第4話 彼女の悩み事
「……あ、あの、鷹司さん。もし良かったら、俺の部屋でお茶でも飲んでいかないか?」
「えっ……? お茶、ですか……?」
アパートの二階、薄暗い廊下で、鷹司さんは驚いたように黒縁メガネの位置を直した。
神社の前で声をかけてから、俺たちは何となく連れ立って家の前まで来ていた。
そして、部屋に入る直前――
俺の口は勝手に『彼女ともっと話をしたい』という本心を言葉にしていた。
またしても俺の“余計な一言”が喉を滑り出したのだ。
だが、言ってしまったものは仕方がない。
部屋に誘った理由を、後から高速でこじつける。
聞かれれば『シオンさん捜索の打ち合わせ』とでも言えばいい。
……彼女がこの誘いに乗ってくれれば、だが。
「いや、えっと、突然変なことを言ってすみません。立ち話もなんだし、さっきのお詫びも兼ねて……」
「あ……いえっ、お詫びだなんてそんな……っ。ええと、お邪魔でなければ……」
鷹司さんはダボついたグレーのパーカーの袖をギュッと握りしめ、消え入りそうな声で頷いてくれた。
鍵をガチャリと開けて、俺は自分の部屋へ彼女を招き入れた。
* * *
六畳一間の安アパート。
築古ゆえの畳の匂いと、絵の具やキャンバスの独特な香りがほのかに漂う部屋だ。
このアパートは総合美術大学に近く、美大生が借りることが多い。
前の住人も、俺と同じ油絵科だったらしい。
「狭い部屋で申し訳ない。そこらへんに適当に座ってくれ」
「あ、はい……失礼します」
鷹司さんはどこか緊張した面持ちで、ローテーブルの脇にちょこんと正座した。
ロングスカートの裾を丁寧に整え、背筋をすっと伸ばして座る姿には、
ダボダボの服の上からでも隠しきれない上品さが滲み出ている。
「お茶はコーヒーでいいか? インスタントだけど」
「あ、はい。ありがとうございます」
俺は台所に立ち、お湯を沸かしてマグカップにコーヒーを淹れた。
一人暮らしを始めたのは父親の言いつけで、大学入学時からずっと悪目立ちしないように貧乏学生を装ってはいるが、俺自身はそれなりの家で育った身だ。
来客に対して手際よくお茶を出す程度の作法は、体に染み付いている。
湯気の立つマグカップをふたつ、ローテーブルの上にそっと並べた。
* *
「どうぞ。熱いから気を付けてくれ」
「ふふ、手際がいいんですね。いただきます」
鷹司さんは両手でマグカップを優しく包み込むように持ち、ふぅふぅと小さな唇で息を吹きかけた。
カップから上がる白い湯気で、黒縁メガネのレンズが少しだけ白く曇る。
それを照れくさそうに指先で外し、長い袖口でサッと拭う仕草が、不器用でひどく可憐だった。
一口含んだ彼女が、ほうっと温かな息を漏らす。
「……すごく美味しいです。なんだかホッとしますね」
「そう言ってもらえると助かるよ。……で、本題なんだが――シオンさんの捜索に関して、打ち合わせをしておきたい」
俺はローテーブルを挟んで彼女の正面に座り直した。
「ええ、人探しの件ですね。――探すのに協力すると言っても、それらしい人を見かけたら、お知らせする程度ですよ……?」
確認するように見つめてくる鷹司さん。
メガネの奥にある彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいて綺麗だった。
「ああ、それで十分だ。大助かりだよ。シオンさんは天女と見まごうほどの美しい女性だから、一目見れば絶対にわかるはずだ」
「そ、そうですか……っ」
俺が断言すると、なぜだか鷹司さんは顔を真っ赤にして伏し目になった。
カップを持つ指先がかすかに震え、両耳の輪郭まで桃色に染まっている。
シオンさんの美しさを熱弁しただけなのだが、彼女にとっては自分とそっくりなヒップを持つ女性を褒められたのが照れくさいのだろう。
「そうだ。見つけた時のために、連絡先を交換しておこう」
「ええ、構いませんよ」
俺たちはスマホを取り出し、画面のQRコードを読み合ってメッセージアプリの連絡先を交換した。
画面上で表示された『鷹司詩織』という文字。
指先がほんの少し触れ合った瞬間、彼女の体温がかすかに伝わってきて、俺の心臓がトクンと跳ねた。
* * *
「よし、これで『シオンさん捜索隊』の結成だな」
「ふふ、捜索隊だなんて大げさですね」
少しだけ緊張が解けたのか、鷹司さんが柔らかく口元を緩めた。
その笑顔があまりにも魅力的で、俺は胸の奥がチクリと疼くのを感じた。
ただ一方的に協力を仰ぐだけでは男がすたるというものだ。
「そうだ。俺ばかりが助けてもらうわけにもいかない。こちらも君の悩み事に協力しよう」
「え……私の悩み事、ですか……?」
鷹司さんがきょとんとして首をかしげる。
「大学で見かけたとき、悩み事を抱えているように見えたからさ。……何か困っていることがあるなら相談してくれ。力になる」
そう申し出たものの、言ってから俺は少し後悔した。
今日知り合ったばかりの隣人に、しかもさっき『お尻が似ている』なんてセクハラじみた発言をした男に、自分の悩みを打ち明けるわけがない。
断られて当然だ――そう思って苦笑いを浮かべようとしたのだが。
「……実は」
鷹司さんはマグカップを見つめたまま、ぽつりと絞り出すような声を出した。
* *
「実家から……許嫁を決めたと教えられたんです」
「えっ……許嫁!?」
思わず声を上げてしまった。
今時、許嫁なんてドラマみたいな話があるのか。
「はい……。没落したとはいえ、うちは『名家』と言われるような家柄だったんです。それで、まだ古い慣習が残っていて。そのお相手の実家から、既に資金的な援助も受けていて……」
鷹司さんはダボついたパーカーの袖をギュッと握りしめ、落胆したように肩を落とした。
「おかげで大学の学費と生活費の心配はなくなって……今までやっていたアルバイトを辞めて、まとまった時間を作ることができました。その時間でデザインの勉強と課題に取り組めるのは嬉しいんですけど……」
(アルバイト……? そういえば、シオンさんがメンエスを辞めた時期と妙に重なるな……)
一瞬、頭の中に奇妙な符合が浮かんだが、今の俺にはそれを深く追求する余裕はなかった。
彼女の悩み事が、想像以上に重く深刻なものだったからだ。
「……で、その結婚する相手はどんな人なんだ?」
「それが、教えてもらえないんです。『サプライズすることに決めたから、卒業してからのお楽しみだ』って……祖母から言われてしまって……」
「卒業まで伏せられる……!?」
俺は眉をひそめた。
今時、許嫁なんてだけでも時代遅れだというのに、相手の顔も名前も卒業まで教えないなんて異常だ。
(……もし事前に教えてしまえば、相手の評判が悪すぎて彼女が猛烈に反対するからではないのか?)
