第31話 猛暑のキャンバスと、先輩からの可愛すぎる提案
八月下旬。
立秋を過ぎたというのに、暦の上の気休めなど一切通用しないような猛暑が続いていた。
ジリジリと照りつける太陽はアスファルトを容赦なく炙っている。
エアコンの送風音だけが静かに響くアパートの201号室で、俺は汗を拭うのも忘れてキャンバスと向き合っていた。
大学の夏季休暇に入り、世間の学生たちが海やらフェスやらで浮かれている中、俺は部屋の真ん中にイーゼルを据え、ひたすら筆を動かしている。
キャンバスに描かれているのは、この部屋で描き上げたばかりのデッサンを元にした油絵だ。
あの圧倒的な肉体美――
恥じらいに頬を染めながらも一糸まとわぬ姿でポーズをとっていた阿久沢仁奈子の生の肉体。
滑らかな肌の質感、キュッと引き締まったウエストから豊満なヒップへと続く奇跡のようなカーブ、そして西日に照らされ黄金色に輝いていた輪郭。
せっかく手に入れた最高の素材だ。
この熱量が冷めないうちに、一刻も早くキャンバスへと定着させたい。
油絵具特有の甘く重い匂いと、油を揮発させるペインティングオイルのツンとした香りが、エアコンの冷気に混ざって狭い部屋に充満していく。
没頭するあまり完全に自分の世界に入り込んでいた俺の耳に、ふとドアを叩く規則的な音が届いた。
こんこん。
「富岡くーん、いますかー?」
ドア越しに響いたのは、鈴を転がすような可憐で甘い声。
聞き間違えるはずもない。
同じアパートの203号室に住む油絵科の先輩――白崎小湖乃さんだった。
俺は一度筆を止め、パレットを机に置くと、固まった肩を軽く回してから玄関へと向かった。
* * *
ガチャリと鍵を外し、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、ゆるふわなライトブラウンの髪を揺らし、幼い容姿を一層際立たせるオーバーサイズの薄手サマーニットを着た小湖乃さんだった。
「ごめんね急に。部屋の明かりがついているのが見えたから」
小湖乃さんは可愛らしい口元を緩め、パチパチと大きな瞳を瞬かせた。
首元からは、日差しを避けるようにふわっと香る、甘く優しいベビーパウダーのような匂いが漂ってくる。
実年齢よりはるかに若く見える可憐な容姿だが、俺より一つ上の先輩だ。
彼女とは、すでにキスまで交わした深い関係である。
「いえ、ちょうどキリが良くて、休憩にしようと思っていたところですから。どうぞ」
俺が脇に退くと、彼女は「お邪魔しまーす」と小さく手を振りながら、パタパタと軽快な足音を立てて六畳間の俺の部屋に上がってきた。
* *
「うわぁ、すごい油彩の匂い」
真夏の室内に満ちる絵の具の匂いに、小湖乃さんは鼻をくすぐられたようになったのか、くしゃみ噛み殺す。
そして、部屋の中央に鎮座する大きなキャンバスへと目をとめた。
「あ、何か描いてたんだ。……ねえ、見ても良い?」
「ええ、構いませんよ」
どうぞと促すと、彼女は好奇心に満ちた足取りでキャンバスの正面へと回り込んだ。
そして、その直後――。
小湖乃さんの身体が、まるで時間が凍りついたかのようにピタリと停止した。
パチクリと開かれていた大きな瞳が、キャンバスに描かれたものを見つめたまま、徐々に丸くなっていく。
そこに描かれているのは、細部まで描き込まれた一糸まとわぬ女性の裸だ。
豊満な胸、しなやかな腰つき、そしてどこか恥じらいを帯びた生々しいポーズ。
実際にここで裸になった阿久沢仁奈子の姿そのものである。
気まずい沈黙が、静まり返った部屋の中に流れた。
小湖乃さんはゆっくりと首をこちらへ巡らせると、半目のようなジト目で俺を睨みつけてきた。
