第8話 抱きしめた温度と、むくれる隣人
部屋から二人で外へ出る。
夕暮れ時の街風が、少し蒸し蒸しとした熱気を帯びてアパートの廊下を吹き抜けていく。
俺と鷹司詩織さんは、飲み物を調達するため、並んでアパートの階段を下りていた。
徒歩五分ほどの場所にある、学生御用達の格安スーパーへ向かう。
ダボダボのグレーパーカーの袖口から指先だけをちょこんと出し、少し後ろをついてくる詩織さんに合わせて、俺は歩幅を緩めた。
「大勢で押しかけた上に、急にパーティーを開くとか言い出して……ご迷惑ですよね。すみません、富岡さん」
「いや、そうでもないよ。三人とも人当たりがよくて良い人そうだし、こういうのも悪くはない」
俺がそう返すと、鷹司さんはホッとしたように肩の力を抜いた。
大きめの黒縁メガネの奥で、黒目がちな瞳がわずかに揺れている。
* *
スーパーの店内に入ると、威勢のいいBGMと割引シールを貼る店員の声が響いていた。
俺たちはカゴを手に、ドリンクコーナーと惣菜コーナーを回る。
「ジュースはこっちの二リットルボトルの方がお得ですね。お酒は……えっと、熊川さんたちが飲む分だけでいいでしょうか」
「そうだな。俺はあまり飲まないし、鷹司さんも? だったら、お茶と炭酸水があれば十分か」
「はい。あ、この冷凍パスタとピザ、タイムセールで三割引きになってます」
「買っていこう。時間も時間だし、夕食がタコ焼きだけだと、お腹は膨らまないだろうしな」
何を買うか細かく相談しながらカゴを満たしていく時間は、妙に生活感にあふれていて悪くない心地だった。
レジで会計を済ませ、重くなったレジ袋を俺が両手に持つ。
「あっ、富岡さん! 半分持ちますよ」
「いいよ。男の仕事だ。鷹司さんは転ばないように足元を見て歩いてくれ」
「も、もう……私を子供扱いしないでください」
少し不満そうに口を尖らせながらも、詩織さんは嬉しそうに口元をゆるめ、俺の斜め後方へと収まった。
* * *
スーパーからの帰り道。
西の空が深みのあるオレンジ色から紫色のグラデーションへと移り変わり、街灯がポツポツと点灯し始めていた。
沈黙を破るように、隣を歩く詩織さんがぽつりと呟いた。
「……富岡さんって、すごく一途ですよね」
「ん? 何がだ?」
「だって……もう二度と会えないかもしれない相手なのに、ずっとその人のことを想い続けて……あんなに綺麗な絵まで描いて」
詩織さんは自分のパーカーの裾をぎゅっと握りしめ、地面の影を見つめながら言葉を紡ぐ。
その声には、どこか切なさと、自分に向けられたものではない情熱への密やかな羨望が混ざっているように聞こえた。
それは、何か――
彼女なりの、葛藤のあらわれだったのかもしれない。
俺は少し考えてから、首を横に振った。
「全然そんなことないよ。シオンさんに心を惹かれていながら、君のこともとても魅力的だと思っている」
「……え?」
詩織さんの足がピタリと止まった。
夕闇の街角で、彼女は目を限界まで見開き、俺の顔を呆然と仰ぎ見ている。
(……あっ)
やってしまった、と胸の中で冷や汗が吹き出した。
ククリヒメの『余計な一言』の呪いだ。
寡黙にスルーしていればいいものを、胸の奥で感じていた「鷹司詩織という少女に対する純粋な好意」が、フィルターを通さずにそのまま口から滑り出てしまった。
「あ、いや……今の言葉はだな――」
俺が取り繕おうとした瞬間、詩織さんの顔が熟し切ったトマトのように真っ赤に染まった。
「も、もうっ! 褒めても何も出ないですよ……っ!」
詩織さんはあわあわと両手を振り回し、伊達メガネを落としそうになりながら叫んだ。
「な、何を言ってるんですか急に! 魅力的だなんて……私みたいな地味な人間をからかわないでください!」
「からかってなどいない。本心から――」
「言わなくていいです! ほら、早く戻らないと熊川さんたちが待ちくたびれちゃいますから!」
詩織さんは真っ赤な顔を隠すようにフードを深々とかぶり、逃げるように早足でアパートへと走り出した。