ろくでもない男に、彼女の人生が買い取られたようなものではないか。
「……なんてことだ」
* *
何か力になってやりたい。
そう強く思ったものの、俺の思考はすぐに厳しい現実にぶつかった。
俺は親の言いつけで築古アパートに住む、ただのしがない貧乏美大生(のフリをしている奴)だ。
他人の家の、それも資金援助が絡んだ婚姻問題に、首を突っ込めるような立場も力もない。
自分から『力になる』なんて格好つけておいて、実際には何一つできることがないのだ。
己の無力さと情けなさが津波のように押し寄せてきて、俺は言葉を失い、深くうなだれた。
「……すみません。偉そうなことを言っておいて、俺には何の協力もできないな……」
情けなさのあまり声が掠れる。
すると、鷹司さんは驚いたように目を丸くしたあと、ふっと柔らかく目を細めた。
「ふふ……いいんですよ、富岡さん」
彼女は小さく首を横に振った。
「悩みを聞いてもらっただけで、少し気が楽になりました。こんな話を真剣に聞いて、私のために怒って、一緒に落ち込んでくれて……ありがとうございます」
「鷹司さん……」
なんていい子なんだろう、と思った。
見知らぬ男の突拍子もない話に付き合ってくれて、無力な俺の不甲斐なさを責めるどころか、逆に気を遣って微笑んでくれる。
胸の奥が、熱いものでじんわりと満たされていくのが分かった。
* * *
「……あ、もうこんな時間ですね。そろそろお暇します」
外がすっかり暗くなった頃、鷹司さんはマグカップを綺麗に空にして立ち上がった。
ロングスカートの裾を揺らしながら、自室に帰るために玄関へと向かう。
「あ、送るよ。隣だけど」
「ふふ、三歩で着いちゃいますから大丈夫ですよ」
玄関のたたきで、彼女は小さめのスニーカーに足を入れた。
かがんだ際に、ダボついたパーカーの背中が引っ張られ、あの美しい腰からお尻にかけての曲線がほんの少しだけ強調される。
(……やっぱり、奇跡みたいなラインだな)
見惚れている場合ではない。
何か言わなければ。
話を聞かせてくれたお礼と、気をつけてという言葉を。
口を開いた瞬間――
胸の奥で、ククリちゃんの『呪い』がカッと熱を帯びた。
思考と理性の枷を突き破り、本音がそのまま滑らかな言葉となって滑り出す。
「君のお尻が素敵だと言ったが、君の魅力はそれだけじゃない」
「ひゃえっ……!?」
ドアノブに手をかけていた鷹司さんが、変な悲鳴を上げて固まった。
またしても『お尻』というワードをぶち込んでしまったことに自分でも絶望したが、一度動き出した喉は止まらない。
「君の声はどこかシオンさんに似ている。とても綺麗で、落ち着く声だ」
静まり返った玄関に、俺の真摯な声が響き渡った。
「っ……〜〜〜〜っ!?」
鷹司さんは背中を丸め、耳まで真っ赤にして完全にフリーズした。
ゆっくりと振り返った彼女の顔は、熟したトマトのように赤く染まり、黒縁メガネの奥の瞳が潤んでいる。
「……っ、あ、ありがとうございます……っ! お邪魔しましたっ!」
消え入りそうな声でそう叫ぶと、鷹司さんは逃げるようにドアを開け、隣の自分の部屋へと滑り込んでいった。
パタン、と重いドアが閉まる音が響く。
* * *
静まり返った自分の部屋に戻り、俺はローテーブルの上に置かれた二つのマグカップを見つめた。
彼女が触れていたカップの縁。
部屋に残る、彼女が纏っていたどこか懐かしい上品な香り。
頭の中を占めていたのは、あんなに愛おしかったはずの『シオンさん』の幻影だけではなかった。
あの地味なメガネの奥にある美しい瞳。
伏し目がちに照れる可憐な表情。
そして、俺の無力さに寄り添ってくれた優しい微笑み。
(……俺は)
自分の胸に手を当てる。心臓が、少しだけ早いリズムで拍動していた。
シオンさんの面影を追って声をかけたはずなのに。
俺はいつの間にか――
隣に住む『鷹司詩織』という少女のことが、胸から離れなくなっていた。




