第13話 『オタサーの姫』の来訪
六月中旬。
初夏の強い日差しが美大のキャンパスを包み込む頃になると、構内の雰囲気は一変する。
「前期課題」の提出期限という、全美大生にとっての現実が刻一刻と迫ってくるからだ。
講義棟の廊下には疲弊した学生が散見され、油絵科の画室からはオイルと溶剤の匂いが充満していた。
そんな中、俺が所属するアニメ研究会の部室もまた、普段の呑気な空気とは打って変わり、独特の熱気と緊迫感に包まれていた。
「……うう、課題のデッサンが終わらないのに、アニ研の作画割り振りが重なって頭が爆発しそう……」
「今、俺に近づくな。……課題が上手くいかなくてピリピリしているんだ。――いいか、絶対に近づくなよ」
部室の端々から、そんな部員たちの怨嗟の声が漏れ聞こえてくる。
アニ研は人数が多いので、男子部員と女子部員は自然と部屋を分けていた。
俺たがいるのは、むさ苦しい男子のたまり場だ。
そんな中、俺と同学年の陣内弥太郎、佐々木賢吾の三人は、部室の隅にある長机に集まり、静かに打ち合わせを進めていた。
俺の専攻である油画の前期課題は、F50号の大型キャンバスに描く『風景画』だ。
知り合いの美少女たちをモデルにした油絵の制作と並行して進めるため、大学の課題自体は無難な構図で確実に仕上げる方針をとっている。
だからこそ、アニ研で進行中の『11月の学園祭向け自主制作・短編アニメーション』にも、しっかりとリソースを割くことができていた。
俺が担当する背景の作製は順調に進んでいる。
* * *
「よし、じゃあ……俺たちのチームの進捗確認と、今後の作画スケジュールのすり合わせを始めようか」
賢吾がメガネのフチをクイッと押し上げながら、長机の上に数枚の作画用紙と仕様書を広げた。
俺たちの作る短編アニメのテーマは、実にシンプルかつ王道な物語だ。
【将来を誓い合ったペットショップで売られているハムスターのカップル。
だが、ある日突然、彼女のハムスターが客に買われてしまう。
残された男の子のハムスターが、彼女を追いかけるために店員の隙をついてケージを脱出し、未知なる外の世界へと大冒険に繰り出す】
――という、一分半ほどのショートストーリーである。
「賢吾、上がってきたキャラデザ見せてくれ」
弥太郎が身を乗り出すと、賢吾は少し誇らしげに一枚のキャラクターシートを提示した。
そこに描かれていたのは、丸っこい頭に大きな黒目、ちょこんと生えた小さな耳が愛くるしいゴールデンハムスターの男の子だった。
「おお……! めちゃくちゃ可愛いじゃん! すごいな賢吾、毛並みのふんわり感まで伝わってくるぞ」
弥太郎が声を弾ませる。
賢吾は照れくさそうに頭をかいた。
「サンキュ。ただ可愛いだけじゃなくて、アニメーションとして動かした時の視認性を意識したんだ。アニメーター志望としては、ライン数を増やしすぎると作画枚数が嵩んで自滅するからね。シンプルだけど、表情の変化が目立つシルエットにした」
「さすがだな。――それで、絵コンテの方はどうだ?」
弥太郎に促され、賢吾は描き溜めていたB4の絵コンテ用紙を長机の中央に並べた。
「冒頭、ガラスケース越しに離れ離れになるカットから始まる。脱出してからの人間界は、ハムスター視点だからすべてが巨大だ。人間の靴や、通り過ぎる自転車のタイヤなんかが障害物として立ちはだかる」
賢吾が指でコンテのコマを追うと、俺たちの目も真剣なものへと変わった。
「ここで一気にカメラワークを低く落として、ローアングルで迫力を出す。広角レンズ風の歪みを効かせて、日常の部屋をダンジョンみたいに見せるんだ」
「うわ、この構図いいな! ハムスターのちっぽけさと、冒険のスケール感が一目で伝わるよ!」
弥太郎が膝を打つ。
俺もコンテをじっくりと覗き込み、頷いた。
「作画の動かし方も工夫しよう。普段の移動はトコトコと素早い動きにするから、フルコマ(1コマ打ち)や2コマ打ちでスピード感を出す。でも、障害物を目の前にして怯えたり、彼女を思い出して決意を固めるカットは、しっかり表情を見せるために3コマ打ちでじっくり動かそう」
「いいね。小動物特有の、鼻先をヒクヒクさせる仕草や、背中の毛が逆立つ描写も入れ込みたいな。遊技の絵コンテなら、一枚一枚のレイアウトにメリハリがあるから、原画も描きやすそうだ」
「三人チームだからこそ、無駄のない作画効率とクオリティの両立を狙いたいからな。これならスケジュール通りに学園祭まで走れそうだ」
* * *
俺たちが手応えを確かめ合い、満足げに頷き合っていた、その時だった。
「ふふ、なんだか楽しそうに打ち合わせしてる。いいなー」