その瞳には非難するような呆れと、どこか憐れむような色が混ざり合っている。
「……富岡君。ハーレムを作りたいあまり、ついにこんな妄想を絵にしていたのね」
ポツリと漏らされた、勘違い全開の呆れ声。
(……阿久沢さんという本物のモデルがいたということは、言わない方が良いだろうな)
この部屋で彼女を脱がせてデッサンしたなどと知られたら、小湖乃さんの逆鱗に触れて、間違いなく大変な惨事になる。
俺は内心で冷や汗を流しながらも、表情一つ変えずに言葉を返した。
「妄想ではありませんよ、芸術的な探求です。……どうです、この絵は?」
話題を逸らすように尋ねると、小湖乃さんは「まったくもう……」と小さく溜息をつき、再びキャンバスへと視線を戻した。
* * *
絵を見つめる彼女の顔つきから、先ほどまでの呆れ顔が消えていく。
瞳の奥に「油絵科の先輩」としての鋭い光が宿り、画家の卵としての顔が覗いた。
彼女は小さくアゴに手を当て、前屈みになりながらキャンバスの表面をじっくりと観察し始める。
薄手のニットの胸元が少しだけ弛み、華奢な首筋から鎖骨にかけての白い肌がチラリと覗くが、今の彼女は集中していて気が付いていない。
「うーん……そうね。全体のフォルムやデッサン力はすごく良くできていると思うわ。さすが富岡君ね」
まずは俺の技術を素直に褒めてくれたあと、彼女は華奢な指先でキャンバスの特定の部位を指し示した。
「でも、ここ……ウエストからヒップにかけての陰影の置き方と、肌の明暗表現が少し硬い気がするの。光の回り込みを意識しすぎて、彩度が落ちちゃってるというか」
「……あ」
言われてハッとした。
確かに、阿久沢さんの圧倒的な肉体美を忠実に再現しようとするあまり、陰影のグラデーションにこだわりすぎて色調がくすんでしまっていた。
「肌のベースに、もう少しアンバー系かローズ系の補色を薄く重ねてみて。そうすると、生きている人間の肌特有の『内側から匂い立つような血色感』が出ると思うの」
「なるほど……下地に温かい色を落とし込んで、光を透過させるわけですね」
「そうそう! それに、背景の暗部と太ももの境界線も、もっとナイフでマチエールをつけて削り出した方が、女性らしい柔らかな質感が引き立つはずよ」
小湖乃さんは身乗り出すようにして、具体的な筆使いや絵具の混色理論を教えてくれる。
実年齢より幼い見た目からは想像もつかないほど、彼女のアドバイスは的確で、油絵科として重ねてきた研鑽の深さを物語っていた。
「……さすが先輩ですね。すごく勉強になります」
俺が素直な感嘆を口にすると、小湖乃さんは誇らしげにえっへん、と小さく胸を張った。
「ふふん、伊達に一学年上をやってないわよ! 油絵のことなら任せなさい」
二人の間で弾む、美大生らしい本格的な芸術議論。
互いに絵を描く者同士として、言葉を交わすたびに思考が噛み合い、心地よいグルーヴ感が生まれていく。
* * *
「アドバイスありがとうございました。とても参考になりました。後で教えてもらった通りに修正してみます」
俺が深く頭を下げると、小湖乃さんは「ううん、私も楽しかったよ」と柔らかく目を細めて微笑んだ。
だが、彼女の視線が再びキャンバスの裸婦画へと向けられた瞬間、その笑みがぴたりと止まった。
小湖乃さんは何やら深く考え込むように眉をひそめ、困ったような、どこか深刻そうな顔つきで俺を見つめ直してきた。
「……でも、富岡君」
「はい?」
「やっぱりね、こういう生々しい絵を描くくらい欲求をため込んでいるのは、良くないと思うの」
小湖乃さんは腕組みをし、真面目な顔で頷いている。
どうやら彼女の中では、この絵の圧倒的な熱量と生々しさは、俺の「解消されない溜まりに溜まった性的欲求」が爆発した結果だということになっているらしい。
