第20話 男たちの現実と、小湖乃先輩の更生計画
隣に住む天使——
詩織さんの手料理で胃袋を満たされ、スケッチブックを通じて心まで完全に浄化された翌朝。
俺は実に爽快な気分で布団から起き上がり、大学の講義へと向かった。
午前と午後の講義を順調に消化し、キャンパスに西日が差し込む頃。
俺の足取りは、再び重くなり始めていた。
(……はぁ、気が重いな……)
目的地は、総合美術大学の映像・メディア表現棟にある『アニメ研究会』の活動拠点だ。
昨日、オザキちゃんや鬼塚、ヨッシー、そしてバッドエンド立花から受けた理不尽な暴言と暴力の記憶が、再び胃の奥をちくちくと突いてくる。
だが、ここで行くのをやめてしまえば、あいつらに負けた気がして腹が立つ。
それに、学園祭に向けた自主制作アニメの作業も進めなければならない。
何より、アニ研の男子部屋と女子部屋は完全に別だ。
あいつらのいる女子部屋にさえ近づかなければ、平和に作業ができるはずだ。
俺はため息を一つ吐き出し、部室棟の渡り廊下を進んだ。
* * *
だが、世の中そう都合よくはいかないらしい。
「……来たな、富岡遊技――待っていたぞ」
女子部屋へと続く廊下の陰から、ぬっと人影が現れた。
黒髪のボブカットに、影のある暗い瞳。
昨日の今日で完全にトラウマになりかけている顔——バッドエンド立花だった。
(しつこいな……何なんだ、こいつは……?)
俺は思わず足を止め、警戒を露わに身構えた。
立花はドシドシと力士のような足取りで近づいてくると、俺の目の前でピタリと足を止めた。
そして、怨念の籠もった重い眼差しで、俺を真っ直ぐに見つめてくる。
「おい、お前……。私を振ったこと、絶対に後悔させてやるからな。……フハハハハハっ、その時が楽しみだぜ」
「……は?」
俺が反論する隙すら与えず、立花はそれだけを吐き捨てると、回れ右をして立ち去った。
静まり返った廊下に、俺一人取り残される。
(振ったこともなければ、付き合った覚えすら一度もないんだが……)
相変わらずの支離滅裂な被害妄想に呆れ果てるが、これ以上深く考えても精神をすり減らすだけだ。
俺は「関わらないのが一番だ」と割り切り、隣にある男子部屋のドアノブに手をかけた。
ガラガラとドアを開けると、そこには異様な熱気が満ちていた。
* * *
パイプ椅子を突き合わせ、密談するように顔を寄せ合っている三人の男たち。
同じ二年生の陣内弥太郎と佐々木賢吾、そして三年生のハカセだった。
「あ、遊技。お疲れー……」
弥太郎がゲッソリとした顔で俺に気づき、弱々しく手を挙げた。
メガネをかけた賢吾も、心なしかいつもより眉間のシワが深い。
「……よお。みんな早いな」
「まあ座れよ、遊技。今、ハカセからありがたい『世界の真理』について講義を受けていたところだ」
賢吾が隣のパイプ椅子をぽんぽんと叩く。
俺は言われるがままそこに腰を下ろした。
首にゴツいヘッドホンをかけ、ひょろっとした体型に丸メガネをかけたハカセは、俺が座ったのを確認すると、指線をツッと押し上げた。
「……いいか、富岡君。昨日、僕たちが目撃したあれこそが『現実』なんだ」
ハカセが重々しい口調で語り始める。
「現実……?」
「そうだ。Webの小説投稿サイトなどにはよくあるだろう? 『男女比1対100の世界に転移した』だの、『男が極端に少ない世界で学園生活を送る』だのといった、都合のいいハーレムラブコメが!」
ハカセは身振り手振りを交えて早口でまくし立て始めた。
「僕も密かに夢見ていた時期があったさ! 男が貴重な世界で、大勢の女子にちやほやされ、奪い合われる甘美な日常を! だが、甘い! 甘すぎる! 実際の女子の集団というものはだな、男を立てるどころか、マウントと嫉妬と理不尽な欲望の渦なんだよ!」
