第7話 キャンバスの中の彼女
時刻は夜の九時。
六畳間の自室には、油絵の具とテレピン油の独特な溶剤臭が重く立ち込めていた。
卓上ライトのオレンジ色の光が、イーゼルに立てかけられた5号のキャンバスを静かに照らし出している。
俺は細筆の先に薄く溶いたバーントシェンナを馴染ませ、キャンバスの中央に描かれた少女の、その潤んだ瞳のハイライトにそっと微小な光を置いた。
筆を離し、息を吐く。
「……ようやく、完成だ」
学校の課題でも、アニメ研究会の自主制作でもない。
誰に頼まれたわけでもなく、俺が自分の欲望と愛情のすべてを注ぎ込み、連夜コツコツと描き進めてきた一枚の油彩画。
そこに描かれているのは、もう二度と会えないかもしれない、あの愛おしいセラピスト――シオンさんの姿だった。
記憶の中にある彼女の透明感あふれる肌、少し癖のある柔らかな髪、そして胸元が覗く上品な衣装。
俺が知っているのは施術着姿だけだったが、彼女への思いと溢れんばかりの想像で補い、シオンさんに似合う清楚な衣服をまとわせている。
生地の柔らかな皺や光の反射は、油彩の重厚なタッチで丁寧に描き込まれていた。
キャンバスの中のシオンさんは、まるで生きているかのように、温かい眼差しでこちらを見つめ返している。
胸の奥からあふれ出す熱を抑えきれず、誰もいない静まり返った部屋で、ぽつりと独り言が漏れた。
「やっと君に会えた。……やっぱりあなたは美しい。好きだ、シオンさん」
静寂が支配する真夜中の部屋に、自分の声だけが虚しく響く。
だが、画中の彼女に見守られているような不思議な安心感に包まれ、俺はその夜、一人暮らしを始めてから最も深い眠りにつくことができた。
* * *
翌日の昼休み。
太陽が眩しく照りつけるキャンパスの広場で、俺は予期せぬ人物と出くわした。
黒髪を後ろで一つに束ね、大きめの黒縁メガネとダボダボのグレーパーカーに身を包んだ少女――鷹司詩織さんだ。
彼女は俺の姿を認めるなり、びくっと肩を揺らし、すり足でこちらへ近づいてきた。
下を向いたまま、だぼついたパーカーの袖口をぎゅっと固く握りしめている。
「あの……富岡さん」
「鷹司さん。どうかしたか?」
詩織さんは周囲をキョロキョロと伺うと、顔を少し赤らめながら、小刻みに震える声で尋ねてきた。
「あの……昨日の夜……その、シオンさんと、お会いできたんですか?」
「……え?」
俺は一瞬、思考がフリーズした。
彼女と俺は再会を果たしていない。
一体何を言っているのか。
……いや、考えるまでもない。
あの古びた安アパートの壁は、呆れるほど薄いのだ。
俺が昨夜、絵の完成に感極まって漏れ出た独り言は、隣の部屋である彼女の耳にも届いていたらしい。
(そこまで大きな声ではなかったと思うのだが……)
背中に冷や汗が吹き出すのを感じながら、俺は必死に表情を繕った。
「あっ、いや……本人に会えたわけではなくて……その、絵を描いたんだ」
「絵……ですか?」
詩織さんはメガネの奥の目を丸くし、ぽかんと口を開けた。
それからどこかソワソワとした様子で視線を泳がせ、耳まで真っ赤に染め上げながら、蚊の鳴くような声で言った。
「へぇー……絵、ですか。……あの、私、その絵を……見に行っても良いですか?」
これまでの俺なら、間違いなく即座に断っていただろう。
自分のプライベートな部屋に他人を入れるのは好きではないし、何より女性を自室に上げるなんて恥ずかしい。
それに、片想いの相手を描いた絵など、見せられるはずがない。
「いや、それはちょっと――」
断りの言葉を口にしようとした瞬間、胸の奥からククリヒメの“呪い”が跳ね上がった。
俺の思考を置き去りにして、勝手に口が滑り出す。
見られたくない気持ちと同じくらい、誰かに見てほしいという思いも確かにあったらしい。
その本音が、抑えきれず言葉になった。
「いいよ。シオンさんの美しさを、鷹司さんにも見てほしい」
「っ……!?」
詩織さんの体が落雷に打たれたように硬直した。
黒縁メガネの奥で瞳が激しく揺れ、真っ赤だった頬がさらに熟したトマトのように赤く染まっていく。
(しまつた……また余計な一言を……!)
