第30話 画家のエゴと、彼女とのキス
夢中で鉛筆を走らせていたせいで、完全に時間の経過を忘れていた。
ふと壁の丸時計に目をやると、長針と短針はすでに午後六時を回っていた。
夏至が近いこの季節はまだ外が薄明るいが、西日が部屋の畳を橙色に染め上げるのも時間の問題だ。
太陽はすでに、影を長く伸ばしている。
適度に休憩を入れていたし、様々なポーズを取らせていたが、流石にこれ以上、一糸まとわぬ姿で立たせておくのは酷だろう。
「……よし、今日はここまでにしておこうか」
俺がスケッチブックから鉛筆を離し、息を吐き出しながら告げると、目の前で体を強張らせていた阿久沢さんは、ハッと肩を跳ねさせた。
「え、ええ……っ! そうですわね!」
彼女は限界を迎えていた全身の緊張を一気に解き、安堵の吐息を漏らした。
火照った肌を隠すように、とっさに両腕で豊かなバストを抱え込む。
プルプルと震えていた華奢な脚で畳を蹴るようにして、彼女は脱衣所へと脱兎のごとく駆け込んでいった。
バタン、と勢いよく扉が閉まり、内部からカチャリと鍵の開閉音が響く。
俺は苦笑交じりに息を吐き出し、イーゼルからスケッチブックを取り外して、散らばった鉛筆をケースへと収めていった。
* * *
スケッチブックには、彼女の完璧なスタイルと、恥じらいに満ちた生々しい肉体美が、何枚ものデッサンとして克明に刻まれている。
数分後、衣擦れの音を経て、脱衣所のドアが静かに開いた。
服を着直した阿久沢さんが、少し乱れた金髪を指先で整えながら出てくる。
バッチリメイクを取り戻してはいるものの、その耳たぶと首筋には、未だに隠しきれない朱色が残っていた。
「……ふん、下僕のくせに、ずいぶんと人をこき使ってくれましたわね」
彼女は強がってみせるように胸を張り、ブランドバッグを肩にかけ直した。
俺はイーゼルを部屋の隅に片付け、彼女を見送るために玄関のドアを開けて外へと出た。
夕暮れ前のアパートの廊下には、日中に蓄えられた熱気がまだモワリと残っている。
「ここから先は一人で描けるだろうが、必要と感じればモデルとしてまた来てもらうことになる。連絡先を交換しておこう」
俺がポケットからスマートフォンを取り出し、ごく自然なトーンでそう告げると、阿久沢さんは眉を跳ね上げて露骨な拒絶反応を示した。
* *
「ふざけないで! なんで私が、あなたみたいな地味な男と連絡先なんて交換しなければならないのよ!?」
キーキーと甲高い声で反発し、ツンと顔を背ける阿久沢さん。
だが、今の俺にとって最優先されるべきは、この素晴らしい裸婦デッサンを元に、作品の完成度を極限まで高めることだ。
そのために必要なピースがあるなら、どんな手を使ってでも手に入れなければならない。
俺は表情を消し、冷ややかで鋭い「描き手」の眼光で彼女をじっと見つめ返した。
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと済ませろ。お前の意見は聞いてない。これは命令だ」
静かだが、一切の妥協を許さない気迫。
「ひっ……!?」
俺の急変した圧力と冷徹な視線に圧され、阿久沢さんは短い悲鳴を上げて一歩後退った。
高飛車なお嬢様としてのプライドも、俺の絵に対する本気度の前に呑み込まれたらしい。
彼女は顔をさらに真っ赤にし、プルプルと手を震わせながら、バッグから最新型のスマホを取り出した。
「な、なによその偉そうな態度は……っ! 命令だなんて、生意気ですわ……!」
口では文句を叩きつけつつも、彼女は素直に画面のQRコードをこちらにかざしてきた。
ピリン、と軽い電子音が響き、連絡先の交換が完了する。
「よし。じゃあ、気を付けて帰れよ」
「ふん! 子供じゃあるまいし、余計なお世話ですわ! もう二度と呼ぶじゃありませんことよ!」
阿久沢さんは負け惜しみの捨てゼリフを残すと、高いヒールをカツン、カツンと響かせて、逃げるように階段を下りていった。
同じ大学に通っているのだから、家もそう遠くはないだろう。
荒々しく去っていく金髪の背中を見送り、俺が小さく息を吐いたその時だった。
トタトタと、阿久沢さんとは対照的な、控えめで柔らかい足音が階段の下から響いてきた。
入れ替わるようにして上ってきた人物の姿を見て、俺は思わず目を見張った。
そこにいたのは、黒髪を一つに結び、大きな黒縁の伊達メガネをかけた少女――隣の202号室に住む、鷹司詩織さんだった。
* * *
「あ……富岡さん」
ダボッとした大きめのグレーのパーカーに、長いロングスカートといういつもの地味な装い。
彼女は階段の踊り場で足を止め、去っていく阿久沢さんの派手な後ろ姿と、俺の顔を交互に見比べた。
「あの、富岡さん。先ほどの女性は……?」
どこか気遣わしげで、ほんのりと探るような視線。