「「「……深く同意」」」
俺と弥太郎、賢吾の三人は、思わず声が見事に重なった。
昨日のアニ研女子部屋で繰り広げられた、地獄のような光景が脳裏に蘇る。
「男が少ない世界なんてものは、男にとってのパラダイスではない……! ただの『都合のいい労働力』兼『ストレス解消のサンドバッグ』にされる地獄の世界なんだ! フィクションの甘い幻想に騙されてはいけない!」
メガネの奥の目をギラつかせ、熱弁を振るうハカセ。
「ハカセ……アンタも甘い夢を見て、女子チームの手伝いを引き受けたんだな。だが、女の集団に男が飛び込んでも碌なことはない」
弥太郎が目頭を押さえながら頷く。
「ああ、ラノベを鵜呑みにしたバカは、俺だけじゃなかったんだな」
賢吾も静かにメガネをかけ直した。
この日は誰一人として作業を進行させることはなかった。
男四人で共通のトラウマを語り合い、互いの傷を舐め合うだけの不毛な時間が過ぎていく。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
同じ痛みを分かち合える仲間がいるというのは、それだけで少し心が軽くなるものだ。
「今日はもう帰ろうぜ。絵を描くテンションじゃねえや」
弥太郎の提案に誰も反対せず、俺たちは早々にアニ研を撤収することにした。
* * *
夕闇が深まる街を歩き、我が家である安アパートへと辿り着く。
キシキシと軋む古びた屋外階段を上り、二階の廊下へ足を踏み入れたときだった。
ガチャリ、と。
一番奥にある203号室のドアが開き、小柄な人影が外へと出てきた。
ライトブラウンのゆるふわウェーブ髪を揺らし、実年齢よりもずっと幼く見える可愛らしい容姿。
同じアパートに暮らす一学年上の先輩、白崎小湖乃さんだった。
「あー! 富岡君! いいところであった!」
小湖乃先輩は俺の姿を認めるやいなや、ぱっと表情を輝かせた。
萌え袖になった薄手のカーディガンをパタパタさせながら、小さく駆け寄ってくる。
「聞きたいことがあったんだけど、これから時間ある?」
「ええ、大丈夫ですよ。今帰ってきたところなので」
俺がそう答えた瞬間だった。
「よしっ! じゃあちょっと入って!」
「うわっ……!?」
ぐいっと、力強い手つきで袖口を引っ張られた。
華奢に見えて、油絵科でキャンバスを運んでいるだけあって意外と力が強い。
抵抗する間もなく、俺はそのまま203号室の部屋の中へと引きずり込まれた。
* *
パタン、とドアが閉まる。
小湖乃先輩の部屋に入るのは、以前下着姿の人物画を描かされて以来だ。
部屋の中には、油絵の具とオイルの独特な甘い匂いに混ざって、焼きたてのお菓子のような香ばしい匂いが漂っていた。
「まぁまぁ、そこに座って! 今お茶淹れるからね!」
小湖乃先輩は小さな体をすばしっこく動かし、ローテーブルの前に俺を座らせると、キッチンへと向かった。
出されたのは、温かい緑茶と、小皿に盛られた可愛らしいクマの形をしたクッキーだった。
「これ、私が焼いたの。召し上がれ!」
「……いただきます。手作りですか、すごいですね」
クッキーを一口かじる。
サクッとした軽い食感と共に、バターの素朴な甘みが口いっぱいに広がった。お菓子作りが趣味なだけあってかなり美味い。
お茶を一口飲んで一息ついたところで、俺は切り出した。
* * *
「それで……話というのは何ですか、白崎さん?」
すると、小湖乃先輩は急に真面目な顔つきになった。
腕組みをして、ふんすと小さな鼻息を荒くし、俺を凝視してくる。