詩織さんはあわあわと手元を狂わせ、伊達メガネのブリッジを何度も押し上げながら、今にも消えそうな声で呟いた。
「う、美しさ、ですか……! あ、あの、富岡さん……そんな大声で……」
* *
「何の話してるのー?」
甘く張り詰めた空気を切り裂くように、明るい声が割り込んできた。
茶髪ハーフアップでデニム姿の熊川梨々花さんと、ショートヘアでスタイリッシュな栃谷瑠以さんだ。
「あっ、熊川さん、栃谷さん……」
急に現れた友人二人に対し、詩織さんは動揺を隠すようにブンブンと首を横に振った。
「えっと……富岡さんが、片想いの相手の絵を描いたというので、見せて貰うことになりました……」
「えっ!? 片想いの相手の絵!?」
梨々花さんが目を輝かせ、食い気味に身を乗り出してきた。
「なになにそれ、めっちゃ気になる! 私らもいくよ!」
「面白そうだしな」
瑠以さんもサバサバとした笑みを浮かべ、あごをしゃくった。
「美大生が本気で描いた片想いの相手の肖像画なんて、見ない手はないだろ」
こうして、俺の拒否権は完全に霧散し、女子三人組を連れてアパートへ戻る羽目になったのだった。
* * *
アパートの201号室。
俺の狭い自室に足を踏み入れた三人は、部屋の中央に置かれたイーゼルの前に立った。
部屋の中に漂うわずかな油絵の具の香りと、卓上ライトに照らし出された一枚のキャンバス。
「……うわ」
最初に声を漏らしたのは梨々花さんだった。
「へー! めっちゃ上手いじゃん! てか、何この子、超絶美少女じゃん! 服もなんかエロ可愛くて最高だし!」
「流石、美術学科の油絵専攻だな……」
瑠以さんが腕を組み、感心したように深く頷く。
「肌の質感とか透明感、光の捉え方が本格的すぎる。これ、モデルなしで記憶だけで描いたのか?」
「ああ。記憶と……あとは想像でカバーした」
俺がそう答える横で、詩織さんはイーゼルの前に立ち尽くしていた。
ダボダボのパーカーの裾をぎゅっと握りしめたまま、キャンバスの中の“シオンさん”をじっと見つめている。
彼女の胸が、わずかに上下していた。
顔を赤らめている彼女がどんな気持ちでいるのかはわからない。
ただ、部屋の空気には密度の濃い沈黙が満ちていた。
連絡先も知らない相手を、ここまで愛情を込めて描いたことに呆れているのか――
それとも、この情熱に感心しているのか。
彼女の胸の内は、俺には知る由もなかった。
詩織さんは喉をゴクリと鳴らすと、必死に平静を装ったような、少しだけ平坦な声で言った。
「ふーん……よく描けてますね。すごく……綺麗だと思います」
その声は、わずかに震えていた。
* * *
「よし! 鑑賞会が終わったところで、次はタコパにしよー!」
パンッと勢いよく手を叩いたのは瑠以さんだった。
彼女は持参していた大きなトートバッグから、コンパクトなホットプレートを取り出し、ローテーブルの上にドカンとセッティングした。
「なぜ、俺の部屋で……?」
俺が尋ねると、瑠以さんはタコ焼き粉の袋を開けながら呆れたように言った。
「だって、詩織の部屋だと隣に気を遣うでしょ。私らも大声で叫んだりはしないけど、普通に喋ってるだけでも壁越しに音を気にする人もいるしさ」
「ああ……」
「富岡君の部屋なら、一番東側の角部屋だから片側しか隣人がいないじゃん。――で、その隣人が詩織。ここなら、あんまり気を遣わずに済むだろ?」
理にかなった説明だった。
「じゃあ、私らが生地作って焼き始めてるから、詩織と富岡君で飲み物買ってきて! 買ってくるの忘れてた」
ボウルで生地を混ぜ始めていた梨々花さんが、パッと手を止めて二人を指さした。
「ジュースとビールと、冷たいお茶ね!」
「えっ、私と富岡さんで……?」
詩織さんが驚いたように目を丸くするが、梨々花さんに背中をポンと押され、玄関へと押し出される。
「いってらっしゃーい!」
パタン、とドアが閉まり、アパートの薄暗い廊下に俺と詩織さんの二人が残された。
* *
夕暮れ時の涼しい風が、廊下を吹き抜けていく。
「……行きましょうか、富岡さん」
「……はい」
隣を歩く詩織さんは、だぼついたパーカーの袖口から指先だけを出し、俯いたまま隣を歩く。
どこか甘く、気まずい沈黙を纏いながら、俺たちは夕闇に包まれ始めた街へと買い出しに向かったのだった。