(本音を言っただけなのだが……どうしてこう、女の子をパニックにさせてしまうんだろうな)
俺は苦笑しながら、重い買い物袋を持ち直して彼女の背中を追った。
* * *
「おー! お帰りー! 買い出しごくろうさまー!」
自室に戻ると、ホットプレートから香ばしいソースと出汁の匂いが立ち込めていた。
すでに第一陣のタコ焼きが丸々と焼き上がっており、梨々花さんがハチマキ代わりにタオルを頭に巻いて、たこ焼き返しを回している。
「ほら富岡君、詩織、座った座った! 冷めないうちに食べよ!」
「お前ら、買い出しにしてはちょっと遅かったな。何企んでたんだ?」
瑠以さんが缶チューハイのプルタブを開けながら、ニヤニヤと意地悪な視線を向けてくる。
「な、何も企んでないですよ! スーパーが混んでいただけです!」
詩織さんが裏返った声で否定し、そわそわと俺から離れた壁際に座り込んだ。
「まあいいや! かんぱーい!」
梨々花さんの音頭で、賑やかなタコパが始まった。
焼き立てのタコ焼きを口に運ぶ。外はカリッと、中はとろりとしていて、出汁の旨味が広がる。
買ってきた冷凍ピザやパスタもレンジで温め、ローテーブルの上はあっという間に料理で埋め尽くされた。
「……でさ、富岡君」
タコ焼きを三つほど平らげた梨々花さんが、口元にソースを少しつけたまま、イーゼルの絵を指さした。
「片想いって言ってたけど、そのシオンさんとは具体的にどういう関係だったの?」
「そうだぞ遊技。いくら暇を持て余しているとはいえ、何十時間もかけて――ここまで気合を入れて描いたんだ、ただの片想いってわけじゃないんだろ?」
瑠以さんも興味津々といった様子で身を乗り出してくる。
俺は冷たいお茶を一口飲み、淡々と事実を口にした。
「シオンさんは、俺がよく行く店の店員さんだったんだ。……だが、少し前に店を辞めてしまってな」
「……は?」
梨々花と瑠以が同時に顔を見合わせ、ポカンとした。
* *
「え、なにそれ。ただの客と店員じゃん。赤の他人だよ。それ!」
「おいおい、一歩間違えたら……いや、もう十分ストーカーの領域だぞ。それは」
二人が容赦のないツッコミを浴びせてくる。
「失礼な。一方的な関係じゃないんだ」
俺は静かに否定した。
「なにしろ……彼女の方から、俺にキスしてくれたんだからな」
「「ええええええええっ!?」」
部屋の中に、二人の絶叫が響き渡った。
「キ、キスぅ!?」
梨々花さんが立ち上がりかけ、慌ててテーブルのフチを掴んだ。
「マジで!? 店員さんから客にキス!? なにその展開!?」
「待て待て、じゃあなんでそんな仲で、何も言わずに店辞めて姿消すんだよ! 意味分かんないだろ!」
大興奮で問い詰めてくる二人。
その横で――
詩織さんは、会話に一切入ってこなかった。
ダボダボのパーカーの中に頭を埋めるように小さくなり、体育座りでひざを抱え込んでいる。
こういう話は得意でないのかもしれない。
今にも発火しそうなほど耳まで真っ赤になって固まっていた。
* * *
食後の熱気が少し落ち着いた頃、梨々花さんが悪戯っぽい笑みを浮かべながら俺を見つめてきた。
「ねえ、富岡君」
「なんだ?」
「絶賛、片想い中の富岡君に、私からサービスしてあげます」
梨々花さんはそう言って、自分の胸の前で両手を広げた。
「私のこと、抱きしめていいよ。シオンさんの代わりに」
「……何を言ってるんだ?」
俺は眉をひそめた。
「だってさー、居ない相手は絵に描けても、抱きしめられないじゃん?」
梨々花さんはニシシと八重歯を見せて笑う。
「目を瞑って、私のことをシオンさんだと思って――ぎゅーってしていいよ。好きな子を思い出させてあげる!」
彼女は俺をからかっているのだ。
シャイで無口な俺が、そんな提案に乗れるはずがないと高をくくっている。
急な展開にうろたえる俺の反応を見て、みんなで笑おうという魂胆だろう。
以前の俺なら、顔を赤くして「いや、その……」と、しどろもどろになっていたはずだ。
だが――
