第5話 すれ違うサプライズと、二人の友人
隣の部屋のドアがパタンと閉まる音が聞こえ、俺の部屋には静寂が戻ってきた。
さっきまで鷹司さんが座っていたローテーブルの脇には、彼女が纏っていた爽やかな石鹸と、ほんのり甘いアールグレイのような香りがまだかすかに残っている。
テーブルの上に残された二つのマグカップ。
俺は自分のカップを持ち上げ、冷めきったブラックコーヒーを喉に流し込みながら、一人深く思考の海へと沈み込んでいった。
* *
美術学科の油画専攻として日々キャンバスに向かい、モデルの骨格や明暗、空間の奥ゆきを観察し続けている俺のデッサン眼が、頭の中でふたつの人物像を精密に比較し始める。
一人は、あの高級感あふれる施術室で俺を魅了した至高のセラピスト、シオンさん。
もう一人は、さっきまでこの部屋で可憐に照れていた隣人の美大生、鷹司詩織さん。
(……冷静に整理してみよう)
まず、下半身の骨格と肉付け。
歩くたびにロングスカート越しに描かれる、腰から臀部、そして太ももにかけての完璧な黄金比。
油絵の具を塗り重ねるように脳内でふたつのシルエットを重ね合わせても、線の太さやカーブの曲率に一切の狂いがない。
完全に同一のデッサンモデルだ。
次に、声。
耳に心地よく響く周波数と、どこか気品を感じさせる落ち着いたトーン。
シオンさんが耳元で囁いてくれたあの声と、鷹司さんが照れくさそうに紡ぐ声は、あまりにも酷似している。
だが――
決定的な違いがひとつだけある。
胸のボリュームだ。
シオンさんの胸は、施術服の上からでもはっきりと分かるほど豊満で、圧倒的な立体感を誇っていた。
対する鷹司さんは、ダボついたパーカーの生地がほとんど平坦に落ちるほど慎ましい。
彼女たちを比較した場合、最も大きな差は『胸の大きさ』ということになる。
(……だが、待てよ)
俺は自分の顎に手を当て、自問自答する。
絵を描く者として、キャンバスの描き込みの多い少ないに優劣がないように、俺自身、女性の『胸の大きさ』に対してそこまでのこだわりや執着はないらしい。
俺は彼女の豊満な胸に惹かれて好きになったのではないようだ。
鷹司さんのことも魅力的な女性だと感じているからだ。
そこは評価の決定打にはならない。
では、顔立ちはどうか。
メイクで華やかに彩られたストレートな美女であるシオンさんと、大きめの黒縁メガネにそばかすのある素朴な地味さを漂わせる鷹司さん。
印象こそ真逆だが、パーツの配置や輪郭の美しさを丁寧に紐解いていけば、鷹司さんの素顔も決してシオンさんに劣らない魅力を持っている。
こうして一つずつ要素を照らし合わせていくと、俺の中で恐ろしいほどの錯覚が芽生えてくる。
(……まるで、二人が同一人物であるかのように思えてくるな)
だが、その直後に胸の圧倒的な高低差が頭をよぎり、俺は首を横に振った。
(いや、あり得ない。いくらなんでも胸の質感が違いすぎる。……ということは、導き出される答えはひとつだ)
俺は一人、膝を叩いて大きく頷いた。
(やっぱり二人は血の繋がった姉妹なんだ! 奇跡のような下半身の骨格と声の遺伝子を受け継ぎながら、胸の成長度合いだけが異なる姉妹……!)
