第2話 いきなり急展開、天使とのキス
「と、富岡様っ……! あ、あのっ、店の規約に抵触するようなご発言は……そのっ!」
唐突な告白を受けたシオンさんは、可憐な顔を耳まで真っ赤に染め上げ、大慌てで手を引き抜いた。
豊かな胸元を隠すように両手を合わせ、潤んだ瞳をあちこちに泳がせている。
完璧だったセラピストの仮面が完全に剥がれ落ち、年相応の少女のような動揺を露わにしていた。
だが、その表情には嫌悪感や拒絶の色はない。
ただただ突然の出来事に混乱し、胸を躍らせているような……そんな甘い雰囲気が漂っていた。
(あ、危ねぇ……。また口が勝手に動いてしまったが、嫌われてはいないようだ)
胸の奥で暴れ狂う『呪い』の波動を必死で押し殺し、俺は深く呼吸を整えた。
しかし、それもつかの間、連続で俺の悪癖は発動した。
「……すみません、シオンさん。君が――あまりにも綺麗だったから、まるで天使のようだと思って、つい……」
「も、もう! ですから駄目ですってば……っ!」
シオンさんは頬を膨らませてぷいっと横を向いたが、その唇の端は微かに緩んでいた。
気まずさと甘酸っぱさが混ざり合った空気の中、施術が再開された。
滑らかなアロマオイルが肌の上を滑り、彼女のあたたかい手のひらが体温を伝えてくる。
さっきまでの混乱が嘘のように、シオンさんの指先は優しく丁寧に俺の凝りを解ほぐしていった。
耳元で聞こえる甘い息遣いと、部屋に満ちる柑橘のアロマ。
初体験の心地よさに身を委ねているうちに、あっという間にコースの終了時間が訪れた。
* *
「ふぅ……すごかったな……」
メンエス店を後にし、夜風が吹き抜ける街を歩きながら、俺は何度も自分の顔を緩ませていた。
彼女の温もりと匂いが、まだ全身に残っているような気がする。
ただの童貞大学生だった俺の日常が、一瞬で色づいたかのような錯覚。
(ククリちゃん……心から感謝するよ。幻覚だなんて疑って悪かった)
夜空に浮かぶ月を見上げながら、俺は心の中で境内の神様に深く感謝を捧げた。
* * *
それからの俺は、すっかりその高級メンズエステ店に通い詰めることになった。
もちろん指名は、毎回『シオンさん』だ。
二回目の施術では、前回よりもずっと打ち解けて会話ができるようになった。
大学の課題の愚痴をこぼせば「大変ですね」と優しく微笑んでくれて、彼女が好きなインテリアの話を聞かせてくれたりもした。
しかし、三回目の予約を入れようとしたまさにその時、致命的な問題が立ちふさがった。
「……残金、千二百円」
薄暗い安アパートの部屋で、俺はスマホの銀行アプリの画面を見つめたまま固まっていた。
当然だ。
学生の身でありながら高級店に通えば、いくら生活費を親から貰っていても一瞬で底をつく。
(……どうする?)
バイトを始めて金を稼ぐという手もあるが、給料が入るまで待てるはずがなかった。
(今すぐシオンさんに会いたい……あのアロマの香りと、優しい手触りに包まれたい……!)
恋は盲目というが、完全にシオンさんの虜になっていた俺は、ついに禁断の手を打つことにした。
実家の父親――
富岡ホールディングスの社長へ、電話をかけたのだ。
* *
『……なんだ遊技。貧乏生活に耐えかねて、泣き言でも言う気か?』
スピーカーから聞こえてくるのは、低く厳格な親父の声だ。
電話をしておいてなんだが、こんな理由で親から金を無心するのはどうなのか――という常識が胸の奥で芽生える。
これまでの俺なら、ここで踏みとどまっていたはずだ。
だが、俺の口はククリちゃんの呪いで勝手に動き、本心を吐露した。
「親父、送金してほしい。金をくれ」
『ほう? 生活費ならすでに渡したはずだが。何に使った』
「それは……その、詳しくは言えないが――人生を変えるための勝負所なんだ。どうしてもまとまった資金が欲しい」
『ふむ……』
電話の向こうで、親父が不敵に鼻で笑う気配がした。
『いいぞ、金を融通してやろう。ただし条件がある』
「条件……?」
『近々、お前に命じることがある。その時――四の五の言わずに俺の言うことを“なんでも一つ”聞け。それが飲めるなら、お前の口座に必要な額を今すぐ振り込んでやる』
背筋に冷や汗が伝った。
一代で会社を築き上げた親父の「なんでも一つ」だ。
ろくな要求でないことは目に見えている。
本来なら絶対に断るべき案件だった。
断ろう――
そう思って口を開いた瞬間、胸の奥がカッと熱くなり、またしても喉が勝手に引き攣った。
「いいぜ、わかった! その条件でいいから、金を頼む!」
『くっくっく、交渉成立だ。今すぐ振り込ませる』
ブツリ、と電話が切れた。
(やっちまったああああっ!? なに約束してんだ、俺は!!)
頭を抱えて畳の上を転がり回ったが、数分後にはスマホに「振込完了」の通知が届いていた。
口座に躍る、十分すぎる数字。
後悔の念は、次の瞬間に湧き上がってきた歓喜によってあっさりと塗りつぶされた。
(これで……またシオンさんに会いに行ける……!)
