第16話 友軍壊滅、起死回生の反撃
みぞおちの奥で、じんじんと鈍い痛みが主張を続けていた。
さっき鬼塚に叩き込まれた腹パンの余韻だ。
息を吐くたびに肋骨の裏あたりが痙攣するように痛み、俺は右手を腹に当てたまま、膝をつき静かに体を丸めていた。
(……最悪だ)
思考の隅で冷ややかに現状を整理する。
ここはアニメ研究会(アニ研)の部室の一つ。
普段から女子部員が集まり縄張りとしている。
いわば、ここは敵陣営だ。
部屋には俺たち男子部員を見下す視線が充満している。
オタサーの姫こと鳴海結衣におびき出された俺たちは、不利な戦いを強いられていた。
争っても意味はない。
殴られた腹の痛みが引くのを待ちつつ、この地獄からどうやって撤退するか。
それだけを俺は考えていた。
* *
だが、ここは向こうの本拠地だ。
地の利は完全に相手側にある。
「……それで、夏季休暇の手伝いの件ですが」
部屋の隅、出口に通じるドアのすぐ脇から、湿り気を帯びた低い声が響いた。
「連絡の取れる番号を知らせておいてください。皆さんはあくまでヘルプですので、明確なスケジュールは入れません。こちらの作業が間に合わない場合のみ、連絡をすることになります。――まあ、おそらくは手が足りなくなるので、呼び出すことになるとは思いますがね。予定はきちんとあけておいてください」
いつの間にか、俺たちと出口を遮る位置に一人の女生徒が立っていた。
片側だけ伸びた前髪で左目を完全に隠し、ガリガリに痩せた痩躯をだぼついた黒い服に包んだ二年生——通称『ヨッシー』だ。
足音も気配もなく、まるで床から這い出してきた幽霊のようにそこに佇んでいる。
その目の周りにはくっきりと濃いクマが浮かび、表情というものが存在しない。
(これまでの話の流れで、よくそんなこと要請できるな。どこまで図太いんだ、こいつらは……)
俺は呆れを通り越して感心すら覚えそうになった。
さっきまで俺たちをゴミか虫ケラを見るような目で睨みつけ、果ては理不尽な暴力を振るっておいて、次の瞬間には「夏休みの作業を手伝え」「予定をあけておけ」と当然のように要求してくる。
彼女たちとて、大学の全学生に対してこんな態度を取っているわけではないだろう。
普段から、自分たちより下に位置づけている「アニ研の底辺男子」相手だからこそ、何の疑問も抱かずに奴隷を扱うように振る舞えるのだ。
(冗談じゃない。貴重な夏休みを、こいつらの雑務のために差し出してたまるか)
俺は完全に拒絶の姿勢を取るべく、深く息を吸い込んだ。
* *
だが、俺が声を出すより早く、隣で小さくゴクリと唾を呑む音が聞こえた。
「じ、じゃあ……その、鳴海さん、連絡先の交換を……」
おずおずとスマホを取り出したのは、弥太郎だった。
語尾が情けないほど震えているが、その瞳にはあからさまな『淡い期待』が宿っている。
それを聞いた賢吾も、メガネの奥の目をギラつかせながら便乗するように前へ出た。
「あ、あっ、じゃあ僕も……! 連絡用グループとか作りますよね?」
(……あいつら、まだ諦めてなかったのか)
俺は心底驚愕した。
ここまで冷遇され、便利使いする気を隠そうともしていないのに、悲しいかな男の性というヤツなのか。
『これを機に、鳴海結衣とプライベートで繋がれるかもしれない』という下心が、恐怖やプライドを完全に上回っているらしい。
ワンチャンあると思っている顔だ。
悲しすぎる。
あまりにも愚かで悲しい男の性だった。
しかし、女子グループの紅一点である鳴海結衣が動く前に、怪異が牙を剥いた。
* *
「あっ、連絡は私が窓口になってますので、交換は私と……」
スッ、と空間が歪んだかのような錯覚を覚えた。
あれ、いないな、と思った次の瞬間――
ヨッシーはいつの間にか弥太郎と賢吾の目の前に移動していた。
(いつの間に移動したんだ……!? 全く気づかなかったぞ)
本当にこの世の者ではない怪異か何かかもしれない。
忍びの者でもあそこまで無音で距離を詰めることはできないはずだ。
「えっ……あ、いや、俺は鳴海さんと……」
「ぼ、僕も、その……」
「窓口は、私です。私が一括管理しますので。さあ、QRコード出してください」
ヨッシーは顔色ひとつ変えず、死んだ魚のような目で二人を追い詰める。
オタサーの姫である鳴海結衣と連絡先を交換できると思って自ら立候補した二人は、完全に逃げ道を塞がれていた。
ここで「ヨッシーとなら嫌だ」と言えるような度胸は、彼らにはない。
「あ……はい……」
「よろしく……お願いします……」
二人は敗北感に打ちひしがれた顔で、渋々スマホの画面を差し出していた。
下心につられた結果、怪異の連絡先だけを手に入れることになった男たちの後ろ姿は、哀愁に満ちあふれている。