美大生らしい鋭い観察眼を持ちながらも、本人がすでに否定した『真相』に着地した俺は、ひとり深く納得していた。
* * *
その思考を断ち切るように、ズボンのポケットでスマホが激しくブブブと揺れた。
画面を見ると、ディスプレイには『富岡ホールディングス 代表』の文字が表示されている。
嫌な予感を覚えながら、俺は深呼吸をして通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし、親父か?」
『おう、遊技! 元気にしとるか?』
電話越しでも耳が痛くなるような、威圧感のある親父の大声が響き渡る。
『早速だが、例の「俺の言うことを一つ聞け」の話がまとまったぞ。お前の許嫁を決めた』
「……は? 許嫁……!?」
唐突すぎるワードに、俺は思わず耳を疑った。
『そうだ。大学を出たら、その相手と結婚しろ。ただし、許嫁が誰かは卒業まで秘密だ。なに、ちょっとしたサプライズだ。面白いだろ?』
「ちょっと待てよ親父! いきなりそんな時代錯誤な話を――」
『反論は許さん! 嫌なら今すぐ融通してやった金を全額キャッシュで返せ! 以上だ!』
ブツッ、ツートン、ツートン……。
こちらの言いたいことを一切聞かず、電話は容赦なく切られた。
静まり返った部屋で、俺は呆然とスマホを見つめ直した。
(……なんだってんだ、一体。さっき聞いた鷹司さんの話と、まったく同じ構造じゃないか)
俺はローテーブルに肘をつき、冷静に状況を整理し始めた。
* *
鷹司さんも「実家から許嫁を決められたが、卒業まで相手を教えてもらえない」と言っていた。
(……なるほど。世間では今、少子化対策か何かで「親が決めた許嫁を卒業まで伏せるサプライズ」というのが流行しているのかもしれないな)
結婚を子供任せにしていては、いつまでも何もせず、晩婚化する傾向にある。
そこで最近は、親が積極的に介入するようになったのだろう。
だが、親の立場からすれば、事前に相手の顔や名前を教えてしまえば「あの人は嫌だ」と猛烈に反対される可能性がある。
だからこそ、卒業という後戻りできないタイミングまで伏せておくというわけだ。
(まあ、どうしても嫌なら、卒業までに自分で『心から愛せる相手』を見つけて連れていくしかないな。親父としても、俺が自力でパートナーを見つけるなら文句はないはずだ)
それに、大学卒業なんてまだ何年も先の話だ。
今ここで悩んでいても仕方がない。
俺は重い溜息をひとつ吐き出すと、この浮世離れした話を頭の片隅へと追いやることにした。
* * *
翌日の昼下がり。
総合美術大学のキャンパスは、初夏の心地よい風と、あちこちから漂う絵の具や溶剤の匂いに包まれていた。
ファインアート棟からデザイン棟へと続く中庭の歩道を歩いていると、少し前方をトボトボと歩く見覚えのある背中が視界に入った。
ダボついたグレーのパーカーに、ペタンコの靴。
大きな黒縁メガネをかけた、お隣の鷹司詩織さんだ。
いつもなら――寡黙な俺は、わざわざ自分から声をかけたりせず、静かに横を通り過ぎるか軽く会釈する程度で済ませていただろう。
だが、彼女のゆるやかなロングスカートの揺れと、そこから浮き出る美しい腰のラインを目にした瞬間。
胸の奥で、あのククリちゃんの『呪い』がカッと熱を帯びた。
喉の奥が滑らかに動き、脳の制御を無視して本音が滑り出す。
「相変わらずいい尻だな。鷹司さん、惚れ惚れするよ」
静かな歩道に、俺の朗らかな声が響いた。
「っ〜〜〜〜っ!?」
前を歩いていた鷹司さんが、まるで雷に打たれたように身体を跳ねさせた。
大慌てで周囲を見回し、誰も聞いていないことを確認してから、真っ赤になった顔で振り返る。
「も、もうっ……! 富岡さん、こんな所で何言ってるんですか……っ!」
両手で顔を覆いながら、消え入りそうな声で抗議してくる。
