第28話 高飛車なライバル登場
梨々花さんの柔らかく温かい唇の感触と、ほんのりと甘い果実の余韻。
夕暮れの街角に取り残された俺は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。
指先でそっと己の唇をなぞってみる。
そこには確かに、彼女の体温と、かすかな吐息の香りが残されていた。
(……お別れのキス、か)
胸の奥がじんわりと熱くなり、柄にもなく心拍数が跳ね上がっていくのを感じる。
二人きりの帰り道、赤くなった顔で上目遣いに俺を見つめていた梨々花さんの表情が、脳裏に焼きついて離れない。
俺は息を深く吐き出し、乱れかけた呼吸を整えると、アパートへ向けてゆっくりと足を進めた。
しかし、分かれ道を曲がって住宅街の細い路地に入ったところで、背後から追ってくる足音に気づいた。
カツ、カツ、と硬いヒールがアスファルトを叩く鋭い音。
「ちょっと、そこのあなた、聞きたいことがあります!」
通りやすい、高めで芯のある声が夕暮れの路地に響き渡った。
* * *
俺は足を止め、面倒な予感を覚えながらゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、一目見てタダ者ではないとわかる美女だった。
夕日を背に浴びて黄金色に輝く、ゆるふわの金髪。
キャンパスの雑多な風景の中でも一際目を引くであろう、計算し尽くされたバッチリメイクと、ツンと上を向いた鼻筋。
ボーダー柄のカジュアルな梨々花さんとは対照的に、彼女は胸元が少し覗く上品なブラウスに短めのスカート、そして肩には高級そうなブランド物のレザーバッグを下げていた。
ふわりと、すれ違っただけでも鼻をくすぐるような、華やかで甘い香水の匂いが漂ってくる。
俺は首を傾げつつ、努めて冷静に問いかけた。
「えっと……迷子ですか?」
「そんなわけないでしょう!」
間髪入れずに、彼女は綺麗に手入れされた指先を俺に突きつけてきた。
道に迷って声をかけてきたわけではないらしい。
「私はあなたに用があって声をかけているのです!」
「……用というのは何でしょうか。俺には心当たりがありませんが」
俺が淡々と応じると、彼女はふんっと鼻を鳴らし、腕を組んで俺を凝視してきた。
その視線はどこか高圧的で、相手を値踏みするような鋭さを含んでいる。
* * *
「あなた、熊川梨々花さんと親しいようですけど……どういったご関係ですか?」
直球すぎる質問だった。
俺は思わず言葉に詰まる。
どういった関係、と聞かれて素直に「実は縁結びの神様の力で彼女を含めた数人とハーレムのような状態になっています」と答えるわけにはいかない。
そんなことを口にすれば、変人扱いされるのが目に見えている。
「えっと……ですね。その……」
「何です? 歯切れが悪いですわね。やましいことでもおありかしら?」
彼女は眉をひそめ、じわじわと距離を詰めてくる。
俺は頭の中で手早く言い訳を組み立て、できる限り無害そうな笑みを浮かべた。
「……アパートのお隣さんのご友人です」
「ふーん、お隣さんのご友人ねぇ」
彼女は疑わしげに目を細め、俺の顔をじっと見つめてから、くすりと挑発的に微笑んだ。
「あなたはそんな、赤の他人のような相手とキスをするのですか?」
「……っ」
心臓が跳ね上がった。
* *
見られていた。
あの分かれ道での、梨々花さんとの決定的な瞬間を。
だが、ここで動揺を見せたら相手の思うツボだ。
俺は表情ひとつ変えずに首を横に振った。
「何のことでしょうか? 人違いでは?」
「しらばっくれても無駄です。これをごらんなさい」
彼女はバッグから最新型のスマートフォンを取り出すと、その画面を俺の目の前へと突きつけてきた。
画面に映し出されていたのは、鮮明な一枚の画像だった。
夕日に照らされた路地裏、俺と梨々花さんが至近距離で向かい合い、彼女が爪先立ちになって、お互いの顔を近づけている構図。
背後から撮影されたものなので、直接的に唇が触れ合っている瞬間そのものは隠れているが、状況から考えてキスをしていることなど火を見るより明らかだった。
画質が異様に良く、アングルも完璧だ。
「……盗撮ですか。いい趣味ですね」
「盗撮ではなく、決定的な証拠の記録です! これでもまだしらばっくれるつもりかしら?」
彼女は勝利を確信したように胸を張り、フフンと鼻を鳴らした。
* * *
どうやら彼女は大学からあの分かれ道まで、ずっと俺たちの後をつけてきていたらしい。
ストーカー並みの執念だ。
俺は深いため息をつき、ポケットに手を突っ込んだ。
「それで、何の御用ですか? 俺と彼女がキスしていようがしていまいが、あなたには関係ないはずですが……」
「最初から言ってるでしょ、あなたたちの関係を聞きたいのだと――」
「ちなみに、あなたは誰ですか? 見ず知らずの人にプライベートを教えるわけにはいきません」
俺がそう問いかけると、彼女は待ってましたとばかりに背筋を伸ばし、自慢の金髪をサラリとなびかせた。
「私は阿久沢仁奈子。あなたの通う大学の生徒で、熊川さんのライバルです!」
阿久沢仁奈子。
自己紹介に偽りがなければ、梨々花さんと同じ視覚伝達デザイン学科の二年生ということになる。
