第26話 猛暑のキャンパスと敵の待ち伏せ
八月の半ばを過ぎても、太陽は容赦というものを知らなかった。
総合美術大学のキャンパスは、夏休み期間中ということもあって普段よりは人が少ない。
だが、課題や自主制作に追われる美大生の執念のような熱気が、焦げ付くアスファルトの表面からゆらゆらと立ち上っていた。
アスファルトから伝わる熱気がスニーカーの底を通して足を焼き、じっとりと嫌な汗が背中を濡らしていく。
セミのけたたましい鳴き声が、遠くの校舎に反射してグワングワンと耳奥で響いていた。
俺は、首元にハンカチを押し当てながら、アニ研の扉を開けた。
* *
ガラガラと引き戸を鳴らして中へ入ると、途端にキンと冷えたクーラーの冷気が肌を刺す。
外の灼熱とは対照的な、暗がりと冷気の中。
室内には、型落ちの液晶タブレットの排熱と、コーヒーの匂い、そして修羅場特有のどんよりとした空気が満ちていた。
「うー……溶ける。マジで外は地獄だな……」
俺はいつも使っているパイプ椅子を引き、一息つきながら息を吐き出した。
部屋の奥では、同じ制作メンバーの陣内弥太郎と佐々木賢吾が、それぞれのデスクで液晶タブレットに向かい合っていた。
学園祭で上映する予定の自主制作・短編アニメーション。
その打ち合わせと進捗状況の報告が、今日の集まりの目的だった。
* * *
「おお、遊技。来たか……」
弥太郎が明るい髪をガリガリと掻きむしりながら、死んだ魚のような目でこちらを振り返る。
「よくこの猛暑の中、大学まで来られたな……俺なんか朝、家を出た瞬間に引き返そうかと本気で悩んだぞ」
「僕もだ。だが、今日対面で合わせておかないと、作画の進行が破綻する恐れもあるからな」
メガネをかけた知性派の賢吾が、疲れた手つきでメガネのブリッジを押し上げながら言った。
ふたりとも、ここ数日は自宅に引きこもって画面と格闘していたらしく、目の下に薄っすらとクマを作っている。
「それで、進捗はどうだ? 俺の担当分は一通り持ってきたぞ」
俺は持参したUSBメモリをパソコンに接続し、データを共有フォルダへと読み込ませた。
俺が担当しているのは、主に背景美術だ。
青空に浮かぶ夏雲の立体感、公園に差し込む夕日の光彩、そして街並みの遠近感。
もともと絵を描くこと自体は嫌いじゃないし、割り当てられた自分の作業を淡々とこなすのは得意な方だ。
画面上に、俺が制作した背景イラストが次々と映し出される。
さらにそれだけではなく、ここ数日で俺は、弥太郎と賢吾の手が回りきっていなかった一部の動画制作も請け負って仕上げておいた。
ふたりの負担を少しでも減らし、全体の進行をスムーズにするためだ。
* *
「……おいおい、マジかよ」
弥太郎が椅子をガタッと鳴らして立ち上がり、画面に顔を近づけた。
「これ……遊技、お前が一人で描いたのか? 背景だけじゃなくて、俺が投げ出してた街並みのパースまで綺麗に取れてるじゃねえか……!」
「ああ。そのままにしておくと人物の配置が浮いてしまいそうだったからな。手を入れる許可をもらっていた部分は、俺の方で直しておいた」
「すげえ……仕事が早すぎるだろ。しかもこの空気感、プロの作画監督が手を入れたみたいだ」
賢吾もメガネを外して目をゴシゴシと擦り、信じられないといった様子で画面を見つめている。
「全体の色彩設計と、俺たちの描く人物線画との馴染みが完璧だ。これなら背景と人物が解離することなく、一枚の画面としてしっかり噛み合う」
ふたりは息を飲みながら、食い入るようにデータをチェックしていく。
対面で直接画面を突き合わせながら、今後の調整の方向性や、演出上の意図、光の当たり具合についての意志の齟齬がないかを確認していった。
「うむ……素晴らしいな。こうして全体を見てみると細かな微調整は必要だが、このまま進めても問題はないな」
拡大表示した画面の隅々まで確認し終えた弥太郎が、腕を組んで深く満足そうに頷いた。