(……実際のモデルの生々しさをそのまま反映させただけなんだが)
訂正できるはずもなく俺が沈黙していると、小湖乃さんは満足そうに頷き、ポンと自らの小さな手を叩いた。
「そうだ! 富岡君、私のことをデートに誘いなさい!」
自慢気なドヤ顔で、胸を張って言い放つ小湖乃さん。
「えっと、それは……?」
思わず聞き返した俺に、彼女はフフンと可愛らしく鼻を鳴らした。
「富岡君は私のことが好きなんでしょ? なのに、一人でそんな妄想ばかり膨らませて欲求不満になるなんて健全じゃないわ。だから、想い人である私とデートをして、現実の甘い雰囲気を味わうべきなの!」
彼女なりに考えた、俺の「ハーレム願望」や「欲求不満」を解消させ、自分一人に夢中にさせるための計算された提案なのだろう。
ドヤ顔をキメているものの、その耳たぶがほんのりと赤く染まっているのが見えた。
強がりと下心が入り混じった、あまりにも可憐な先輩の姿。
その可愛らしさに胸を打たれると同時に――
俺の口から、菊理媛命の呪いとも言える「あの癖」が無自覚に滑り出していた。
「欲求不満を解消するためのお誘い……つまり、それは――遠回しな『エッチのお誘い』ということでしょうか?」
静かな部屋に、ボソッと落ちた俺の一言。
「……っ!?」
小湖乃さんの身体がビクッと跳ね上がった。
一瞬遅れて、俺の言葉の意味――
つまり「デートの先に、欲求を解消するようなエッチな展開があるのか」という問いかけに、彼女の顔が爆発したように真っ赤に染まった。
「な、ななななナニ言ってるのバカっ!? そういう意味じゃなくてっ! 気晴らしとか! 気分のリフレッシュって意味よっ!!」
小湖乃さんは両手をブンブンと振って激しく狼狽し、今にも頭から湯気を吹き出しそうな勢いで真っ赤になっている。
ポカポカと俺の腕を小さな拳で叩いてくるが、その威力は赤ん坊のそれと変わらない。
「ああ、そういう意味でしたか。失礼しました」
「当たり前でしょバカ! もう……変なこと言わないでよ……っ」
顔を両手で覆い、指の隙間からジト目で俺を睨みつけてくる小湖乃さん。
上気した頬と、照れ隠しに唇を尖らせるその仕草が、猛烈に愛おしかった。
からかうのはこれくらいにしておこう。
俺は真面目な表情を作ると、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「変なこと言って、すみません。それと――先輩の提案はとても嬉しいです。……俺とデートしてください、先輩」
改まって誘うと、小湖乃さんは覆っていた手をゆっくりと下ろした。
真っ赤な顔のまま、少しだけ誇らしげに咳払いを「コホン」と一つ。
「……ふふん、いいでしょう。後輩のお願いなら、付き合ってあげないこともないわ」
無理にドヤ顔を取り戻そうとしているが、嬉しさを隠しきれずに口元がゆるゆると緩んでしまっている。
「それで、どこに行きたいですか?」
俺が尋ねると、小湖乃さんは待ってましたとばかりにパッと目を輝かせた。
「水族館が良いわ!」
「水族館ですか?」
「うん! こんなに暑いんだから、涼しいところでゆったりクラゲとかお魚を見たいの。……それに、暗くて雰囲気がいいでしょ?」
最後の方はボソボソと小声になりながらも、彼女は期待に満ちた笑顔を浮かべた。
猛暑が続く夏休みの後半。
幼く可憐な油絵科の先輩との、涼やかな水族館デートが決まった。
「わかりました。では、昼飯を食べてから出発しましょう」
「うん!」
嬉しそうに胸を躍らせる小湖乃さんの笑顔を見つめながら、俺はこれからのデートに思いを馳せるのだった。




