第29話 絵のモデルと、強がりな彼女
「てっきり――冴えない男を誘惑して、便利使いできる手駒を作っているのかと思っていましたが……絵のモデルというのは意外ですわね。……それ、本当ですの?」
阿久沢さんはきょとんと目を丸くし、それから胡散臭そうな目で尋ねてきた。
「ええ。俺は趣味で油絵を描いていて、彼女にはそのモデルになってもらっているんですよ……人物画の製作に力を入れているものですから」
俺はそう言うと、畳の匂いが残る押し入れの奥へと手を伸ばした。
奥から取り出したのは、木枠に張られたF6サイズのキャンバスが二枚。
以前、俺がスケッチを元に描き上げた梨々花さんの油絵だ。
「これです」
俺は絵の表面に傷がつかないよう配慮しながら、阿久沢さんの前の机に二枚のキャンバスを並べて立てかけた。
一枚は夕暮れの橙色の光を浴びながら、無邪気に笑ってみせる梨々花さん。
もう一枚は、風にそよぐ髪を細い指先でそっとかき上げる、どこか大人びた瞬間を切り取った作品だ。
阿久沢さんは組んでいた脚を解き、身を乗り出すようにして絵に顔を近づけた。
バッチリメイクが施された大きな瞳が、キャンバスの絵の具の重なりをじっと凝視する。
ふわりと、彼女の髪から漂う華やかで甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐった。
* * *
「ふーん。……まあまあ、ですわね。でも、あの女にしては少し良く見せ過ぎではないかしら? 本人の平凡さを隠し、美しく誇張しています。感心しませんわね」
彼女は腕を組み、ツンと鼻を鳴らして難癖をつけてきた。
口では厳しい評価を下しているものの、その瞳には明らかな動揺と、ライバルに対する強い対抗心が揺らめいている。
「そうですか」
俺は波風を立てないよう、淡々と一言だけ返した。
阿久沢さんはまだ気が収まらないらしく、さらに難癖をつけてくる。
「それにしても、熊川さんはモテない男をたぶらかして、自分専用の絵師とするとは――自信過剰なあの人らしいですわね」
阿久沢さんは自分が相手よりも上であることを確信したように、自慢の金髪をサラリとなびかせてフフンと笑った。
俺は梨々花さんだけを描いているわけではないのだが、勝手に誤解して納得してくれる分には、こちらとしても好都合だ。
しかし――
目の前で、朗らかで優しい梨々花さんを「自信過剰」呼ばわりされるのは、どうにも胸の奥が不快でざわついてしまう。
(……少し、懲らしめてやるか)
その瞬間、胸の奥で何かが弾け、喉の奥から勝手に言葉が滑り出していった。
神社でククリヒメに願掛けをして以来、俺にまとわりつく「余計な一言」の癖だ。
* *
「良ければ阿久沢さんの絵も描きましょうか?」
「……?」
阿久沢さんは一瞬、何を言われたのか理解できないといった様子で目を丸くした。
それから、彼女は心底おかしそうに可憐な唇を歪め、くすくすと笑い出した。
「あなた如きが、この私の絵を描くだなんて、畏れ多いと思わないのかしら? でも、その蛮勇は嫌いではありませんよ。……そうですね、あの女の手駒を私の魅力で夢中にさせて、我がものとするのも一興かしら――いいでしょう、あなた、私の絵を描きなさい。当然、あの女よりも美しくね」
阿久沢さんは胸を張り、高飛車に命じてきた。
彼女の中で「梨々花の専属絵師を奪い取る」という謎のマウントが成立したらしい。
俺は彼女のその高慢さを見つめながら、内心でニヤリと笑った。
「かしこまりました。では、俺は画材の用意をしますので、その間に服をすべて脱いでいてください」
「は、はあ? 何を言ってるのよ?」
阿久沢さんの笑みが固まり、眉が吊り上がった。
「ですから、裸婦画を描きますので、服は脱いでくださいと」
「そんなの、脱ぐわけないでしょう!」
整った顔を真っ赤にし、信じられないものを見る目で俺を睨みつけてくる。
俺は表情一つ変えず、淡々と論理を組み立てて説明した。
「ですが、熊川さんよりも美しくというオファーでしたので、全裸になって貰わないと対抗できませんよ? それとも、自分の身体に自信がないのですか? だとしたらすみません。あなたには興味がないのでお帰り下さい」
「なっ、何ですって……!?」
阿久沢さんの綺麗な額に青筋が浮かんだ。
俺としては、彼女がどちらを選択しても一向に構わない。
このままプライドを折られておとなしく帰ってくれれば、騒がしいお嬢様がいなくなって静かな日常が戻る。
逆にモデルを了承してくれるなら、美大生として喉から手が出るほど欲しい「貴重な生の裸婦モデル」が無料で手に入る。
どちらに転んでも、俺に損はないのだ。
だが、俺が提示した二択は、彼女の肥大化したプライドを思いのほか刺激してしまったらしい。
阿久沢さんは拳を握りしめ、全身をプルプルと震わせながら俺を睨み据えた。
* *
