第19話 天使のヒーリング
「ごちそうさまでした。……本当に美味しかったよ、鷹司さん」
俺が湯呑みを置くと、詩織さんは嬉しそうに目元を和らげ、小さく頷いた。
「お粗末様でした。富岡さんに喜んでもらえて、作った甲斐がありました」
温かい肉じゃがとお味噌汁が胃に収まり、アニ研の女子部屋という戦地で負った精神的ダメージはあらかた洗い流されていた。
狭い部屋の中に漂うのは、出汁の優しい香りと、詩織さんが纏う清潔な石鹸の匂いだけだ。
食後の落ち着いた空気が流れる中、詩織さんは何かを思い出したように、部屋の隅に立てかけられているキャンバスへ視線を向けた。
「あ、そうだ……富岡さん。熊川さんと栃谷さんから『進捗を見てきて』って言われていたんですけれど……二人の絵、見せていただいてもいいですか?」
大きめの黒縁メガネの奥で、彼女の瞳が興味津々に揺れていた。
「ああ、構わないよ。ちょうど誰かに見てもらって、感想が欲しいと思っていたところなんだ」
俺は立ち上がり、壁際に置いてあった大きめのキャンバスを二つ持ち上げると、イーゼル代わりに机に立てかけて、詩織さんに見えるように向けた。
そこに描かれているのは、キャンバスの中で鮮やかに息づく二人の姿だ。
カジュアルなデニム姿で弾けるような笑顔を見せる梨々花さんと、スタイリッシュなパンツスタイルで男勝りな笑みを浮かべる瑠以さん。
美大で鍛えた色彩感覚とデッサン力を注ぎ込み、二人の持つ独特の空気感と魅力を余すところなく捉えた作品だった。
* * *
「わぁ……っ」
詩織さんは思わずといった様子で小さな歓声をあげ、身を乗り出した。
ダボっとしたグレーのパーカーの袖口から白く華奢な指先をのぞかせ、うっとりとキャンバスを見つめる。
「すごい……本当に二人の魅力を表現できていますね。栃谷さんのクールなかっこよさも、熊川さんのパッと周りを明るくする可愛さも、全部そのまま描かれていて……流石ですね、富岡さん」
素直に感嘆の声を漏らす詩織。
だが、二人の描き込みや表情の細やかさをじっくりと観察するにつれて、彼女の表情がわずかに変化していった。
感心していたはずの目が、どこか細められ、小さく眉が寄っていく。
(……ん? どうしたんだ……?)
詩織は腕を組み、ぷくっと頬をほんの少しだけ膨らませると、チクリとしたトゲのある声で言った。
「う~ん……まあ、よく描けてますね。……でも、ちょっと気合を入れすぎなんじゃないですか?」
「え……?」
「学校の課題もあるでしょうに、そっちは大丈夫なんですか? 学生の本分をないがしろにして、趣味にうつつを抜かすというのは、あまり感心しませんけど」
ツンとそっぽを向きながら、まるで厳しい委員長のように苦言を呈してくる詩織さん。だが、その声にはどこか落ち着かない揺らぎがあり、伊達メガネの奥の瞳は泳いでいた。
(ひょっとして……嫉妬、しているのか……?)