不意に、背後から澄んだ鈴の鳴るような声が響いた。
ふわっと漂ってきたのは、石鹸のような清潔感のある甘い香り。
振り返ると、そこには一人の美少女が立っていた。
透明感あふれる色白の肌に、丁寧に整えられた黒髪のボブカット。
白のシンプルなブラウスにスカートという清楚な装いでありながら、抜群のスタイルと品のある顔立ちが目を引く。
映像学科2年の鳴海結衣さん――『オタサーの姫』と男子部員たちから陰で呼ばれている、正統派の美少女だった。
「あ、鳴海さん!」
弥太郎が一瞬で背筋を伸ばし、顔をパーッと輝かせた。
オタク男子たちの視線を一身に集めるアニ研のアイドル的存在だが、彼女には嫌味なあざとさが一切ない。
誰に対しても分け隔てなく明るく接する素直な性格だからこそ、男子たちから絶大な人気を得ているのだ。
* *
「そっちの進捗はどう? あっ、可愛い絵だね! 見てもいい?」
結衣さんはパチクリと大きな瞳を瞬かせ、興味津々といった様子で長机に近づいてきた。
「あ、ああ! もちろんいいよ! 見て見て!」
弥太郎は鼻の下を伸ばしながら、ここぞとばかりに賢吾のキャラクターシートと絵コンテを結衣さんに向けて押し出した。
「これ、俺たちのチームで作ってる短編アニメなんだ! かなり自信あるんだよね!」
「へぇー! すごい……!」
結衣さんは長机に両手を突き、少し前かがみになって用紙を覗き込んだ。
ブラウスの胸元がわずかに弛み、華奢な首筋から鎖骨にかけての美しいラインがチラリと覗く。
間近で見る彼女の肌は、陶器のようにキメが細かく、息をのむほど綺麗だった。
「うわぁ、このハムスターのキャラクター、すっごく可愛い! それに絵コンテも本格的……! 人間界の小物が大きく描かれてて、ハムスターの冒険って感じがすごく伝わってくるよ」
結衣さんは顔をほころばせ、キラキラとした瞳で俺たちを見つめてきた。
「流石は少数精鋭チームだね! ストーリーも面白そうだし、完成がすっごく楽しみだなあ」
「だろ!? 賢吾がキャラデザで、遊技が背景を担当してくれてさ! 俺も原画でゴリゴリ動かす予定なんだ!」
弥太郎はテンションを爆発させ、手振りを交えて熱弁を振るっている。
賢吾もメガネの位置を直しつつ、どこか誇らしげに鼻高々といった表情だ。
俺は言葉を挟まず、少し離れた位置から静かにその光景を見守っていた。
結衣さんの素直で可憐な褒め言葉は、男子部員ばかりが集うこの部屋の空気を一瞬で華やかに変えていく。
(……確かに、人気が出るのも納得の可愛さだな)
心の中でそんな感想を抱きつつ、俺は出しゃばらずに弥太郎の独壇場にしておくことにした。
* * *
「ねえ、鳴海さん。そっちの女子チームの進捗も、ちょっと見せてもらってもいいかな?」
抜け目のない弥太郎が、会話を途切れさせまいとすかさず提案した。
結衣さんが所属しているのは、アニ研でも最大の人数となる女子中心の制作チームだ。
3Dアニメーションやイラストに長けた女子部員たちが集まり、そこに手伝いの男子が十数名加わった大所帯である。
「あ、うん! いいよー! こっちの部屋で作業してるから、見においでよ」
結衣さんはニッコリと微笑み、快諾してくれた。
「やった! じゃあちょっとお邪魔させてもらうよ! 行こうぜ、みんな」
弥太郎は『鳴海さんと、おしゃべりを続けられる!』と言わんばかりに、あからさまにデレデレした表情を浮かべ、ウキウキとした足取りで結衣さんの後ろをついていく。
賢吾も「まあ、他のチームの進捗を参考にするのは悪くないな」と冷静を装いつつ、口元を少し緩ませていた。
俺も二人に置いていかれないよう、静かに長机の書類をまとめて後に続いた。
部室から出て廊下を進み、女子チームが使っている別室の扉へと近づいていく。
結衣さんに付いて歩く弥太郎の背中からは、隠しきれない期待感が溢れ出ていた。
だが――。
別室のドアに近づくにつれ、廊下の空気が妙に重苦しく変わっていくことに、俺は気づいていた。
(……なんだ、この空気?)
女子部屋特有の甘く華やかな匂い……などではなく。
ドアの隙間から漏れ出てくるのは、どんよりと湿り気帯びた重圧と、極限まで追い詰められた人間の『負の気配』だった。
俺の危機察知能力が警鐘を鳴らしているが――
もう遅い。
「ここだよ〜、どうぞ!」
そんな重苦しい雰囲気を全く気にしていない様子で、結衣さんがニコニコと扉のノブに手をかける。
――この扉の向こうに、地獄が待っていることなど。
テンションを上げて鼻の下を伸ばしている弥太郎や賢吾は、まだ知る由もなかったのだった。




