第17話 バッドエンドの恐怖と思わぬ伏兵
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたヨッシーが、床に倒れ込んで奇声を上げ続けている。
その異様な惨状の中、奥のパイプ椅子から立ち上がった人影があった。
芸術学科シナリオ・文芸コース四年生——
通称『バッドエンド・立花』。
だぼだぼの黒いジャージに身を包み、男を目にすれば無条件で睨みつけてくる女だ。まるで古いホラー映画の怨霊のように、ユラリと肩を揺らしながらこちらへ歩み寄ってくる。
その全身からは、どす黒く重苦しい不穏なオーラが溢れ出していた。
彼女はアニ研の男子部員たちの間で、「恐れ」と「呆れ」を半分ずつ込めて『バッドエンド・立花』と呼ばれている。
というのも、彼女は部室にいる時、一日に一度は必ずと言っていいほど同じ持論を規定事実であるかのように淡々と語っているからだ。
『私って絶対、男運悪いんだよねー。絶対、ろくでもない男に引っかかるわ。そんで、その男にごみのように捨てられるんだ。絶対――でも、そこから人生逆転するの。そいつよりもグレードの高い良い男と付き合っちゃうんだよねー』
『そんでー、私を捨てた男に復讐してもらうの。男としての格の違いを見せつけてもらってー、私はその横で密かにざまぁって思うんだ』
最初は憎しみを込めて不機嫌そうに、だが最後にはうっとりと遠い目をしながら語られるそのシナリオは、文字通りの妄想そのものだった。
そもそも、彼女が理想とする「グレードの高い男と付き合って見返す」というハッピーエンドに辿り着くためには、大前提として『一度男と付き合い、そして無惨に振られる』という第一段階をクリアしなければならない。
だが、彼女にはこれまで一度も彼氏ができたことがなかった。
物語のスタートラインにすら立てていないのだ。
第一段階のフラグが立たない以上、彼女の思い描く「ざまぁ」の物語は永遠に開始されない。
結果として、彼女の人生は「男運が悪いと愚痴を言い続けるだけ」というバッドエンドが確定している。
ゆえに、ついた異名が『バッドエンド・立花』であった。
* * *
そんな悲しき妄想家が、今は般若のような憤怒の形相で俺を睨みつけている。
「お前さー、さっきから聞いてれば何なの?」
地獄の底から響くような、低く濁った声だった。
立花は俺の鼻先数センチの距離まで詰めてくると、血走った目をカッと見開いた。
「作画でこき使える兵隊だと思って、大目にみてやってたらさぁ……イキり散らしながら『協力しない』だと? フッザケんなよ、てめー! 身の程を知れ、クソ雑魚がっ! おらぁ!」
あまりにも身勝手極まりない論理だった。
自分たちを優位な立場だと疑わず、俺たちを「こき使える兵隊」と当然のように呼び捨てる。
その傲慢さに恐怖すら覚える。
彼女は言葉が終わると同時に、右拳を固めて振りかぶった。
大振りな右ストレートが、一直線に俺の身体へ向かって放たれる。
だが――。
(……甘いな)
俺は冷ややかにその軌道を見切っていた。
先ほど鬼塚に喰らったような、想定外(いきなり殴ってくるとは誰も思わないだろう)の不意打ち腹パンならいざ知らず、正面から大声を上げて放たれる素人のパンチなど、恐れるに足らない。
(鬼塚の成功を見て、こいつも暴力を振るってくることは想定の範囲内――)
避けることも容易だったが、ここで躱してしまえば立花はさらにムキになってくるだろう。
(憎しみの連鎖を、ここで断つ――)
攻撃が来ると分かってさえいれば、体勢を整えて耐えるのは難しくない。
俺は両足の裏をがっしりと床に固定し、膝をわずかにかがめて衝撃に備えた。
ドスッ!
と重い衝撃が、俺の左胸の端あたりに刺さる。
「くっ……」
鈍い痛みが走ったが、それだけだ。
しっかりと足を踏みしめていたおかげで、身体が多少揺らいだ程度で耐えられた。体勢を崩すことなく、完璧に衝撃を吸収してみせる。
一方で、勢い任せに殴りかかってきた立花の方は違った。
体重移動も何も考えていない無謀な打ち込みだったため、俺の胸に当たった瞬間の反動に耐え切れず、自らの手首を激しく痛めたのだ。
「うぎゃあああっ!?」
立花は跳ね返った力で後方へ後ずさり、派手に尻もちを突いた。
ドシン!