いや、まさか。
――でも、瑠以さんや梨々花さんと仲が良いからこそ、俺が二人の絵ばかりに情熱を傾けているように見えて、面白くないのだろうか。
俺が彼女の真意を量りかねて沈黙していると、詩織さんは視線を巡らせ、部屋の押し入れの中にまだ重ねて置かれている他のキャンバスへと目を向けた。
「他にも新しい絵がありますね……シオンさんの似顔絵以外にも、まだ描いてるんですか? 拝見しますよ」
「あ、いや、それは――」
俺の同意を得る間もなく、詩織はすっと立ち上がると、長いスカートの裾を揺らして壁際へと歩み寄った。
そして、重ねてあったキャンバスの一枚を、迷いのない手つきで手に取った。
* *
「わっ……!? こ、これは、白崎さん……!?」
キャンバスを表に向けた瞬間、詩織さんの声が素っ頓狂に裏返った。
そこに描かれていたのは、油絵科の先輩であり、このアパートの隣室に住む白崎小湖乃さんの姿だ。
しかも、描かれていたのは――
レースのあしらわれた薄桃色のセクシーな下着に身を包み、少し困ったような、けれど庇護欲をそそる上目遣いでこちらを見つめているスケッチだった。
以前、小湖乃先輩に頼まれて大人っぽい下着姿を描いたものだ。
詩織さんは顔をみるみる真っ赤にし、キャンバスを抱えたまま固まっていた。
「な、なんですか、このセクシーな下着は……! こ、こんな妄想を絵にするなんて、まったく、富岡さんは……っ!」
メガネの奥で目を三角にし、むすーと息を吐きながら俺を睨みつけてくる。
「いや、これは妄想じゃなくて、先輩に頼まれて――」
「言い訳は結構です! 富岡さんは助平です! エッチです!」
俺の弁明をバッサリと切り捨てると、詩織さんは怒気を含んだ動作でそのキャンバスを脇に置いた。
* * *
残るキャンバスはあと二枚。
一枚は、以前彼女に見せた清楚な衣装を着せた『シオンさん』を描いたもの。
それについては知っているため、詩織さんはチラリと視線を送っただけでスルーした。
そして、最後に残ったキャンバスへと手を伸ばす。
それを手に取り、表面に描かれた絵を目にした瞬間――。
詩織さんの動きが、ピタリと止まった。
部屋の中に、シーーーンと静まり返った沈黙が落ちる。
「えっと……、これは……」
詩織の小さな呟きが、静寂に落ちた。
彼女の手の中にあるキャンバス。
そこに描かれていたのは――
繊細な筆致で捉えられた、一人の少女の日常だった。
派手なメイクも、着飾ってもいない。
黒髪を後ろで一つに結び、大きめのメガネをかけ、ダボっとしたパーカーを着て、照れくさそうに微笑んでいる姿。
どこからどう見ても、鷹司詩織その人だ。
「これ……わたし……ですか……?」
詩織さんの声が震えていた。
キャンバスを見つめる彼女の耳朶が、まるで熟したイチゴのように赤く染まっていくのが目に見えて分かった。
動揺を隠しきれない様子でメガネのブリッジを何度も押し上げ、視線をあちこちに泳がせている。
「へ、へぇ~……そうなんですね。あっ、そうか! 栃谷さんや熊川さんの絵を描いた手前、気を効かせて私のことも……そうか、そうなんですね!?」
詩織さんは自分を納得させるように、必死に早口で言葉を叩きつけた。
俺が「義理」や「ついで」で描いたのだと決めつけることで、跳ね上がる心拍数と照れくささを必死にごまかそうとしているのだ。
顔を真っ赤にしながら、パタパタと手で顔を仰ぐ姿は、どう見ても可憐な少女そのものだった。
(……別に、彼女の言う通り『ついでだよ』と流しておいてもいい場面だ)
だが、俺の胸の奥で、またしても『ククリヒメ』の呪いが、そして俺自身の本心が静かに熱を帯びた。
* * *
こんなにも愛らしく、俺のために手料理を作ってくれ、他の女子の絵に嫉妬する可愛い彼女に対して、誤魔化しや嘘をつく必要などなかった。
「――いや、この絵を描いたのは、『ついで』なんかじゃない」
俺は静かに、けれどはっきりとした声で言った。
「え……?」
詩織さんがハッと息を呑み、泳いでいた視線を俺へと戻す。