* * *
(……逃げられるのは、俺だけか)
だが、それも容易なことではない。
部室全体を支配する集団心理と、女子グループからの無言の圧迫感。
ここで「俺は嫌です」と平然と言い放って退出するのは、この空気感の中では至難の業だ。
大抵の人間は空気に呑まれ、流されるままスマホを取り出してしまうだろう。
「……じゃあ、次はあなたの番号を」
思考を巡らせていた俺の目の前に、ヌッと黒い影が落ちた。
いつの間にか、ヨッシーが俺の至近距離に立っていた。
前髪の隙間から覗く片目が、じっと俺を見つめている。強請りをかけるような、拒否を許さない無機質な視線だ。
呼吸を整える。
みぞおちを苛んでいた腹パンの痛みは、かなり引いていた。
俺はすくっと、静かに立ち上がった。
ヨッシーを見下ろす形になる。
彼女は俺が素直にスマホを取り出すものだと思って、画面を向けたまま待っていた。
実際――
俺としても、ここはこれ以上諍いを拡大させないためにも、大人しく従った方がいい、という思いはあった。
だが、それと同時に、こんな理不尽に付き合ってしまえば、俺の個人課題である『美人画の製作』に費やす時間を削られてしまう。
――という危機感もあった。
どちらを選ぶべきか、どっちを選択した方がいい?
楽なのは当然、大人しく従う。だ――
俺が豚のように家畜となり、安寧を受け入れようとした。
その時だった。
胸の奥——
あの近所の神社で願掛けをして以来、俺の内に居座っている『ククリヒメ』の神気が、じんわりと熱を帯びた。
頭で理性を働かせるより早く、口が勝手に滑らかな動作で開き始める。
(あ、ヤバい——呪いが来る)
止めようとした時には、もう遅かった。
俺の口からは、驚くほど冷静で、そして容赦のない正論がボソリと漏れ出していた。
* *
「手伝いは、お断りさせていただきます」
静かな部室に、俺の声がくっきりと響いた。
ヨッシーの時が止まる。
後ろで冷やかすように見ていた女子たちの雑談が、ピタリと止んだ。
俺は言葉を止めない。止まらない。
神様から与えられた「余計な一言」の癖は、俺の本音をどこまでも正確に、ナイフのように研ぎ澄まして吐き出していく。
「人を理不尽に殴っておいて、その上、仕事を手伝えとは何事ですか。……アニメを作る前に、常識を身に着けてください」
部室の空気が凍りついた。
鬼塚の目が見開かれ、鳴海結衣の笑みが固まる。
弥太郎と賢吾に至っては、「正気か!?」と言わんばかりの顔で俺を二度見していた。
だが、俺の口は止まらない。
最後の一押しとばかりに、とあるアニメの主人公の名セリフを少しだけ拝借して、淡々と言い放った。
「はっきり言っておきます。——『君たちは迷惑だ』」
言い切った。
言い切ってしまった。
部室を支配するのは、完全な静寂だった。
* * *
断られることなど、一ミリも想定していなかったのだろう。
ましてや、自分たちが「非常識」であり「迷惑」だと、ここまで身も蓋もない正論でバッサリと切り捨てられるなど、彼女たちの辞書には存在しなかったはずだ。
ヨッシーの体が、ガタガタと震え始めた。
無表情だった彼女の顔が歪み、前髪の隙間から見えている片目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出していく。
「ひっ……! ひぇええええええええ! ひぎぃいいいいいいい!?」
突如として、ヨッシーは耳をつんざくような悲鳴を上げた。
情緒が崩壊したかのような、言葉にならない奇声。
彼女は頭を抱え、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その場に崩れ落ちる。
「ヨッシー!?」
女子たちが叫ぶ。
だが、地獄の連鎖はそれでは終わらなかった。
ヨッシーの異常な叫び声に触発されたように、奥のパイプ椅子に深々と腰掛けていた一人の女子生徒が、ぬうっと立ち上がった。
だぼだぼの黒いジャージ、重度の寝不足を思わせる濃いクマ、そして悪霊に取り憑かれているかのような禍々しいオーラ。
芸術学科シナリオ・文芸コース四年生——
『バッドエンド・立花』。
アニ研の男子生徒の間で、そう呼ばれている人物だ。
「……お前」
地獄の底から響くような低い潰れた声が、立ち上がった立花の口から漏れた。
彼女は執念深い怨霊のような目つきで俺をロックオンすると、ゆらり……と体を揺らし、猛然たるプレッシャーを伴ってこちらへ迫ってきた。
(……おいおい、嘘だろ)
俺は痛みが引いたばかりの腹に再び力を込めながら、引きつりそうになる頬を必死に抑えた。
どうやら俺の地獄は、まだ終わりそうにないらしい。




