第27話 コントの練習と、帰り道のキス
自販機が置かれた校舎の陰は、直射日光こそ遮られているものの、熱帯の温室のように蒸し暑い空気が澱んでいた。
頭上からはセミの鳴き声が途切れることなく降ってきて、鼓膜を不快に震わせる。
ポケットの中で100円玉と50円玉が擦れ合う金属音を聞きながら、俺は立ち尽くしていた。
目の前に立ちはだかるのは、アニ研が誇る(誇りたくはないが)厄介女子トリオだ。
汗ばんだ大きなジャージに身を包んだ『デンジャラス鬼塚』。
淀んだ瞳と目の下に濃いクマを刻んだ『バッドエンド立花』。
そして、小柄な体に丸メガネ、何か重苦しい呪詛でも吐き出しそうな『アサシン・オザキ』。
この場から逃げようか、一瞬真剣に迷った。
だが、俺の喉はカラカラに乾いているし、何よりここで退けば彼女たちの理不尽なテリトリー主張を認めることになってしまう。
俺が無言で様子を伺っていると、真っ先に鬼塚がどすどすと踏み出してきた。
* * *
「おいお前、よくも手伝いを断りやがって」
そう言いながら立ち止まる。
そして――
「調子に乗ってると、こうやぞ」
鬼塚は丸太のような太い腕を振り上げると、分厚い拳をぎゅっと固く握りしめ、「ぐっ」と俺の顔面に向かって突き出してきた。
殴ってやるぞ、という古典的かつ直接的な威嚇のジェスチャー。
相変わらず、フィクションと現実を混同しているらしい。
彼女は自分のことを『女性向け作品の主人公』と思い込んでいる危険人物であり、その手の作品の主人公が凶暴化していることに伴い、鬼塚もまた凶暴化していき――ついには『デンジャラス』という言葉が、通称に追加されるようになった。
(……本当に頭のおかしな奴だな)
俺が呆れ半分にそんな感想を抱いていると、今度は隣にいた立花が、分厚い唇を歪めてニチャリと笑った。
「お前に教えといてやるよ。やっと私の運命の人を見つけたんだ。バイト先で――これでお前は終わりだ。私たちが付き合えば、お前をボコって貰うから。ざまぁ」
立花は鼻から荒い息を吐き出しながら、胸を張って勝ち誇っている。
彼女の言う「運命の人」が実在するのかすら怪しいが、仮に実在したとして、付き合った途端に見知らぬ男(俺)をボコらせようとする彼女の思想はあまりにも危険だ。
そもそも、俺はこの女と付き合ったこともなければ、振った覚えすらない。
(……こっちも輪をかけて頭がおかしいな)
関わったら危険だというアラートが脳内で激しく鳴り響く。
俺が言葉を失っている隙を逃さず、最後にオザキちゃんが、スッとメガネのブリッジを押し上げた。
「辛辣になって申し訳ないが」
彼女は免罪符のような決まり文句で前置きをすると、早口でマシンガンのように言葉を捲し立て始めた。
「お前らの作っている短編アニメ、マジでキモいから。世界観が破綻しているし、行動が矛盾しまくっているんだよ。マジでお前最悪だからさ。アニ研から出て行ってくれない? 本当に邪魔なんだよ」
オザキちゃんはクマのひどい目を血走らせ、唾を飛ばさんばかりの勢いで距離を詰めてくる。
「おまえさあ、何がしたくてアニ研にいるの? みんなから嫌われてるの知らないの? お前が作ったストーリーは素人以下なんだよ」
一息でそこまで言い切ると、彼女はふんと鼻を鳴らした。
こいつは最近、捨て垢を作り、自分の気に入らない作者に長文のアンチコメントを投げつけているらしい。そのことを実生活(サークル内)では隠そうともせず、まるで武勇伝のように自分で周囲に吹聴していた。
そのことから『アサシン・オザキ』と呼ばれるようになっていた。
つまり、アニ研女子の中でも断トツの糞野郎となったわけだ。
アサシンにクラスチェンジした彼女と比べると、他の二人が可愛く見える。
* * *
俺が何と言ってこの場をやり過ごそうかと思案していた、その時だった。
「おーい、富岡君! 今日来てたんだ。あっついねー」
別の校舎の角から、明るく弾んだ通る声が響き渡った。
振り向くと、茶髪のロングヘアを爽やかなハーフアップにした熊川梨々花さんが、パッと花が咲いたような笑顔でこちらへ歩いてくるところだった。
