吐き出し、画家の視点へと意識を切り替えた。
「……分かりました。先輩のその覚悟、しっかり絵に込めさせてもらいます」
「あ……うん! よろしくお願いします……っ」
俺は部屋の壁際に椅子を置き、彼女に座ってもらった。
* *
「えっと……じゃあ、ポーズの調整をしますね」
「うん、どうすればいい……?」
「もう少しだけ、顎を上に向けてもらえますか? そう、光が首筋にきれいに当たるように」
「こ、こう……?」
「はい、完璧です。それと、右手は胸元に軽く添える感じで……もう少し指先を緩めてください」
触れそうで触れない距離まで近づき、指示を出す。
小湖乃先輩の白い肌に浮かぶ微かな鳥肌、緊張で上下する胸元、そして少し甘く上擦った呼吸音。
間近で感じる彼女の「女の子」としての生々しい存在感に、指先が微かに震えそうになるのを抑え、俺は夢中で鉛筆を走らせた。
紙の上に、彼女の美しいラインと、繊細な陰影が刻まれていく。
* * *
カサカサという鉛筆の音だけが、部屋の中に心地よく響いていた。
ポーズの合間に水分補給と休憩を挟みつつ、集中して作業を続ける。
ふと窓の外に目をやると、いつの間にか朱色の夕焼けは消え去り、群青色の夜の帳が落ち始めていた。
「……あ。もうこんな時間……!」
時計を見た小湖乃先輩が、驚いたように声を上げた。
すでに時刻は午後六時を過ぎている。
「すみません、集中しすぎて長時間の拘束になってしまいました」
「ううん! 全然! 私の方こそ、すごく良い体験になっちゃった。集中してる富岡君の顔、すっごくカッコよかったよ?」
服に着替えて脱衣所から出てきた小湖乃先輩は、照れくさそうにえへへと笑った。
「そうだ、白崎先輩。何か食べていきますか? ――といっても、すぐに作れるのはインスタントくらいしかないですけど……」
長時間のモデルを務めてくれた感謝と労いを込めて提案すると、小湖乃先輩はパッと目を輝かせた。
「えっ、いいの!? やったあ! 一人暮らしだと食費が浮くのは本当に助かるわ〜!」
押し入れのストック箱から、カップ麺やインスタントスープをいくつか取り出して畳の上に並べる。
「このストックの中から、好きなのを選んでください」
「うーん、じゃあ私はこの和風だしのアサリラーメンにする! 富岡君はどれにするの?」
二人で電気ケトルのお湯を注ぎ、三分間待つ間の無駄話。
「いただきます」
と手を合わせ、熱々の麺を二人で啜る。
高級な料理でも何でもないカップ麺だが、二人で並んで食べるとなぜか格別に美味しく感じられた。
夕食を終え、ゴミを片付けた小湖乃先輩は、帰り支度を整えて玄関に向かった。
「じゃあ、富岡君、今日は本当にありがとう! 楽しかったよ!」
「こちらこそ、素晴らしいモデルをありがとうございました。出来上がったら、ぜひ見に来てください」
「うん! 楽しみにしてるね!」
玄関のドアを開けると、アパートの共用廊下には夜の冷たい風が吹き抜けていた。
描き始める前はどうなることかと冷や冷やしたが、かなり質の高いスケッチが取れた。あとはモデルなしでも、完成まで持って行ける手応えがある。
俺が小湖乃先輩を見送ろうとした、まさにその時だった。
カツン、カツンと階下から足音が響き、買い物袋を手にした人物が階段を上がってきた。
隣の202号室に住む、鷹司詩織さんだった。
黒髪の一つ結びに、大きめの伊達メガネ、ダボッとしたグレーのパーカー姿。
「あ……」
詩織さんは、俺の部屋の玄関前に立つ俺と小湖乃先輩の姿を見て、ぴたりと足を止めた。
すると、小湖乃先輩が無邪気な笑顔で手を振り、とんでもない爆弾を投下した。
