第18話 傷心の帰還兵と、彼女への告白
アパートの階段を上り終えた時、足が鉛のように重かった。
安アパートの二階、一番東側に位置する自室——201号室。
鍵を差し込んでドアを開け、真っ暗な部屋の中に滑り込むと、俺はそのまま玄関のたたきに崩れ落ちそうになった。
(……はぁ……死ぬかと思った……)
カバンを床に放り投げ、暗がりの中で深くため息をつく。
アニ研の女子部屋から命からがら逃げ出し、いつもの男子部屋の定位置に着席し、何をするでもなく弥太郎と賢吾と無言で座り続けてから帰ってきた。
家に着く頃には、すっかりあたりは漆黒の闇に包まれていた。
みぞおちの辺りを手でさする。
鬼塚に叩き込まれた腹パンの痛みは引いたものの、あの空間に漂っていた理不尽な悪意と圧迫感のせいで、胃の奥が雑巾でも絞られたように重苦しく痛んでいた。
* *
明かりもつけず、ただ暗闇の中で呼吸を整える。
その時だった。
トントン、と。
静まり返った玄関のドアを、控えめに叩くノック音が響いた。
「っ……!?」
俺の背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。
心臓が跳ね上がる。
あまりの恐怖に、一瞬で全身の毛穴が開くような感覚があった。
(まさか……あの連中の誰かが、家まで追ってきたのか……!?)
脳裏に、涙目になりながら奇声を上げていたヨッシーや、手首を押さえながら「復讐してやる」と呟いていたバッドエンド・立花の凄惨な顔がよみがえる。
連絡先は渡していないはずだが、アニ研のネットワークか何かで住所を割り出されたのだろうか?
もしくは、帰り道をつけられていたのかもしれない。
俺は足音を殺しながらそっと玄関に近づき、ドアスコープに恐る恐る目を寄せた。
スコープの丸い視界の中に映っていたのは——。
「……富岡さん? 明かりがついていないみたいですけど……お留守ですか……?」
小さく首を傾げ、不安そうにドアを見つめる一人の少女の姿だった。
大きめの黒縁メガネ。
黒髪を後ろで一つに結び、ダボッとしたグレーのオーバーサイズのパーカーにロングスカート。
胸元には、薄いピンク色のエプロンが可愛らしく掛けられていた。
隣の202号室に住む、鷹司詩織だった。
* * *
「ふぅぅぅ……っ」
俺は全身の力を抜き、安堵のあまりドアに額を押し当てた。
心臓のバクバクという高鳴りが、ようやく落ち着きを取り戻していく。
ドアチェーンをかけたまま、ゆっくりとドアを数センチだけ開けた。
「……鷹司さん」
「あっ、富岡さん! よかった、ご在宅だったんですね」
隙間から顔を覗かせると、彼女はパッと表情を明るくさせた。
メガネの奥の目が嬉しそうに和らぎ、小さく胸を撫で下ろしている。
その瞬間、隙間からふわりと甘い香りが漂ってきた。
それは彼女がいつも身に纏っている石鹸のような清潔な匂いと、甘辛い醤油と出汁の混ざり合った、たまらなく食欲をそそる家庭的な匂いだった。
「すみません、暗かったのでお休み中かと思って……」
「いや、今帰ってきたところで、明かりをつける前だったんだ。……どうかした?」
俺が尋ねると、詩織さんは少しだけ頬を赤く染め、抱えるように持っていたプラスチックのタッパーをきゅっと胸元で握りしめた。
ダボついたパーカーの袖口から、白く華奢な指先がちょこんと覗いている。
「あの……その、夕飯のおかずを、ちょっと作りすぎてしまいまして。……もし良ければ、おすそ分けしようかなって」
「おかずを……?」
帰りが遅くなったこともあり、今夜の夕食のことなど全く考えていなかった。
胃は痛むものの、お腹自体はペコペコだ。
ありがたい申し出に、俺は素直に頷いた。
「助かるよ、鷹司さん。鍵を開けるね」
チェーンを外し、ドアを大きく開け放つ。
夜の廊下の街灯に照らされた詩織さんは、エプロン姿も相まって、どこからどう見ても新婚ほやほやの新妻のようだった。
* * *
「それで、メニューは何かな?」
「……えっと、笑わないで聞いてくださいね?」
彼女は照れくさそうに上目遣いで俺を見つめると、小声でタッパーの中の品名を明かした。
「実は『肉じゃが』なんですけど……その、男の人は肉じゃが好きだって聞いたことがあって。どうかなって……」
恥ずかしそうに視線を泳がせる詩織さん。
その可憐な仕草と、彼女が持ってきてくれた『肉じゃが』という言葉を聞いた瞬間——。
俺の脳内で、今日一日アニ研で受けた仕打ちが、走馬灯のように駆け巡った。
オザキちゃんの理不尽な難癖。
鬼塚の正義面した暴力的な腹パン。
ヨッシーの見下したような横暴な手伝い要求。
そして、立花の支離滅裂な被害妄想と逆恨み。
あの部室に満ちていたのは、底辺男子を見下し、都合よく利用しようとする醜い悪意と闇だけだった。