ボーダー柄のカジュアルなトップスからは健康的で白い腕が伸びていて、額には薄っすらと健康的な汗の粒が光っている。
梨々花さんがこちらに近づいてくると同時に――
「…………っ」
さきほどまで俺をなじり、威圧していた三人組が、急激に静まり返った。
文字通り「すんっ」という擬音が完璧に当てはまるような手際で表情を消し、誰一人として言葉を発することなく、忍者のようにサッと背を向けると、無言のまま高速で去っていった。
そのあまりにも見事な手のひら返しと逃走速度に、俺は少し感心してしまった。
陽キャで可愛い梨々花さんの前では、自分の異質さが際立ってしまうことを彼女たちなりに自覚しているのだろう。
「ふう……助かった……」
「ん? どうしたの、富岡君?」
梨々花さんが不思議そうに小首を傾げながら、俺の目の前で足を止めた。
ふわりと、彼女の体温と爽やかなシャンプー、そしてほんのり甘い汗の匂いが混ざり合った心地よい香りが鼻腔をくすぐる。
先ほどまでのカビ臭いような殺気が一気に吹き飛び、視界が急に色鮮やかになったような錯覚すら覚えた。
* * *
「さっきの人たちと何話してたの? 知り合い?」
梨々花さんは、去っていく三人組の背中をちらりと見送りながら尋ねてきた。
あんな偏執的で厄介な連中と知り合いだと思われるのは、俺としても絶対に避けたかった。
俺はとっさに脳内で架空のシナリオを組み立て、冷静な顔をして嘘をついた。
「いや、赤の他人だよ。あの三人は漫才のコントの練習中だったみたいで、それを何となく眺めていたんだ。ネタ合わせが終わったから帰ったみたい」
「えっ……? コント?」
梨々花さんは目を丸くし、パチパチと大きな目を瞬かせた。
「うん。熱量が凄かったな。だから、彼女たちに圧倒されていただけだよ」
「ふーん、こんな暑い中でやってたんだ。物好きだねえ、部屋の中でやればいいのに」
梨々花さんは何の疑いもなくコロコロと笑い、あっさりと俺が即興で作ったストーリーを受け入れてくれた。
彼女の素直さとノリの良さに内心ホッと胸を撫で下ろす。
「熊川さんは、今日は課題か何かで大学に?」
「そうなの! 視覚伝達のパッケージデザインの課題で、追加提出になっちゃってさー。教授に見せてOKもらってきたところ。富岡君は?」
「俺はアニ研の作業確認。ちょうど終わって帰るところだったんだ」
「そっか! じゃあタイミング良かったね。あ、そうだ。すっごく喉乾いてない? ジュース飲む?」
梨々花さんが自販機を指差しながら、無邪気に首を傾げる。
「うん、一緒に飲もう」
俺はポケットから取り出した小銭を自販機に投入し、「どれにする?」と聞いてから、冷たいスポーツドリンクのボタンを2回押した。
ガトン、ガトンと重い音を立てて落ちてきた缶を拾い上げ、一本を梨々花さんに手渡す。
「はい、どうぞ」
「わーい、ありがとう! 富岡君、おごり? やった〜!」
梨々花さんは嬉しそうに缶を受け取ると、冷え切った缶の側面を「冷たーい!」と言いながら自分の頬や首筋に当てた。
濡れた金属の表面が、彼女の滑らかな肌にピタリと密着する。
無防備に晒された白い首筋と、そこを伝う汗のしずくが、夕前の柔らかな日差しを受けてキラキラと輝いて見えた。
思わず目が眩みそうになり、俺は慌てて自分の缶のプルタブを引き、一気にドリンクを喉へと流し込んだ。
キンと冷えた液体が、熱を持った体に染み渡っていく。
* *
「ぷはーっ! 生き返る〜!」
梨々花さんも缶に口をつけ、美味しそうに喉を鳴らして飲み干していた。
少し上気した彼女の薄ピンク色の唇が、ジュースの水滴で潤って艶やかに光っている。
自販機の脇で二人並んでジュースを飲み干し、息をつく。
それだけの単純な動作のはずなのに、隣にいる彼女の存在感がやけに大きく感じられた。
「ねえ、富岡君」
空き缶をリサイクルボックスに捨てた梨々花さんが、くるりと振り返って俺を見つめた。
「この後、もう帰るだけでしょ? もしよかったら、一緒に帰ろうよ」
「……ああ、いいよ」