「遊技のおかげで、俺たちの作画は一気に巻けたぞ。正直、今週中に終わるか怪しいと思ってたんだ」
「助かったよ、遊技。お前がいてくれて本当に良かった」
賢吾もホッとしたように胸をなでおろし、背もたれに深く体重を預けた。
俺自身も、画面全体のバランスを見て大丈夫だと確信していたので、ふたりの評価を聞いて胸を撫で下ろす。
進行具合も、クオリティも、修正点も互いに共有できた。
俺たち三人の作業に関しては、順調そのものと言っていい。
問題があるとすれば――
* * *
「ふぅ……作画の懸念が消えたのはいいんだが……」
賢吾がふと、重苦しい溜め息をついた。
その顔には、先ほどまでの安心感とは打って変わって、暗くどんよりとした陰りが差している。
「それよりも、今日はこの後、女子部屋にも顔を出さなきゃいけないんだよな。はぁ……急に胃が痛くなってきた」
「ああ……そうだったな。女子チームへの素材提出と、進行の擦り合わせか……」
弥太郎も一気にテンションを落とし、デスクの上に突っ伏した。
アニ研の自主制作アニメは、いくつかのチームに分かれて、別々に作品制作が行わ
れている。
弥太郎と賢吾の他にも、女子チームの手伝いをしている者は多い。
手伝いの男子たちは、作った原画や背景素材を定期的に「女子部屋」と呼ばれる彼女たちのたまり場へ持っていかなければならないのだ。
「そんなに憂鬱なのか? 渡すものを渡して、連絡事項を聞くだけだろ」
俺が不思議に思って尋ねると、賢吾が死んだような目で俺を見上げた。
「遊技、お前は女子部屋のあの独特の雰囲気を知っていて、よくそんなことが言えるな……」
「窓口がさ、せめて『オタサーの姫』こと鳴海結衣さんなら、俺たちだって喜んで飛んでいくよ。あの子は愛想もいいし、可愛い笑顔で『ありがとうございます!』って言ってくれる。そうやってコミュニケーションを取っているうちに二人の距離が縮まって、お付き合いに発展する可能性だってあるだろ?」
弥太郎が恨めしそうに天井を見上げる。
「なのに、実際の提出窓口は『ヨッシー』なんだよ……あいつのあの、都合のいい奴隷を見るような目と、まるで悪霊のような雰囲気……思い出すだけで寿命が縮む」
「ヨッシー……か」
確かに彼女は、こちらが少しでも反論すると発狂するタイプだ。
それに大人しい女子といっても彼女のような手合いは、『鬼塚』や『立花』といった面々に気に入られようと、その意向を忖度し過度に攻撃的になる傾向がある。
付き合い辛いのは分かる。
俺は女子チームとはあれ以来、関わっていないので他人事だが、ふたりの怯えようは少し哀れでもあった。
俺はふと浮かんだ素朴な疑問を、そのまま口にしてみる。
* *
「まあ、俺は女子チームとは関係がないから他人事だけどさ……窓口を鳴海さんにするだけでも、助っ人男子の作業効率やモチベーションは格段に上がるのになとは思うぞ」
男なんて単純なものだ。
可愛い女子から感謝されたり、笑顔で接してもらえるなら、多少の無理や残業だって乗り越えられる。
わざわざ魅力のない相手を窓口にして男子の士気を下げるより、愛想の良い鳴海さんを接客担当(?)にした方が、全体としての制作効率は遥かに上がるはずだ。
俺の言葉を聞いたふたりは、一瞬だけ固まり、それから深く溜め息をついた。
「……遊技。それはそうなんだがな」
弥太郎が力なく首を振る。
「あの連中が、それを許すことは絶対にないんだよ」
「なんでだ? 効率のことを考えたら、その方が絶対に得だろ」
「作業効率やクオリティアップ以上に、奴らには譲れない『こだわり』があるからだよ」
賢吾がメガネのフチを指でつまみながら、静かな、しかし重々しいトーンで言った。
「こだわり、とは?」
「自分以外の女がモテることは許せない。見たくない、阻止してやる。……という、歪んだ情念だな」
「情念……」
「そうだよ」
弥太郎が身を乗り出し、ヒソヒソ声で解説を始めた。