それに対して、目の前にいる彼女はどうだ。
見返りなど何も求めず、俺が一人暮らしでちゃんとしたご飯を食べていないかもしれないと心配し、男が好きだからという理由でわざわざ肉じゃがを作って持ってきてくれたのだ。
闇が深ければ深いほど、一筋の光は眩しく輝く。
詩織さんの無償の優しさと温もりが、冷え切っていた俺の心にどこまでも鮮烈に突き刺さった。
ぽろり、と。
気がつくと、俺の右目から一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落としていた。
「えっ……? と、富岡さん……!?」
俺の目から涙が零れたのを見て、詩織さんは目を見開いて狼狽した。
そんな彼女の様子などお構いなしに、自然と口が動いた。
「……好きだ。鷹司さん」
ボソリと、心の底からの言葉が漏れ出た。
静かな廊下に、その言葉はくっきりと響き渡った。
「えぇぇぇっ!??!?!?」
彼女の顔が、一瞬で熟したリンゴのように真っ赤に染まった。
タッパーを落としそうになり、慌てて両手で抱え直す。
メガネの奥の目を丸くし、金魚のように口をぱくぱくさせながら、絶句している。
「す、す……っ!? な、なにを……っ!?」
「あ……」
口から出てしまった言葉の重みに、俺自身も冷や汗をかいた。
だが、パニックを起こしかけていた詩織さんは、俺の顔と、自分が持っている肉じゃがのタッパーを交互に見比べ——
何故かハッと目を見開いた。
「あっ、ああっ!! そんなに喜んでいただけるなんて……! 富岡さん、肉じゃがが……そんなに好きだったんですね!?」
「……え?」
「そっか……私、てっきり都市伝説かと……! 男の人って本当に肉じゃがが大好きなんですね! 涙を流すほど喜んでもらえるなんて……っ」
詩織さんは一人でうんうんと深く頷き、妙に納得した様子で顔をほころばせた。
どうやら彼女は、俺の涙と「好きだ」という言葉を、すべて『肉じゃがに対する異常な情熱』として解釈してくれたらしい。
(……うん、この誤解は解かなくていいな)
ここで「いや、肉じゃがじゃなくて君のことが好きだと言ったんだ」なんて修正する場面でもないし――そんな度胸は、今の俺にはない。
俺は咳払いを一つして、照れ隠しのように言った。
「……すごく嬉しいよ。もし良かったら、一緒に食べないか? 貰ってばかりも悪いし、うちにあるもので良ければ何か出すよ」
「えっ、一緒にですか……?」
詩織さんは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに嬉しそうに表情を和らげた。
「いいんですか? 実は……作りすぎて余った肉じゃがしか持ってきていなくて。自分のご飯とお味噌汁は、これから作るところだったんです」
「それならちょうどいい。お米は炊いてあるし、お味噌汁の材料ならある。一緒に作ろう」
「はい! お邪魔します」
詩織さんは嬉しそうに頷くと、小さな靴を揃えて玄関で脱ぎ、我が家へと足を踏み入れた。
* * *
安アパートの狭い部屋。
二人で並ぶと肩が触れ合いそうなほど小さなキッチンに立ち、一緒にお味噌汁を作る。
トントン、と詩織さんが軽快な音を立てて豆腐とネギを切っていく。
すぐ隣から漂う、彼女の髪の香りと素肌の温もり。
「富岡さん、お味噌はどれくらい入れますか?」
「これくらいかな。ちょっと濃いめが好きでさ」
「ふふ、じゃあこれくらいですね」
そんな何気ない会話を交わしながら、二人で食卓を囲む。
出来上がった温かいお味噌汁と、味がしっかりと染み込んだ甘辛い肉じゃが。
口に運ぶたび、ジャガイモの優しい甘みが広がり、胃の奥からじんわりと体全体が温まっていく。
「美味しいよ、鷹司さん。本当に」
「よかったです……! お口に合って安心しました」
詩織さんは心の底からホッとしたように、柔らかく微笑んだ。
今日一日、あの地獄のような部室で理不尽な女たちから受けた傷やストレスが、詩織さんの笑顔と手料理によって綺麗に溶けて消えていくようだった。
ここは天国だ。
間違いなく、俺の生きるべき場所はここだった。
温かい夕食を終え、二人でお茶を飲みながらまったりとした時間を過ごしていると、詩織さんが何かを思い出したようにポンと手を打った。
「あ、そうだ。富岡さん」
「ん? どうしたの?」
「熊川さんと栃谷さんから『富岡さんが描いている絵の進捗を見てきて』って頼まれていたんです。二人の絵……もう見せてもらっても大丈夫ですか?」
詩織は興味津々といった様子で、部屋の隅に立てかけられているキャンバスに視線を向けた。
瑠以さんと梨々花さんをモデルにして、趣味で描いた人物画。
俺は湯呑みを置き、静かに微笑んだ。
「ああ、構わないよ。もう完成しているんだ」
俺は絵を見せるために立ち上がった。