* * *
数日後、俺は再びあの甘やかな香りの漂う個室にいた。
「富岡様、本日もご指名ありがとうございます」
ドアを開けて入ってきたシオンさんは、どこか照れくさそうに、けれど心からの笑みを浮かべておじぎをした。
巻かれた黒髪から覗く白い首筋、セラピスト衣装から溢れんばかりの豊かな胸元。
何度見ても息をのむ美しさだ。
「こちらこそ、シオンさんの施術が忘れられなくて」
「ふふ、嬉しいです。でも、あんまり無理はなさらないでくださいね?」
ベッドに横たわり、温かいオイルが背中に塗られていく。
すっかり慣れ親しんだ手つきで、シオンさんの指先が俺の肌を滑っていく。
(……まあ、俺が金払いのいい太客だから、こうやって愛想よく接してくれてるだけなんだろうけど)
心地よい快感に浸りながらも、俺は冷静に自分を戒めていた。
彼女はプロで、俺はただの客だ。
一目惚れしたからといって、調子に乗ってはいけない。
だが――
今日のシオンさんは、いつもと少し様子が違っていた。
背中から腕、そして仰向けになって首筋へと施術が移っていく中で、彼女の指先がわずかに震えていることに気づいた。
「……シオンさん? どうかしましたか?」
「え……? あ、いえっ、なんでもありません……っ」
シオンさんは慌てて首を振ったが、その息遣いはいつもより荒く、熱を帯びている。
濡れた瞳が、じっと俺の唇を見つめていた。
(どうしたんだろ……? 体調でも悪いのかな……)
そう疑問に思った、次の瞬間だった。
シオンさんがふわりと身を乗り出し、俺の顔の上に影が落ちた。
甘いフローラルの香りが一気に鼻腔を弾く。
柔らかく豊かな胸元が俺の胸に押し付けられ、驚くヒマすら与えられない。
チュッ、と。
小さく、甘い水音が部屋に響いた。
「……っ!?」
唇に触れたのは、驚くほど柔らかく、湿り気を帯びたあたたかい感触だった。
思考が完全にフリーズした。
シオンさんが、俺の唇に、自分の唇を重ね合わせていた。
ほんの数秒の、けれど永遠のように感じられる滑らかな密着。
「……っあ」
我に返ったシオンさんが、弾かれたように顔を跳ね上げた。
彼女自身も「なぜこんなことをしてしまったのか」というような、絶句した表情を浮かべている。
真っ赤に染まった顔を両手で覆い、指の隙間から見開かれた瞳が俺を捉えていた。
「あ……あのっ、私……っ! 本日の施術時間は、以上となります……っ!」
震える声でそう告げると、シオンさんは脱ぎ捨てられたタオルを回収することすら忘れ、逃げるように個室を飛び出していってしまった。
残された俺は、ベッドの上で呆然と天井を見上げるしかなかった。
(いま……キス、された……よな……?)
指先で自分の唇に触れる。
そこには確かに、彼女の温もりと甘い蜜のような感触が残っていた。
* * *
それから三日後。
あのキスの余韻から抜け出せない俺は、居ても立っても居られず、再びメンエス店へ予約の電話をかけた。
どうしても彼女に会って、あのときのこと、そして自分の本当の気持ちを確かめたかったのだ。
だが、受話器から返ってきたのは、予想もしない店舗スタッフの言葉だった。
『――大変申し訳ございません。セラピストのシオンですが、一身上の都合により、一昨日にて退職いたしました』
「……え?」
頭の中が真っ白になった。
『急な体調不良とご家庭の事情とのことでして……指名していただいていたお客様には、大変ご迷惑を……』
スタッフの申し訳なさそうな声が、遠くで響いている。
辞めた……?
シオンさんが……?
あんなに甘い時間を過ごして、最後にキスまで交わして……それなのに、何も言わずに消えてしまったのか?
「……そうですか」
掠れた声で電話を切り、俺はベッドの上に深く沈み込んだ。
店員と客という関係でしかなかった。
彼女の連絡先も、住所も、本名すら俺は知らない。
店を辞めてしまえば、もう二度と会う術なんてなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
けれど――
不思議と嫌な気持ちではなかった。
(俺みたいな影の薄い奴に、あんな夢みたいな時間をくれたんだ……。シオンさん、ありがとう)
人生で初めて誰かを本気で好きになった。
その甘く切ない記憶を胸に抱き、俺はゆっくりと立ち上がった。
失恋の痛みを払うように頭を振る。
いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
明日も世界は変わらずに続き、大学の講義だってあるのだから。
* * *
翌朝。
五月の爽やかな日差しが注ぐ、総合美術大学のキャンパス。
講義棟へと向かう石畳の道を、大勢の学生たちが行き交っている。
皆、課題のポートフォリオや画材カバンを抱え、慌ただしく歩いていた。
俺も肩に下げたバッグを直し、アニ研の部室がある棟へと足を進める。
その途中――
前方を歩く一人の女子生徒の後ろ姿が目に入った。
黒髪を後ろで無造作に一つに結び、ダボッとした大きめのパーカーにロングスカートという地味な装い。
大きめの黒縁メガネをかけ、伏し目がちに下を向いて歩いている。
プロダクトデザイン学科のエリアへと消えていくその背中は、どこか寂しげで、愁いを帯びているように見えた。
(……あの人も、何か悩みなのかな)
一瞬だけ気になったが、俺はすぐに視線を外し、自分の目的地へと歩き出した。
その地味な女子生徒こそが、自分の前から姿を消した『シオンさん』本人であることなど、この時の俺は知る由もなかった。