「鳴海さんが男子からチヤホヤされるのを、女子グループのメイン層が面白く思うはずがないだろ? もし鳴海さんを窓口にしたら、男子が露骨に鼻の下を伸ばして群がる。それが目に見えてるからこそ、わざわざヨッシーを最前線……じゃなかった、防波堤として配置してるんだよ」
「自分の視界に入る場所で、同性の誰かが得をしたり姫扱いされるのを徹底的に排除する……それが女子グループの持つ謎の政治力学なんだ」
賢吾が遠い目をして付け加える。
「なるほどな……」
俺は心から納得した。
効率や論理を超えたところにある、女社会の複雑な感情とマウントの取り合いがあるようだ。
表向きは仲良く作品を作っているように見えて、裏ではそうした無数の牽制や思惑が渦巻いているのだと思うと、急にぞっとしたものが背筋を走る。
「ああ、それは確かにあるかもな。俺にはわからない苦労がありそうだ」
俺が深く頷くと、打ち合わせはこれでお開きとなった。
「じゃあな、遊技。俺たちはこれから修羅の国(女子部屋)へ行ってくる……無事を祈っててくれ」
「命からがら戻ってきたら、アイス奢ってくれよな……」
遺言のような言葉を残し、弥太郎と賢吾は重い足取りで部室を出て行った。
背中から漂う哀愁が凄まじい。
ふたりを見送った俺は、静まり返った部屋で自分の荷物をまとめた。
部屋の中のクーラーは快適だが、ずっと当たっていると今度は体が冷えてくる。
作業も区切りがついたことだし、俺もそろそろ帰るとしよう。
* * *
外への扉を開けた瞬間。
ぬるりと湿った巨大な熱気の塊が、容赦なく全身に巻き付いてきた。
「ぐっ……あっつ……」
クーラーで冷え切っていた皮膚が、一瞬で熱を帯びて汗が吹き出してくる。
建物から出ると、日差しがあまりにも強烈で、目を細めなければ前が見えないほどだ。
帰路につく前に、冷たい飲み物を買って水分補給をしよう。
俺はキャンパスの影になっている自販機エリアへと向かった。
そこは大きなガジュマルの木と校舎の壁に挟まれたスペースで、建物の陰になっているため、直射日光が当たらず少しだけ涼しい。
セミの声が頭上でシャワシャワと降り注ぐ中、俺はスニーカーの音を響かせて影の中へと入っていった。
自販機から漏れる薄暗い灯りと、冷気の予感。
ポケットから小銭を取り出し、目当てのスポーツドリンクのボタンを押そうとした、その時だった。
――サッ。
建物の深い陰から、ぬっと三つの影が立ち現れた。
あまりにも唐突で、静かな動きだった。
俺は硬貨を握りしめたまま、思わず足を止める。
そこに立っていたのは、アニ研の女子部員たちだった。
だが、ただの部員ではない。
サークル内でも屈指の警戒対象――『デンジャラス・鬼塚』、『アサシン・オザキ』、そして『バッドエンド・立花』の三人だった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
デンジャラス鬼塚は、鋭い目つきで腕を組み、仁王立ちで俺を見下ろしている。
アサシン・オザキは、感情の読めない冷ややかな視線をまっすぐに俺の顔へと向けている。
バッドエンド立花は、癖のある前髪の隙間から、まるで呪いでもかけるかのような重苦しい光を宿した瞳で俺を捉えていた。
三人とも、一切の言葉を発しない。
ただ無言で、示し合わせたかのように、ずいっと一歩前へ踏み出してくる。
じわじわと体を押し潰すような、濃密で逃げ場のない圧迫感。
セミの鳴き声すら、遠のいていくような気がした。
アニ研女子の中でもトップクラスに厄介な奴らが、そろって俺を――殺気すら感じさせる強烈な視線で睨みつけている。
(な……なんだ……!? まさか、こいつら……俺を待ち伏せしてたのか!?)
直前に男子部屋で交わした「女子グループの闇」の話が、脳裏をよぎる。
冷たい自販機の横で、俺は冷や汗が背中から吹き出すのを止められずにいた。
3人の敵意に満ちた視線が、刃のように俺の全身に突き刺さる。
言い知れぬ波乱の予感を残したまま、静まり返った木陰で、時間だけが緊迫して凍りついていた。




