第21話 甘い交渉と、小さな先輩の唇
「……ふんす! とにかく! 富岡君のその歪んだハーレム計画は、私が『大人の魅力』できっちりと更生させてみますからね!」
小さな胸を思い切り張り、キリッとした表情でそう言い放つ小湖乃先輩。
ライトブラウンのゆるふわな髪が肩で揺れ、ダボッとしたカーディガンの萌え袖から覗く華奢な手が、ぐっと力強く握られている。
本人はいたって真剣に「威厳のある大人の先輩」を演じているつもりなのだろう。
だが、その愛らしい容姿も手伝って、どう見ても背伸びをした子供にしか見えなかった。
(……可愛いな、おい)
思わず胸の奥がキュンと温かくなるような愛おしさを覚える。
普段の俺なら、ここで「そうですね。どうかしていました。心配していただき、ありがとうございます」と苦笑いして話を合わせて終わらせていただろう。
だが、この時の俺は、ほんの少しだけ意地悪な好奇心が湧いてしまっていた。
小湖乃先輩が言う「大人の更生」とやらに、ほんの少し興味があったのだ。
そして——
俺の胸の奥で息を潜めていた『ククリヒメ』の呪いが、その小さな出来心を見逃さなかった。
「……そうですか」
俺の口が、勝手に滑らかに動き出す。
「では、白崎先輩のその『大人の魅力』とやらを、俺に見せてください」
静かに、そしてどこか挑発するようなトーンで呟いた俺の一言。
「へっ……!?」
小湖乃先輩は「えっへん」と胸を張っていた姿勢のまま、ピキリと固まった。
* * *
「お、大人の魅力……っ!?」
「ええ。俺のハーレム願望を打ち砕くほどの魅力があるというのなら、是非体験してみたいです」
自分でも呆れるほど不遜なセリフだった。
だが、一度解き放たれた言葉は止まらない。
小湖乃先輩は顔を真っ赤にし、視線をあちこちに泳がせながら、あわあわと両手を振った。
「う、うぐっ……! み、魅力ですか……えっと。その、急に見せろと言われても困るというか……っ!」
「なんだ、口だけですか。なら、俺は予定通りハーレムを作ることにします」
「ま、待ちなさい! やらないとは言ってませんよ、富岡君っ!」
必死になって引き留めてくる小湖乃先輩。
彼女は「うーん」と唸りながら、腕を組んで真剣に考え込み始めた。
そのまま数秒間、沈黙が流れる。
部屋の中に漂う、クッキーの香ばしいバターの匂いと、小湖乃先輩から立ち上る甘いシャンプーの香りが、俺の鼻腔をくすぐった。
やがて、覚悟を決めたように小湖乃先輩が顔を上げる。
「そ、そうですね……! 富岡君がハーレムを諦めて、私一人だけを彼女にすると約束してくれるなら……」
小湖乃先輩は耳まで真っ赤に染め上げ、モジモジと自分の指先を弄りながら、上目遣いに俺を見つめてきた。
「……ほ、ほっぺに、キスしてあげます!」
小さな唇から絞り出された、精一杯の「誘惑」と「ご褒美」。
赤くなった頬と、恥ずかしさで潤んだ瞳が実に可憐で、男としては破壊力抜群の破壊力を持っていた。
だが——
俺の口は冷酷だった。
* * *
「その程度で、男の野望を諦めさせるのは無理なのでは?」
感情の籠もっていない、至って真面目なトーンで素直な疑問をぶつけてしまう。
「えぇーっ!?」
小湖乃先輩はガーンとショックを受けたように目を丸くした。
「ほ、ほっぺにキスだよ!? すっごく特別なことなんだよ!?」
「ですが、俺が目指しているのはハーレムです。ほっぺへのキス一回で諦めるには、少し対価が軽すぎるかと」
「む、むむむ……っ!」
小湖乃先輩は悔しそうに歯噛みをし、再び頭を抱えて唸り出した。
(いや、俺は何を小湖乃先輩と交渉してるんだ……?)