メガネの奥の瞳は涙目になっており、照れと呆れが混ざり合った表情で俺を睨みつけていた。
「すみません、つい口が滑りまして……」
「つい、で言っていいセリフじゃありませんっ……」
口元を膨らませてぷりぷりと怒る彼女の仕草が、不器用でひどく可憐だった。
そのまま二人で歩調を合わせ、木漏れ日が差し込む歩道を並んで歩き始める。
「鷹司さんは、今日の講義はこれからですか?」
「あ、はい。テキスタイルデザインの実習で、布地の選定課題があって……。富岡さんは?」
「俺は油画のF100号のキャンバス張りです。下塗りの段階なんですけど、乾燥に時間がかかって」
「F100号……! そんな大きなキャンバスを描いてるんですね。凄いです……」
お互いの専攻学科の課題について言葉を交わす。
昨日部屋でお茶を飲んだおかげか、初対面の時のようなギクシャクした空気は消え、穏やかな時間が流れていた。
だが、そんな二人の和やかな雰囲気を破るように、明るい声が唐突に割り込んできた。
* *
「あれ~? 詩織が男の人と話してるなんて、珍しいじゃん!」
パタパタという軽快な足音とともに、前方から二人の女子生徒が歩み寄ってきた。
一人は、茶髪のロングヘアをハーフアップにした快活そうな女の子だ。
パッチリとした大きな目を輝かせ、ボーダー柄のカジュアルな服を着こなしている。
「本当だ。詩織、しつこいナンパなら、私が追い払おうか?」
もう一人は、スレンダーな体型に茶髪のショートヘアが映えるスタイリッシュな女の子だった。
サバサバとした凛々しい顔立ちで、すっと俺を射抜くような視線を向けてくる。
「ち、違うよ二人ともっ! ナンパじゃないってば……っ!」
急に現れた友人二人に対して、鷹司さんは真っ赤な顔で慌てながら、手をブンブンと振った。
「こちら、お隣の部屋に住んでいる富岡さん……! 同じ二年生で、油画専攻の人なの」
「ふ~ん、お隣さんなんだ?」
ハーフアップの女の子――
熊川梨々花が、興味津々といった様子で俺の顔を覗き込んできた。
「私は熊川梨々花! 視覚伝達デザインにいるんだ。よろしくね、富岡くん!」
「俺は富岡遊技です。よろしく」
俺が丁寧にお辞儀をすると、ショートヘアの女の子――
栃谷瑠以が、あごに手を当てて納得したように頷いた。
「ふうん。よく見ると雰囲気も落ち着いてるし、立ち姿もしっかりしてる。確かにナンパするようなチャラいタイプとは違うみたいだね。私は空間デザインの栃谷瑠以。詩織がいつもお世話になってるみたいで」
「いや、お世話になってるのは俺の方です。シオンさんの捜索を手伝ってもらったり……」
「シオンさん……?」
梨々花と瑠以が首をかしげる。
「あっ、な、なんでもないのっ! 私たちの個人的な話だからっ!」
鷹司さんが叫ぶような声で割り込み、大慌てで二人の背中を押した。
「ほらっ、二人とも! そろそろ次の講義のチャイムが鳴っちゃうよ! 早く行こっ!」
「え~、もうちょっと富岡くんと話したかったのに~」
「はいはい、分かったから押すなって。じゃあね、富岡くん。詩織に変なことしたら承知しないから」
梨々花がひらひらと手を振り、瑠以がクスッと笑いながら念を押す。
二人に背中を押されながら、鷹司さんは最後に振り返り、申し訳なさそうに小さく頭を下げて見せた。
「富岡さん、ごめんなさいっ……! また後で……っ!」
「ああ、また」
賑やかな二人に引っ張られるようにして去っていく鷹司さんの背中を、俺はゆっくりと見送った。
ダボついた服の奥でゆれる、あの美しいシルエット。
そして、彼女の周りに広がる華やかで温かな友人たちの存在。
キャンパスの爽やかな風を受けながら、俺は自分の講義室へと向かって脚を踏み出した。
胸の奥に残る心地よい高揚感は、きっと初夏の日差しのせいだけではないはずだった。