伊達メガネの奥にある澄んだ瞳が、じっと俺を見つめてくる。
偶然とはいえ、彼女とは本当にこうしてアパートの廊下でよく顔を合わせる。
「ああ、えっと……色々ありまして、絵のモデルをしてもらうことになった人です。熊川さんと同じ学科みたいですよ」
俺が濁しつつ説明すると、詩織さんは首を小さく傾げた。
「へー、絵のモデル、ですか……」
彼女は小さく呟き、自分の胸元でパーカーの裾をぎゅっと握りしめた。
「どんな絵を描いているか、見せて貰っても良いですか?」
詩織さんは、俺の「ハーレム」のメンバーの一人だ。
彼女に対してコソコソと隠し立てをする必要もないだろう。
それに何より、自分でも驚くほど出来のいいデッサンが複数枚描けたのだ。
創作をする人間として、身近で大切な人にそれを見てもらいたいという欲求が、胸の奥から湧き上がってきた。
「いいですよ。ちょうど片付けが終わったところです。どうぞ」
俺は詩織さんを促し、201号室の室内へと招き入れた。
「お邪魔します……」
詩織さんは静かに靴を揃えて脱ぐと、パタパタと小さな足音を立てて畳の部屋へと上がってきた。
彼女から漂う、石鹸のような清潔で甘い匂いが、阿久沢さんの残していった派手な香水の匂いを優しく塗り替えていく。
俺はイーゼルの上に、先ほど描き上げたばかりのスケッチブックを開いて立てかけた。
* * *
「これです。今日描いたデッサンなんですけど……」
「拝見しますね。えーと――っ!?」
イーゼルに近寄り、絵を覗き込んだ詩織さんの言葉が、途中でぴたりと止まった。
彼女の身体が、まるで時間が凍りついたかのようにカチコチに固まる。
スケッチブックに描かれていたのは――
滑らかな肌の質感、引き締まったウエスト、豊満なバスト、そして一糸まとわぬ姿で恥じらいに震える阿久沢さんの完璧な裸体画だ。
「……富岡さん、モデルって……ヌードモデルだったんですか!?」
詩織さんは顔をサッと林檎のように真っ赤にし、大きな伊達メガネを上下させるようにして俺を振り返った。
「……えっ? あ、ああ」
しまった、と内心で冷や汗が吹き出した。
いくら絵の出来が良くても、付き合っている彼女に他の女子の全裸デッサンをドヤ顔で見せるのは、流石に配慮が足りなさすぎたかもしれない。
詩織さんは絶句したまま、しばらくデッサンと俺の顔を交互に往復させていたが、やがてぷくっと可愛らしく頬を膨らませた。
伊達メガネの奥の瞳をジト目に細め、むくれた様子で俺を睨みつけてくる。
「へー、……ふーん、……そうですか、……」
「鷹司さん……?」
「女の子三人もハーレムメンバーにしておいて、新しい女の子にヌードモデルをさせてるんですね……」
彼女は両手を腰に当て、ツンと横を向いた。
「富岡さんのエッチ……ばか」
絞り出すように呟かれた、小さな抗議の言葉。
普段は控えめで大人しい彼女が見せる、あからさまな嫉妬と拗ねた仕草。
それがたまらなく愛おしく、可愛らしく思えてしまい、俺の胸の奥が熱い感情で満たされていく。
(……ああ、ダメだ。可愛すぎる)
俺は我慢できなくなり、一歩踏み出すと、立ち尽くす詩織さんの華奢な身体を正面からぐっと抱きしめた。
* * *
「うわっ……!? と、富岡さん!?」
ダボッとしたパーカー越しに伝わってくる、彼女の柔らかく細い体躯。
腕の中にすっぽりと収まる小さな存在感と、トクトクと跳ね上がる彼女の心拍数がダイレクトに伝わってくる。
「……嫉妬してくれたんですか? 嬉しいです」
「し、嫉妬なんて……っ! 当たり前じゃないですか、彼女なんですから……!」
胸に顔をうずめたまま、詩織さんが弱々しく俺の背中に手を回してしがみついてくる。
彼女の頭を優しく撫でながら、俺の喉から無自覚に「余計な一言」が滑り出していった。
「詩織さんのヌードも、絵にしていいかな?」
「ええっ!?」
詩織さんは跳ね起きるように顔を上げ、耳まで真っ赤にして目を丸くした。
「そ、そんなの、駄目ですよ……っ! 恥ずかしすぎて死んでしまいます……!」
「そうですか。じゃあ、代わりにキスしても良い?」
「代わりって何ですか……! もう……っ」
あまりにも無茶苦茶な論理の飛躍に、詩織さんは呆れたように脱力し、それから照れくさそうに視線を泳がせた。
俺の胸元にそっとおでこを押し付け、上目遣いに俺の唇を見つめてくる。
「……でも、まあ、いいですよ。したければ……彼女なんだし……」
吐息まじりの、甘く蕩けるような許諾の言葉。
俺は何も言わず、彼女の肩を優しく引き寄せた。
伊達メガネのフレームが軽く当たり、カチャリと小さな音を立てる。
詩織さんが長いまつ毛を伏せ、可憐な薄桃色の唇を少しだけ開く。
夕暮れの静かな部屋で、俺は彼女の柔らかく甘い唇に、ゆっくりと自身の唇を重ね合わせた。