「あっ、詩織ちゃん! こんばんは〜! 今ね、富岡君に絵を描いてもらってたんだ〜!」
「え……? 絵、ですか……?」
「うん! セクシーな下着姿なんだけどね、すっごくかっこ良く描いてくれそうなの! 出来上がったら詩織ちゃんも一緒に見てね!」
「……えっ?」
詩織さんの身体が、ピキリと固まった。
「し、白崎さんが……富岡さんの部屋で……しかも……セクシーな下着……?」
伊達メガネの奥で、詩織さんの黒目がちな瞳が小さく見開かれ、次の瞬間、鋭く冷ややかな――それでいて揺れるような嫉妬の混じったジト目が、俺へと一直線に突き刺さった。
「じゃあねー、富岡君、詩織ちゃん! おやすみ〜!」
自身の投下した爆弾の威力を知る由もない小湖乃先輩は、ご機嫌な様子で二つ隣の自分の部屋(203号室)へと消えていった。
* * *
夜の廊下に、重苦しい静寂が立ち込める。
買い物袋をギュッと握り締めたまま、ジト目で俺を睨みつけてくる詩織さん。
「……あ、あの、鷹司さん」
俺は冷や汗を流しながら、思わず慌てたように弁明を並べ立てていた。
「いや、これは本当に絵の勉強のためで……その、やましいことは何もしていないんだ。本当だ」
「……べつに」
詩織さんは冷ややかな声で、そっぽを向いた。
「富岡さんが白崎さんと部屋で何をしていようと……私にはまったく関係ないですし」
ぷくーっと頬を限界まで膨らませ、あからさまに不機嫌を全身でアピールしている。
彼女にはシオンさんの捜索を手伝ってもらっている。
それなのに――別の女性にうつつを抜かしている(ように見える)俺に対し、複雑な感情が渦巻いているのだろう。
詩織さんはフンと鼻を鳴らすと、少しだけ振り返り、黒ぶちメガネの位置をクイッと直した。
「……富岡さんって、意外とエッチなんですね」
そして、パーカーの袖からちょこんと出た右手の人指し指で、自分の下まぶたを少し下げ――
「……べっ」
と、小さく舌を出してみせた。
すねた子供のような、けれど破壊的なあざとさを秘めた、あまりにも可憐なその仕草。
ドクンと胸が大きく跳ねた、その瞬間だった。
俺の思考を飛び越えて、胸の奥でククリヒメの『呪い』がカチリと音を立てて作動した。
何のフィルターも通さず、俺の喉から本音が滑り落ちる。
「……そういう仕草も、すごく可愛いんだな」
「……っ!?」
静かな廊下に、俺の低く甘い声が響いた。
詩織さんは「はっ?」と声を漏らして凍りつき、次の瞬間、顔どころか首筋まで一気に林檎のように真っ赤に染め上げた。
「な、ななな……なに突然、口説いてるんですかバカ!! 見境なしですか!?」
「あ、いや、今のは――」
「変態! 浮気者! 富岡さんなんて知りませんっ!」
詩織さんはカンカンに怒りながら(そして猛烈に照れながら)、逃げるように202号室へと駆け込み、ガチャリと鍵を閉めてしまった。
* *
静まり返った廊下に、一人取り残される俺。
(……やってしまった)
自分の額を押さえ、深々と溜息をつく。
この菊理媛命の呪いのおかげで、魅力的な女性たちとの距離が急速に縮まっているのは事実だ。
だがその反面、詩織さんからは「見境なしに女を口説く変態男」という最低の評価を下されつつある。
(……だが、ここで落ち込んでいても仕方がないな)
俺は冷静に頭を切り替えた。
誤解は追々解いていくしかない。
今は何より、小湖乃先輩が勇気を出して提供してくれたあの素晴らしい姿を、最高の作品として描き上げることが俺の責任だ。
部屋に戻り、鍵を閉める。
イーゼルの前に座り直すと、俺は再びスケッチブックを開き、白崎先輩をモデルにした絵の制作へと没頭していった。