本人は「大人っぽい先輩」を演じているつもりなのだろうが、ゆるふわな髪と幼い顔立ちのせいで、背伸びをしている子供のようにしか見えない。
「あのね、富岡君。私、変な噂を聞いたの」
「噂……ですか?」
「うん。富岡君って……『ハーレムを作ろうとしてる』んだって? 大学の女学生の間で、そんな話が出回ってるの。それって、本当なの?」
真剣な瞳で問い詰めてくる小湖乃先輩。
(噂って……あの女子たちの妄想が、もうそこまで広まってるのか……)
呆れ返ると同時に、心の中の99パーセントが「そんな事実無根の噂、全力で否定しよう」と叫んでいた。
だが、目の前で一生懸命に「大人の先輩」として俺を正そうと躍起になっている小湖乃先輩の姿を見ていると、残り1パーセントの出来心が、むくむくと顔をもたげてきた。
真面目に否定するより、少し話を合わせてみた方が面白いのではないか。
そんな俺の出来心を――
胸の奥で『ククリヒメ』の呪いが、勝手に言葉にしてしまう。
「……はい。実は、そうなんです」
「ええっ……!? ほ、本当だったの!?」
小湖乃先輩が目を見開いて絶句する。
俺はわざとらしく頷いてみせてから言葉を続けた。
* *
「心に決めた人はいるのですが……俺の周囲には魅力的な女性が多すぎて。こうなったらいっそ、その全員と付き合ってしまえばいい、と考えるに至りました」
寡黙なトーンで、ボソッと告げたその言葉。
それは半分は冗談だったが、半分は「シオンさんが一番だが、目の前の小湖乃先輩も含めて周りの女子が魅力的すぎる」という、俺の偽らざる本音でもあった。
小湖乃先輩は顔を真っ赤にし、金魚のように口をぱくぱくさせた。
「な、なに言ってるの富岡君……! 全員と付き合うなんて……そんなの、そんなのダメに決まってるでしょ……っ!」
「ダメでしょうか?」
「ダメに決まってるよ! だって……心に決めた人がいるんでしょ?」
小湖乃先輩は視線をあちこちに泳がせ、胸元で自分のカーディガンの裾をぎゅっと握りしめた。
そして、何か大きな勘違いの渦に飲み込まれたように、ハッと目を見開いた。
「……あっ! そ、そうだったんだ……。富岡君、そこまで私のことを好きになってしまっていたなんて……っ」
「……?」
予想外の方向へ飛んで行った言葉に、俺は思わず首を傾げた。
小湖乃先輩は真っ赤な顔のまま、うんうんと一人で勝手に深く頷いている。
「大人っぽくて魅力的な私のことが好きだけど、他にも好きな人がいる……。だから誰か一人を選べなくて、ハーレムなんて考えて悩んでいたのね……!?」
(微妙に……いや、かなり違うんですが)
俺が真に好きなのはシオンさんだ。
だが、ここで小難しい訂正をして、目の前の先輩のプライドや乙女心を傷つけるのも野暮というものだろう。
実際、小湖乃先輩が十二分に魅力的で、男として惹かれる部分があるのは事実なのだから。
俺は否定せず、静かに言った。
「……否定はしません」
「やっぱり……っ!」
小湖乃先輩はポンと自分の胸を叩き、キリッとした表情で俺を見つめ返してきた。
「ハーレムなんて絶対にいけません! 富岡君のその歪んだ考えは、私が『大人の魅力』でたっぷりと更生させてみますからね!」
胸を大きく張って、堂々と宣言する小湖乃先輩。
その幼く可愛らしい容姿と、「大人の魅力」という言葉のギャップに、俺は思わずクスリと笑いそうになるのを必死で耐えた。
「……できますかね? 白崎先輩」
「ふふん、お姉さんの魅力を甘く見ないことね! 必ず更生させてげるわ!」
こうして、同じアパートに住む小さな先輩による「更生計画」が始まったのだった。