人と床のぶつかる音が部屋中に響き渡る。
「い、痛ぁぁぁいっ!?」
尻まで痛めたようだ。
(フンッ、馬鹿め。人をノーリスクで殴れると思っていたのか)
わずかに痛む胸を軽く手で押さえながら、俺は心の中で勝ち誇っていた。
作用反作用の法則すら頭にない素人が、踏ん張っている人間の身体を力任せに殴れば、自分の手が壊れるのは当たり前だ。
女子相手にこちらから手を上げれば一方的に悪者にされるが、俺は一切手を出していない。
ただそこに立っていただけだ。
完全なる『バッドエンド』の自滅。
勝利を確信した俺だったが、次の瞬間、地面に転がった立花は想定外のシナリオを語り始めた。
* * *
「いって〜……! くそっ、暴力を振るわれた……! でも……これでっ!」
立花は激痛に顔を歪ませながらも、なぜかその瞳に狂信的な光を宿らせて俺を見上げてきた。
「付き合っている男から暴行を受けたことで、私の『悲劇の条件』はクリアされた……! これでようやく、私の悲劇を理解して庇ってくれる、本当のハイスペックな男が現れるはず……っ!」
(……は?)
俺は開いた口が塞がらなかった。
マジで頭がイカれているのか、こいつは?
自分で勝手に殴りかかって勝手に自滅しただけなのに、脳内でどう変換されたのか、「男から理不尽な暴力を受けた悲劇のヒロイン」へと昇華されている。
「覚悟しとけよ、富岡ぁ! これで私の前に――運命の彼が現れる! 絶対に復讐してもらうからな! 泣いて謝っても絶対に許さないぞ!」
手首を押さえて床に片膝立ちになった立花は、カッコいいポーズをとったまま、凄まじい執念で俺を睨みつけてくる。
いつの間にか俺は、彼女を酷い目に遭わせて捨てた「復讐対象の最低男」という配役に仕立て上げられていた。
* *
恐ろしい。
支離滅裂な被害妄想と、都合のいい脳内変換。
会話という概念そのものが成立しない恐怖に、背筋が寒くなった。
(駄目だ……もういやだ。早くここから出よう)
これ以上この部屋にいたら、誰からどんな難解な冤罪を被せられるか分かったものではない。
俺は一刻も早く脱出するべく、部屋の奥にいる弥太郎と賢吾の方へと振り返った。
「おい、行くぞ——」
声をかけようとした俺の言葉は、喉の途中で固まった。
そこには、俺とはまた別のベクトルで地獄に叩き落とされている二人の男の姿があった。
* * *
「ねえねえ、見てくださいよぉ、お二人とも〜!」
語尾を妙に跳ねさせながら、嬉々として二人に迫っていたのは、一年生の女子部員——通称『なっち』だった。
彼女はアニ研女子の中ではトップクラス(『オタサーの姫』に次ぐ二位)の外見をしているが、その実態はBLに命を捧げている重度の腐女子だ。
なっちは見開き状態の分厚いスケッチブックを、弥太郎と賢吾の目の前に突きつけていた。
そこには、恐ろしいほどの描き込みと情熱をもってペン入れされた、男性同士の濃密なイラストが描かれていた。
「見てください! こっちが陣内先輩で、こっちが佐々木先輩です! お二人が放課後の部室で互いの情熱をぶつけ合い、深く愛し合う姿を描かせていただいたんです〜!」
「「っ!??!?」」
弥太郎と賢吾の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。
スケッチブックに描かれているのは、どう見ても18禁相当の体位で組み合っている弥太郎と賢吾の姿だった。無駄に画力が高いため、二人の特徴が完璧に捉えられているのがまたタチが悪い。
「ねえ、すごく素敵でしょう!? もし良かったら、今度の週末にモデルになってくれませんか!? もちろん、服を脱いで本気で愛し合う姿を、間近でクロッキーさせてもらいたくて……!」
うっとりと頬を染め、目を輝かせるなっち。
女子と繋がれるかもしれないという下心で残っていた二人の淡い期待は、原子レベルで粉々に打ち砕かれていた。
「わ、悪いが……こっちも、自分たちの課題と制作があるから……っ!」
弥太郎がひきつった笑顔で後ずさる。
「も、モデルまで引き受けるのは、ちょっと……! あ、遊技! そろそろ、お暇しようか!?」
賢吾が助けを求めるように俺を見て、悲鳴に近い声を上げた。
「っ、あ、ああ! そうだな! 急用を思い出さなきゃいけない気がする!」
「逃げるぞっ!!」
下心もプライドも全て投げ捨てた二人は、脱兎のごとく出口へと走り出した。
俺もまた、体にまとわりついてくる立花の呪詛を振り払い、ドアへと飛びついた。
* *
バタンッ!
重い音を立てて部室のドアを締め切り、俺たち三人は転がるようにして廊下を駆け抜けた。
背後から女子たちの怒号となっちの黄色い悲鳴が聞こえた気がしたが、一度も振り返ることはなかった。
夕暮れの男子部屋に逃げ延びた俺たちは、荒い息を吐きながら膝に手を突いた。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
「あいつら……全員バケモノかよ……」
青ざめた顔で呟く弥太郎と賢吾。
結局、俺たちは何一つ得るものがないまま、ただただ心身を削られて女子部屋から逃げ帰ったのだった。
(……二度と、あいつらには関わらないようにしよう)
夕日に染まるキャンパスの中で、俺は心からそう誓ったのだった。