断る理由なんてどこにもなかった。
* * *
大学の正門を出て、駅へと続く緩やかな坂道を二人で並んで歩き出す。
夕方が近づいているとはいえ、アスファルトにはまだ昼間の熱気がしっかりと残っていた。
だが、通り抜ける風は先ほどより少しだけ柔らかく感じられる。
ふと横を歩く梨々花さんを見ると、彼女は自分の鞄のストラップを両手でギュッと握り締め、楽しそうに歩幅を合わせて歩いていた。
(……そういえば)
俺は歩きながら、ふと自分の置かれた状況について考えた。
縁結びの神様――ククリヒメの突拍子もない引き合わせによって、詩織さんや梨々花さんたちとの奇妙で甘やかな関係……いわゆるハーレムのような状況が始まってから、少しの時間が経つ。
けれど、こうして放課後に梨々花さんと二人きりで、ごく普通の大学生のように並んで歩いて帰るのは、これが初めてだった。
大騒ぎするアニ研の部員もいなければ、他のハーレムメンバーもいない。
ただの『富岡遊技』と『熊川梨々花』として並んで歩く道。
梨々花さんのボーダー柄の服の袖が、歩くたびに俺の腕とすれ違い、かすかな摩擦と温もりを伝えてくる。
「今日の課題、教授に『発想はすごくポップで可愛いけど、文字の配置が甘い!』って怒られちゃってさ〜」
「前に見せて貰ったお菓子のパッケージ案だっけ。俺はあのカラフルなデザインと文字の配列、すごく好きだけどな」
「えっ、本当!? 嬉しい! 富岡君にそう言ってもらえると、すっごく自信つくかも」
梨々花さんはぱあっと顔を輝かせ、無邪気に俺の顔を覗き込んできた。
間近で見る彼女の瞳は澄んでいて、そこに自分の顔が映り込んでいるのがわかる。
距離が近い。
近すぎて、彼女の甘い体温がダイレクトに伝わってくるようだ。
他愛のない雑談を交わしながら歩いているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。
やがて、俺のアパートへ続く路地と、梨々花さんが利用する駅へと向かう道が交差する、大きな木のある分かれ道に辿り着いた。
傾きかけた太陽が、二人の影を伸びやかに路上へ描き出している。
足を止め、俺は梨々花さんに向き直った。
* *
「じゃあ、俺はこっちだから。また――」
「うん。またね、富岡君」
梨々花さんは小さく手を振り、一度は駅の方へ向かって二、三歩歩き出した。
だが――
ピタリと足を止めると、彼女はくるりと振り返った。
夕日のオレンジ色に染まった彼女の顔は、どこか恥ずかしそうに、けれど決意を秘めたように赤くなっていた。
梨々花さんは上目遣いで俺の目をじっと見つめ、小さく唇を開いた。
「……ねえ、お別れのキス、しよっか」
「……え?」
思考が完璧にフリーズした。
お別れの……なんだって?
俺が言葉を失って固まっていると、梨々花さんは「ふふっ」と可愛らしく微笑み、迷いのない足取りで一歩、俺との距離を詰めてきた。
逃げる隙すら与えられない。
彼女は爪先立ちになると、小さく目を閉じ、そっと俺の首元に両手を回してきた。
「ん……っ」
触れ合ったのは、羽毛のように柔らかく、驚くほど温かい感触だった。
さきほどまで冷たい缶ジュースを飲んでいたせいか、ほんのりと甘い果実の味が口内に広がる。
梨々花さんの吐息が熱く俺の頬を撫で、小さく「ちゅっ」と可愛らしい音が夕暮れの路地に響いた。
ほんの数秒間の、けれど永遠のように長く感じられた接吻。
ゆっくりと唇が離れると、梨々花さんは少し顔を真っ赤にしながら、パッと両目を開けた。
「……じゃあね、富岡君!」
それだけ早口で言い捨てると、彼女は恥ずかしさを誤魔化すようにダッシュで駅の方へと走っていった。
パタパタと響くスニーカーの足音が、遠ざかっていく。
俺は分かれ道に取り残されたまま、呆然と自分の唇に指先を当てていた。
そこにはまだ、梨々花さんの柔らかい感触と、熱い体温、そして甘いジュースの余韻が、くっきりと残されていた。
暑い夏の夕暮れ。
冷めない唇の熱を抱えたまま、俺はゆっくりとアパートへの道を歩き始めた。