冷静な自分が頭の片隅で突っ込みを入れるが、目の前の小さな先輩の反応が可愛すぎて、止められない。
やがて、小湖乃先輩が「もうっ!」と投げやり気味に叫んだ。
「じゃ、じゃあ……っ! お、おっぱいを……触らせてあげるっていうのは、どうでしょうか!?」
「……っ」
予想外すぎる交渉材料の投下に、今度は俺の方が息を飲んだ。
小湖乃先輩は顔から火が出そうなほど真っ赤になり、ダボダボのカーディガンの袖で顔の半分を隠している。
だが、その隙間から覗く目は、真剣そのものだった。
薄手のカーディガンの下、小さな体躯に包まれた胸元へと、俺の視線が自然と吸い寄せられる。
華奢な肩と、柔らかそうな胸のふくらみ。
(う……これは、正直かなり心が揺らぐ……)
人としての倫理観が激しく警報を鳴らし、これ以上の交渉は危険であると知らせてきた。
だが、ここで素直な声を発してしまうのが、俺の「呪い」の恐ろしいところだった。
「……そうですね。少し心は揺らぎますが、まだまだ弱いですね」
「えぇーっ!? おっぱいだよ!? 触っていいんだよ!?」
「ええ。ですが、夢を諦めるんですから、先輩にはもっと高いハードルを超えていただかないと」
「もっとしなきゃダメなの……!?」
そこから、謎のご褒美交渉のエスカレートが始まった。
* * *
「じゃあ、抱きつきながら一晩中一緒に寝てあげるのは!?」
「惜しいですが、まだ届きません」
「じゃ、じゃあ……一緒にお風呂に入るのはっ!?」
「目のやり場に困りそうですが、あと一歩ですね」
熱を帯びていく小湖乃先輩の提案と、それを淡々と跳ね返す俺。
小湖乃先輩も最初は照れに照れていたはずなのに、次第にこの仮定のゲーム(駆け引き)に熱が入ってきたらしい。
そして、不毛な交渉を何度か繰り返した結果。
「……結論として、白崎先輩とセックスできたとしても、俺はハーレム(シオンさん)を捨てることはできませんね」
俺が真顔でそう言い放つと、小湖乃先輩は「ぷ~」と頬を風船のように膨らませてむくれた。
「えーっ! 何よ、それ! そんなのどうしようもないじゃない。むきー!」
ローテーブルをぽこぽこと叩きながら抗議してくる。
その可愛らしい仕草を見ていて、俺はふと正気に戻った。
(……待てよ?)
いま、小湖乃先輩は「自分一人を彼女にするなら」「おっぱいを触らせる」「セックスさせる」という条件を、恥ずかしがりながらも提示してくれていたのだ。
いくら仮定の話とはいえ、そこまで言わせるということは——。
俺は姿勢を正し、少し真面目な声トーンで尋ねた。
「あの……白崎先輩」
「ん、なに? まだ何か文句があるの?」
「勢いとノリで色々言いましたけど……白崎先輩は俺と、本気で付き合いたいと思っているんですか? ――つまり、俺のことが好きだと?」
「……えっ?」
小湖乃先輩の動きがピタリと止まった。
* * *
膨らんでいた頬がしゅ〜っと萎み、一瞬で顔全体に赤熱が広がっていく。
彼女は視線を泳がせ、カーディガンの裾をぎゅっと握りしめた。
「そ、それは……っ」
「……」
無言で返事を待つ俺。
小湖乃先輩はモジモジと身体を揺らし、蚊の泣くような声で呟いた。
「……改めて聞かれると、すっごく照れるけど……。そ、そうじゃなきゃ……こんなこと言わないよ……」
「……え?」
「嘘じゃないよ……っ! 富岡君のこと……結構前から、いいなって思ってたんだから……っ!」
小さく、だがはっきりと紡がれた言葉。
それは、紛れもない告白だった。
ドクン、と胸が高鳴る。
同じ大学の可愛い先輩から、そんなストレートな好意を向けられていたなんて。にわかには信じがたい現実だった。
(嘘だろ……俺、本当にモテ始めてるのか……?)
