第3話 魅惑のラインと、お隣の鷹司さん
「あぁー……俺のシオンさんが……シオンさんが店を辞めちまった……っ! ようやく金を貯めて、今週こそ予約しようと思ってたのに……っ!」
五月下旬の午後。
総合美術大学のアニメ研究会部室。
部屋いっぱいに漂うインクと紙の匂いの中、陣内弥太郎が頭を抱えて作業机に突っ伏していた。
「だから言っただろ。相手はいつ辞めるか分からないんだから、親に金を借りてでも行っとけって」
隣の席でクロッキー帳に静かにペンを走らせながら、佐々木賢吾が呆れ顔で吐き捨てる。
「馬鹿言うなよ。そんな親不孝な真似ができるものか」
俺は部室の端っこで人物クロッキーの課題をこなしながら、そのやり取りを黙って聞いていた。
親不孝と言われようと後悔はない――。
(格好をつけて金を借りなかった弥太郎は、一回しか施術を受けてないんだよな……。俺なんて、六回も通ったのに)
心の中で、ほんの少しだけ身勝手な優越感を抱く。
だが、次の瞬間には胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
最後に行ったあの夜。
施術室の個室で二人きり、シオンさんから不意打ちで奪われたキスの感触。
唇に残った柔らかくて温かい温度。
そして、その数日後に告げられた「一身上の都合により退職いたしました」という、あまりにもあっけない言葉。
結局のところ、俺だって失恋したようなものなのだ。
さらに俺の心を重くさせるのは、メンエスに通い詰めるために親父から引き出した資金の代償だった。
『俺の言うことを『なんでも一つ』聞け』
電話越しに親父が告げた、あの不気味な取引条件。
(……一体どんな無茶振りが飛んでくるんだか。本当にろくなことにならない気がする)
俺は重い溜息を吐き出し、描いていたスケッチブックをパタンと閉じた。
* * *
数日後――
講義がすべて終わり、夕暮れ時の通学路。
西日が街を真っ赤に染め上げ、路上に長く伸びた自分の影を見つめながら俺は歩いていた。
足取りは重く、向かう先は一人暮らしの安アパートだ。
途中、あの小さな神社の鳥居が見えてくる。
菊理媛命――ククリちゃんとかいう神様のせいで、俺の口は本音が勝手に漏れ出る呪いにかかってしまった(のだと思う)。
だが、シオンさんという最高の女性に出会わせてくれたのも、間違いなくこの神社だった。
(……奇跡ってのは、そう何度も起きないよな)
神社を横目に見ながら歩みを進めていた、その時だった。
十メートルほど前方を歩く、一人の女子生徒の背中が視界に入った。
大学内でも何度か見かけたことのある、地味だが不思議と印象に残った人物――
黒髪を後ろで無造作に一つに結び、ダボッとしたオーバーサイズのグレーのパーカー。足首近くまで隠すダボダボのロングスカートに、ペタンコの靴。
彼女はいつも大きめの黒縁メガネをかけ、伏し目がちにトボトボと歩いている。
全体的に「私は存在しない人間です」と言わんばかりの地味で目立たないオーラを放っていた。
だが――
俺の目は、美大生としてのデッサン眼は、彼女の『ある部分』から目が離せなくなった。
歩行動作に合わせて、ダボついたロングスカートの上からでもくっきりと浮き出る、臀部から太ももにかけてのライン。
部分的に浮き上がる線を何度も見ているうちに、パズルのピースが嵌まっていき、俺の頭の中で全体像がくっきりと形作られていった。
キュッと引き締まったウエストから、ふっくらと豊かな丸みを描いて広がる臀部のシルエット。
その圧倒的な美しさ、骨格と肉付けの黄金比。
服の緩やかなドレープを押し返すような、圧倒的な存在感だった。
(……待てよ。なんだあのライン……? どこかで、ものすごく強烈に見覚えがあるぞ……?)
脳内の記憶データベースが高速で回転し始める。
アロマの香る施術室。
オイルを塗った肌越しに感じた、あの至高の質感。
あの時に見た彼女の後姿がよみがえる。
そして、気付いた。
(……シオンさんだ! あの完成された下半身のライン、シオンさんと全く同じじゃないか!!)
脳裏に稲妻が走った。
(そうか、そういうことか! きっとあの子はシオンさんの妹なんだ! 顔立ちや雰囲気は全然違うが、血の繋がった妹だからこそ、あの奇跡のようなお尻の形が酷似しているんだ!!)