そう言われると――
キャンパスにいるのを何度か見かけた記憶があるような。
「そのライバルが、何故、俺と彼女の身辺調査を?」
「敵の動向は詳しく知っておく必要がありますからね。彼女が最近、どこか浮足立って見えたので、気になってつけてみれば……まさかこんな冴えない男とイチャついているなんて思いもしませんでしたわ」
「冴えない男で悪かったですね」
さらりと酷い感想を吐かれたが、言い返す気力も湧かない。
アニ研の問題児たちに比べれば悪質さは皆無と言っていい。
(熊川さんをライバル視しているだけで、悪い人ではなさそうだ。追い払う必要はないな)
ただ、こんな住宅街の路上で立ち話を続けるのは御免だ。
近所の住人に不審に思われても困るし、誰に話を聞かれているかわからない。
昼間の熱気が残ったアスファルトは拷問器具のように熱を送り続けてくる。
「とにかく、ここで話すようなことでもないので、俺の部屋に来てください。嫌ならこれ以上は話しません」
「ふん……良いでしょう。では、あなたの部屋とやらに案内しなさい」
俺たちは連れ立って歩き出した。
* * *
阿久沢さんは一瞬嫌そうな顔をして俺のアパートの古ぼけた外観を見上げた。
築年数の経った木造アパートのペンキが剥げた階段。
いかにも貧乏学生が住んでいそうな貧相な佇まいに、彼女は眉をひそめる。
俺は阿久沢さんを促し、軋む階段を上って201号室の前に立った。
カギを差し込んで扉を開けると、一日中締め切っていたせいで、ぬるい湿気と熱気が一気に押し寄せてくる。
「うっ……何ですのこの部屋、蒸し風呂ですわ!」
阿久沢さんは部屋に踏み込むなり、手で顔を扇ぎながら露骨に不快感を示した。
「暑いです。早くクーラーをかけなさい、下僕」
「……誰が下僕だ」
いつの間にか完全に向こうのペースに巻き込まれ、下僕扱いされていることに呆れつつも、俺は壁のリモコンを操作してエアコンを冷房強モードで起動させた。
ブウンと音を立てて冷風が吹き出し始めると、阿久沢さんはほっと息をつき、勝手に俺の部屋にあったパイプ椅子を引き寄せて腰掛けた。
短めのスカートから伸ばされた細くしなやかな脚が、すっと組み替えられる。
ヒールを脱いだ足先、薄いストッキング越しの上品な肌の質感、そして組み替えられた太ももの柔らかそうな肉感が、狭い部屋の中で異様な存在感を放っていた。
派手な香水の匂いと、彼女自身の体温が、一人暮らしの殺風景な男の部屋に充満していく。
* *
「のどが渇きました」
阿久沢さんは当然のように俺を見上げて命令してきた。
「お茶で良いですか?」
「もっとなにか、気の利いたものはありませんの? ジュースとか、冷たい紅茶とか」
「あいにくと、冷蔵庫には麦茶しか入っていません」
「仕方ないですね。これだから気の利かない殿方は……それを出してくださいな」
どこまでも高圧的で、どこまでもお嬢様気質だ。
俺はキッチンに立ち、冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出してガラスコップに注ぎ、彼女の前の机に置いた。
「はい、どうぞ」
「あら、ご苦労様」
阿久沢さんは細い指先でコップを持ち上げると、上品に口をつけて麦茶を喉へと流し込んだ。
喉元が小さく動く様子すら、どこか計算された美しさがある。
一息ついた彼女は、コップを机に置くと、再び鋭い視線を俺に向けた。
「それで、あなたたちの関係は? 正直に答えなさい」
腕を組み、脚を組み替え、阿久沢さんは俺を尋問するように見つめてくる。
(……さて、どう答えたものか)
俺は腕を組み、冷や汗を脳内でかきながら思考を巡らせた。
正直に「実は俺、熊川さんや他の女性たちとハーレムを作っていまして……」なんて答えたらどうなるか。
嫌でも過去のトラウマが脳裏に蘇る。
以前、学内に「富岡遊技がハーレムを作ろうとしている」という噂が流れたことがあった。
あの時、俺はアニ研の厄介女子たちが目の敵にしてきて、悲惨な目に遭ったのだ。
『デンジャラス鬼塚』の丸太のような拳でみぞおちをぶん殴られ、
『バッドエンド立花』の理不尽な拳で攻撃を受け、
『アサシン・オザキ』の卑怯な追い打ち……数々の暴力の記憶。
あんなリンチを二度と味わいたくはない。
いや、あの連中は『例外』のような奴らだから、この人が同じ反応はしないだろうが、「ハーレム」なんて言葉は社会的に眉を顰められるものだ。
積極的に公言するようなものではない。
熊川さんとの関係は、誰もが納得する「健全な理由」を提供しよう。
俺は深呼吸をし、落ち着いた声で口を開いた。
「……彼女は、俺の絵のモデルですよ」
「絵の……モデル?」
阿久沢さんはきょとんと目を丸くし、それから胡散臭そうな目で尋ねてきた。
「てっきり――冴えない男を誘惑して、便利使いできる手駒を作っているのかと思っていましたが……絵のモデルというのは意外ですわね。……それ、本当ですの?」
「ええ。俺は趣味で油絵を描いていて、彼女にはそのモデルになってもらっているんですよ……人物画の製作に力を入れているものですから」
俺はそう言うと、絵を保管している押し入れに向かった。