胸の奥で、菊理媛命の呪いがカチリと音を立てて作動した。
* *
「……そういうことなら、ご厚意に甘えさせてもらおう」
「……え?」
梨々花さんの笑顔が、ピキッと凍りついた。
「えーと……マジで……?」
「ああ。せっかくの申し出だ、断る理由もない」
俺は静かに立ち上がった。
言った以上、引くわけにはいかない。
予期せぬ俺の快諾に、梨々花さんは一気に余裕を失い、「あ、いや……冗談のつもりだったんだけど……」とあわあわし始めた。
だが、瑠以さんが「おーおー、言い出したのはお前だぞ梨々花! 引くな引くなー!」と面白がって尻をパンとはたき背中を押す。
「う、う~解ったよ……! 女に二言はないもんね!」
梨々花さんも腹をくくったのか、耳まで赤くしながら俺の目の前に立った。
茶髪ハーフアップの髪から、甘いフルーティーな香水と、女の子特有の柔らかい匂いが漂ってくる。
カジュアルなデニムの上着越しでも分かる、華奢な肩のライン。
「……い、痛くしちゃダメだからね?」
上目遣いで俺を見つめる梨々花さんの瞳は、緊張で細かく揺れていた。
「ああ、分かっている」
俺は静かに目を瞑った。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、彼女の細い腰と背中に腕を回した。
「んっ……」
梨々花さんの口から、小さく可憐な吐息が漏れる。
抱きよせると、胸元に柔らかい感触が伝わってきた。
女の子の体は、想像以上に柔らかく、そして温かい。
腕の中でトクトクと伝わってくるのは、梨々花さんの早鐘のような心拍数だ。
俺は閉じた瞳の裏側に、記憶の中の『シオンさん』の姿を強く思い描いた。
薄暗い施術部屋、しなやかな指先、俺を見つめる潤んだ瞳、そしてあの温かい唇の感触。
目の前の温もりに、会いたいと願う切ない愛惜の情が重なり合っていく。
俺は梨々花の頭の後ろにそっと手を添え、髪に顔をうずめるようにして、低く囁いた。
「……好きだ。どんな時でも君を想っているよ。……心から愛してる」
* * *
静寂が部屋を包み込み、ゆっくりと腕の力を緩めた。
目を開けると、目の前の梨々花さんは完全にフリーズしていた。
顔どころか、首筋まで真っ赤に染まり、自分の胸元をぎゅっと両手で押さえている。
「い、いやー……っ! めっちゃ照れたわ!!」
梨々花さんはバッと跳ね起きると、自分の頬を両手で叩いた。
「富岡君マジなんだもん! 声が低くて凄くかっこいいし……! 自分が本当に告白されたみたいで、きゅんと来ちゃったじゃん。バカ!」
「ククッ……いいもの見せて貰ったわ。ごちそうさま」
瑠以さんがお腹を抱えて爆笑している。
冗談半分で仕掛けたはずの梨々花さんが、本気でノックアウトされて顔を真っ赤にしている姿は、客観的にもかなり甘酸っぱい光景だっただろう。
俺は「その場のノリとはいえ、少しやりすぎたか?」と冷静に思考を整理し、自分の席へ戻ろうとした。
その時だった。
「…………」
視線を感じて振り返ると、部屋の隅で詩織さんが立ち上がっていた。
彼女はダボダボのパーカーの袖を両手で固く握りしめ、ぷくーっと頬を限界まで膨らませている。
黒縁メガネの奥の目が、嫉妬と複雑なモヤモヤで激しく揺れていた。
「……鷹司さん?」
「……富岡さん」
詩織さんはジト目で俺を睨みつけると、低い声でぽつりと言った。
「富岡さん……やっぱり、全然一途じゃないです」
「え?」
「……フン! 知りません!」
それだけ吐き捨てると、詩織さんはプイッと横を向き、壁際に背中を向けて座り込んでしまった。
(なぜ急に怒られたんだ……?)
まあ確かに、あれだけシオンさんへの想いを口にしておきながら、別の女子(梨々花さん)を情熱的に抱きしめて愛を囁いたのだ。
憤りでむくれてしまうのも無理はないか。
「あはは! 詩織にも怒られてやんの!」
「富岡君、女心は複雑なんだよ」
笑う二人と、ぷくーっと頬を膨らませて口をきいてくれない隣人。
妙な甘さと熱気を残したまま、アパートの夜は更けていくのだった。