「じ、自信がないわけないでしょう! 定期的にエステに通って磨きをかけている完璧な身体です! 食事も計算し、適度な運動も欠かしておりません! いいでしょう、モデルになってあげようではありませんか!」
「ありがとうございます」
俺が丁寧に頭を下げると、阿久沢さんはハッと我に返ったように視線を泳がせた。
「……だ、脱衣所をお借りします。覗いたらタダではおきませんからね!」
「ここで脱げばいいのに」
俺が少し残念そうに呟くと、阿久沢さんは顔を真っ赤にして叫んだ。
「ストリップをする必要はないはずですわ!!」
彼女は吐き捨てるように言い放つと、ブランドバッグを握りしめ、逃げるように廊下の奥にある狭い脱衣所へと駆け込んでいった。
パタン、と扉が勢いよく閉まり、カチャリと鍵の開閉音が響く。
「……さて、本当に脱ぐのかな」
俺は半信半疑のまま、押し入れから木製イーゼルと大きめのスケッチブック、そしてデッサン用の鉛筆セットを取り出した。
狭い畳の上にイーゼルを組み立て、机をどける。そして部屋の中央の位置にパイプ椅子をセッティングする。
静まり返ったアパートの部屋に、脱衣所からかすかな音が漏れてきた。
絹のようなブラウスが擦れる衣擦れの音。
金属製のホックが外れる小さな音。
スカートのジッパーが下りる音、そしてストッキングが滑らかな肌を滑り落ちていく摩擦音。
音の生々しさに、俺の耳朶がじんわりと熱を帯びていく。
* * *
数分後。
脱衣所のドアが、ギギ……と躊躇がちな音を立ててわずかに開いた。
「……あ、あの」
細く震える声。
ドアの隙間から、まず顔だけが覗いた。
バッチリ施されていたはずのメイクの上からでもはっきりとわかるほど、彼女の顔は熟したトウガラシのように真っ赤に染まっている。
耳の先まで朱に染まり、いつもは高圧的な瞳が、恥じらいと緊張でうるうると濡れていた。
「……覗いて、ないでしょうね?」
「覗いてませんよ。早く来てください」
俺がイーゼルの横でスケッチブックを構えて待っていると、彼女は覚悟を決めたように、大きく息を呑んだ。
ゆっくりとドアが開かれ、彼女が一歩、畳の上へと足を踏み出す。
そこに立っていたのは――一
糸まとわぬ姿となった、阿久沢仁奈子だった。
* *
「っ……」
俺は思わず、呼吸を忘れてその光景に見入ってしまった。
夕暮れの部屋の薄明かりの中に浮かび上がる、圧倒的な裸体。
黄金色のゆるふわ金髪が、華奢な白い肩にかかっている。
日頃から入念にお手入れされているのだろう、彼女の肌は陶器のように滑らかで、一切のくすみがない。
胸元は、高飛車な言動とは裏腹に、驚くほど可憐で柔らかそうな丸みを帯びていた。
キュッと引き締まったウエストから、なだらかな曲線を描いて広がるヒップのライン。
そして、モデルのようにすらりと伸びた細い脚。
普段は高級なブランド服で固められたギャルお嬢様が、今は生まれたままの姿で、俺のすぐ目の前に立っている。
部屋の中に、彼女の火照った体温と、甘い香水の匂いが密室の熱気となって充満していく。
* * *
「〜〜〜っ! ど、どうかしら! これが私の完璧な体ですわ!」
阿久沢さんは恥ずかしさを誤魔化すように、胸を隠しそうになる腕をぐっと堪え、必死に胸を張ってみせた。
だが、強がりな言葉とは裏腹に、彼女の爪先はキュッと丸まり、華奢な膝と指先はプルプルと小刻みに震えている。
真っ赤になった肌には鳥肌が立ち、息が上がるたびに豊かなバストが上下に揺れていた。
その圧倒的なギャップと背徳感に、俺の脳裏が一瞬麻痺しそうになる。
だが――
俺は深く息を吐き出し、スケッチブックを強く握り直した。
スケベな下心を意識からシャットアウトし、頭を「絵描き」モードへと切り替える。
俺の瞳から邪気が消え、対象の骨格、明暗、ラインを冷徹に見極める観察者の光が宿った。
「……いい身体ですね。骨格のバランスが素晴らしい」
俺の口から出たのは、一切のいやらしさを含まない、純粋な感嘆だった。
「え……?」
阿久沢さんが毒気を抜かれたように目を見開く。
俺は彼女の全身を、つま先から髪の先まで、舐めるように鋭い視線で観察し始めた。
服を着ていてはわからない肩甲骨のライン、ウエストから腰骨にかけての美しい落ち込み、光と影のグラデーション。
(初めての裸婦画だ。よし、気合を入れて描くぞ)
俺の視線が、単なる「男から女へのスケベな視線」ではなく、「絵描きからモデルへの真剣な視線」であることに、阿久沢さんも気づいたのだろう。
そこに一切の邪心がないからこそ、全身を丸裸にして観察される刺激がダイレクトに彼女の肌を焼き、心臓を激しく跳ね上げさせていた。
「くっ……そ、そんなにじろじろ見ないでくださ……っ」
彼女の強がりな声が、甘く震える。
サッ、サッ、サッ――。
エアコンの冷風が吹き抜ける安アパートの201号室に、デッサン鉛筆が紙を滑る軽快な音だけが響き渡り始めた。