普通ならあり得ない、飛躍しすぎた推理。
だが、シオンさんを失った悲しみのどん底にいた俺の脳は、そのトンデモ仮説をあっさりと事実として確信してしまった。
* * *
そして――
胸の奥で、あの『呪い』が熱を帯びて激しく跳ね上がった。
止める間すら与えられず、俺の口から大声が飛び出していた。
「君はひょっとして、シオンさんの『妹』なんじゃないか!?」
静かな夕暮れの路上に、俺の叫び声が虚しく響き渡った。
「――っ!?」
前を歩いていた彼女が、弾かれたように肩を揺らして足を止めた。
おそるおそる、こちらを振り返る。
大きめの黒縁メガネの奥で、潤んだ瞳が大いに泳いでいた。
「え……えっと……あの……? 『シオンさん』というのは、どなたのことでしょうか……?」
か細く、消え入りそうな声。
(しまった……っ! 初対面の女子相手に、いきなり何を叫んでるんだ俺は……っ!)
冷や汗が背中を吹き出す。
だが、一度動き出した喉の暴走は止まらない。
「実は俺、運命の女性――『シオンさん』を探してるんだ! 彼女のお尻と、君のお尻のラインが瓜二つだったんだよ! だからピンときた、君はシオンさんの妹なんじゃないかって!」
「お、お尻……っ!?」
彼女は可憐な顔を真っ赤に染め上げ、両手で口元を覆った。
目を見開き、信じられないものを見るような目で俺を見つめている。
「あ、あの……違いますっ! 私に姉はいませんから……っ!」
消え入りそうな声で否定が返ってきた。
その瞬間、俺の沸騰していた頭が一気に冷えた。
(うわああああっ! お尻って口に出して言っちゃった! 完全に頭のおかしい不審者じゃないか!!)
大パニックに陥りながら、俺は必死で弁明を試みた。
「す、失礼しました! あなたの、その……下半身が、俺の好きな人にあまりにも良く似ていたもので、つい……!」
『下半身』という、この場において最低のワードを追加してしまい、さらに自ら墓穴を掘ったことに気づく。
警察を呼ばれても文句は言えない。
絶望的な状況だった。
だが――
予想に反して、彼女は怒って逃げ出す様子もなかった。
顔を耳まで真っ赤にしたまま、下を向いてじっと佇んでいる。
指の隙間から覗く頬は朱に染まり、胸元が激しく上下していた。
(……あれ? 怒って……ない……?)
それどころか、なぜだか少し嬉しそうに胸元をキュッと押さえているように見えた。
(まさか……、自分のお尻を褒められたのが、純粋に嬉しくて照れているのか……?)
「あの……私……、隣の部屋の鷹司詩織です。同じアパートの……」
「えっ……お隣さん!?」
俺は目を見開いた。
* * *
この春から住んでいるあの築古の安アパート、その隣の部屋にこんな子がいたなんて知らなかった。
「これはどうも……今までご挨拶もできず、すみませんでした……」
しどろもどろにお辞儀をする俺。
だが、挨拶だけで終わっていればよかったものを、胸の奥から再びあの熱い衝動が突き上げてきた。
がしっ、と。
俺は思わず、彼女の細く華奢な両手を、自分の両手で包み込んでいた。
「ひゃあ……っ!?」
鷹司さんが小さく悲鳴を上げる。
手のひらから伝わってくる、吸い付くような肌の柔らかさとぬくもり。
華奢な指先が、かすかに震えているのが分かった。
「鷹司さん! 良ければ、シオンさんの捜索を手伝ってもらえませんか!?」
「え、ええぇ……っ!?」
「あなたと同じお尻の持ち主を見つけたら、ぜひ俺に知らせてほしいんです!」
至近距離で目を見つめながら熱弁する俺。
鷹司さんの頭上には、目に見えるほどの混乱の渦が巻き起こっていた。
彼女の脳内が大パニックを起こしていることは明白だが、ククリちゃんの力で暴走した俺は、真剣そのものの眼差しで彼女を見つめ続けた。
「頼みます! 俺にとって、シオンさんはそれくらい特別な人なんです!」
まっすぐに自分を見つめてくる俺の視線と、両手を包み込む熱い温度。
鷹司さんは真っ赤な顔をこれ以上ないほど俯かせ、身体をモジモジと震わせた。
「は……はい……っ」
小さく、けれど確かな声で、彼女は頷いてくれたのだった。