脳内が甘い混乱に包まれる。
そして、その浮足立った感情に乗じて、俺の口が再び暴走を始めた。
「……じゃあ、その。キスしてもらってもいいですか?」
言った瞬間、自分の頭を殴り飛ばしたくなった。
告白された途端に調子に乗って何をつまみ食いしようとしているんだ、俺は。
小湖乃先輩も「えぇっ!?」と目を丸くした。
* * *
「それはダメだよ! ハーレムを諦めて、私と付き合うって決めてからじゃないとダメ!」
「そこを何とかお願いします。キスだけですから」
後悔とは裏腹に、俺の身体は勝手に動いていた。
彼女に接近し、身をぐっと乗り出して小湖乃先輩へと顔を近づける。
「わ、ちょっと……富岡君、近い……っ!」
距離が一気に縮まる。
間近で見る小湖乃先輩の顔は、熟したトマトのように真っ赤だった。
小さな鼻から漏れる「ふぅ、ふぅ」という荒い吐息と、甘いお菓子の匂いがダイレクトに伝わってくる。
「……ダメですか?」
俺が至近距離でまっすぐに見つめると、小湖乃先輩は「うぐっ」と胸を押さえた。
潤んだ瞳で俺を見つめ返し、小さく肩を震わせる。
押しに弱い彼女は、ついに抵抗を諦めたように目を細めた。
「……えー、もー……仕方ないなぁ……」
ぽそりと漏らされた、甘く溶けた声。
「ほんとに……キスだけだからね……?」
そう言って、小湖乃先輩はゆっくりと目を閉じ、小さな唇を少しだけ突き出した。
その可憐な姿に、俺の理性のタガが外れる。
俺は両手を伸ばし、小湖乃先輩の華奢な肩を優しく抱き寄せた。
カーディガン越しでもわかる、柔らかく温かな身体の感触。
ゆっくりと顔を近づけ——
彼女の唇に、自分の唇を重ね合わせた。
* *
「……んっ」
小湖乃先輩の口から、小さく可憐な水音が漏れる。
触れ合った唇は驚くほど柔らかく、温かかった。
先ほど食べたクマさんクッキーの香ばしいバターの風味が、ほのかに口内に広がっていく。
数秒間。
時が止まったかのような甘い静寂の中で、お互いの呼吸と体温が混ざり合う。
ゆっくりと唇を離すと、小湖乃先輩はうっとりと目を開け、ボーッとした表情で俺を見つめていた。
その唇は、ほんのりと濡れて赤く光っている。
「……ふはぁ。き、キス……しちゃった……」
ぽわんとした顔で自分の唇に指を当てる小湖乃先輩。
そのあまりの可愛さに限界を迎えた俺は、「それじゃ、今日はこれで失礼します!」と捨てゼリフのように吐き捨てると、逃げるように203号室を飛び出した。
バン、とドアを閉める。
* * *
廊下にでると、夕暮れの光が眩しく差し込んでいた。
(やばい……俺、本当に白崎先輩にキスしちゃったぞ……っ!)
心臓が壊れた時計のように激しく脈打っている。
頬の熱が引かないまま、俺は自室である201号室へと足を向けた。
その時だった。
キシ、キシと階段を上ってくる足音が響いた。
上がってきたのは、大きな伊達メガネにダボッとしたパーカー姿の少女——
隣の部屋に住む詩織さんだった。
「あ、富岡さん」
詩織さんは俺に気づくと、パッと表情を明るくして話しかけてきた。
だが、俺が203号室(小湖乃先輩の部屋)の前から歩いてきたことに気づくと、ピクリと眉をひそめた。
「あれ……? 富岡さん、白崎先輩の部屋にお邪魔していたんですか?」
首を傾げて尋ねてくる詩織さん。
いつもの地味な格好をしていても、その瞳は透き通るように美しい。
俺にとって、一番大切なのは「シオンさん」だが、彼女はどこかその心に決めた人を思わせる女性だ。
罪悪感と動揺で、脳がオーバーヒートを起こしそうになる。
(落ち着け……『白崎先輩にクッキーをご馳走になっていました』とでも言えば——)
思考をまとめ、声を発しようとしたその瞬間。
『ククリヒメ』の呪いが、今日一番の最悪なタイミングで発動した。
「ああ……実は、白崎先輩からハーレムを諦めたら付き合ってあげると言われて」
スラスラと、余計な一言どころではない爆弾が俺の口から飛び出した。
* *
「えっ……ええっ!?」
詩織さんの動きが、完全に凍りついた。
夕暮れの廊下に、不穏な静寂が落ちる。
次の瞬間、詩織さんの大きな伊達メガネの奥の目が、カッと見開かれた。
「ハ、ハーレム……!? 白崎先輩と付き合う……!?」
普段の穏やかな詩織さんからは想像もつかない、素の混乱と焦りが混ざった大きな声。
「何がどうなったら、そんな話になるのかしら? ……富岡さん! 一体どういうことですか!?」
「あ、いや、これは言葉のあやというか——」
「言い訳は後です! 詳しく説明してください!」
ガシッと、強い力で俺の手首が掴まれた。
「うわっ!?」
華奢な身体のどこにそんな力があるのかと思うほどの力で引きずられ、俺はそのまま隣の202号室(詩織さんの部屋)へと連れ込まれてしまった。
ガチャリ、と鍵が閉まる重い音が響く。
夕闇が深まる部屋の中で、怒りと動揺に揺れる詩織さんの瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。