俺は真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ、隠すことなく言葉を重ねた。
「熊川さんや栃谷さんのついでに描いたわけじゃないんだ。俺が……君のことを魅力的だと思ったから、描いたんだ。この気持ちは嘘じゃない」
微かな沈黙。
俺の言葉が、まっすぐに彼女の胸に届いたのが分かった。
詩織の頬が、それまで以上にカッと熱を帯びる。
胸元で抱えたキャンバスをぎゅっと握りしめ、指先が白くなるほど力を込めていた。
「そ、そんなこと言ったって……だ、騙されませんよ……っ」
消え入るような声で言いながらも、彼女の瞳は潤み、激しく揺れていた。
しかし、言葉だけでは、自己評価の低い彼女のガードを崩しきれない。
俺は無言で立ち上がると、作業机の引き出しから冊のスケッチブックを取り出した。
「嘘じゃない。これを見てくれ」
「え……?」
俺はスケッチブックを開き、詩織さんの手元へと差し出した。
* * *
そこに描かれていたのは――
何ページにもわたって描き溜められた、あらゆる『鷹司詩織』の素描だった。
今夜のように肉じゃがを持ってきて照れている顔。
アパートの廊下で鉢合わせて驚いている顔。
美味しそうにご飯を食べて柔らかく微笑む顔。
そして、ちょっとしたことで眉をひそめて怒ったり、むくれて拗ねたりしている顔。
ここ数ヶ月間、俺が隣人である彼女の姿を、どれだけ観察し、愛おしく思ってペンを走らせていたかが、その数多の線から溢れ出ていた。
「ええ……っ!? こ、こんなにたくさん……!?」
詩織さんはページをめくる手が止まらなくなり、目を見開いて絶句していた。
パラパラとめくられるスケッチブック。
そこに刻まれた自分の姿の多さに、彼女はついに耐えきれなくなったように顔を覆いかけた。
「あ、あの……でも! この怒ったり拗ねたりしている絵なんか、残して欲しくないんですが……っ! 恥ずかしすぎます……!」
顔を真っ赤にして抗議してくる詩織さん。
だが、俺は首を横に振った。
「何を言う。そこが可愛いんじゃないか」
ボソリと、何でもないことのように本音を告げる。
「ッ~~~~~~~!!」
詩織さんの口から、声にならない悲鳴が漏れた。
頭から湯気が出そうなほど真っ赤になり、彼女はついに降参したようにガクリと肩を落とした。
「も、もう……っ! 富岡さんは、本当にズルいです……っ」
降参の意を示すように小さな溜息をつき、詩織さんはスケッチブックをそっと閉じた。
そして、上目遣いで俺を睨みつけるように見つめると、消えそうな声で言った。
「……まあ、別に残しておいても良いですが……。でも、絶対、人に見せちゃダメですからね? 約束してください」
「わかった。この絵は君にしか見せない」
俺がそう約束すると、詩織さんはホッと胸を撫で下ろし、恥ずかしさに耐えかねたように早足で玄関へと向かった。
「そ、それでは! 私、もう戻りますね! ご、ごちそうさまでした……じゃなくて、お邪魔しました!」
バタバタと慌ただしく靴を履き、逃げるようにドアを開けて202号室へと帰っていく詩織。
パタンとドアが閉まり、静寂が戻った部屋の中で、俺はぽつんと一人取り残された。
けれど、胸の中には温かい余韻だけがしっかりと残っていた。
その後、俺はゆっくりとお風呂に入り、冷えた体を温めた。
丁寧に歯を磨き、布団を敷いて寝床を整える。
アニ研でのあの凄惨で不快な一日が、まるで遠い昔の出来事のように思えた。
お隣の天使がくれた肉じゃがの味と、真っ赤になって照れていた彼女の可憐な姿が、俺の荒んだ心を完全に浄化してくれていた。
「……ふぅ」
電気を消し、布団に潜り込む。
まぶたを閉じると、スケッチブックを見つめて真っ赤になっていた詩織さんの笑顔が脳裏に浮かんだ。
明日からの大学生活も彼女がいれば、きっと悪くない。
俺は深い安らぎと幸福感に包まれながら、気持ちよく深い眠りについた。




