第15話 男女比に偏りのある『女子部屋のリアル』
ズシン、ズシンと、女子部屋の床が不穏な振動を立てて揺れた。
部屋の奥から歩み寄ってきたのは、ダボついたグレーのジャージを身に纏った巨体――三年生の『鬼塚』だった。
その全身からは、長年の屈折と怨念が泥のように混ざり合った、暗く重いオーラが溢れ出ている。
「おい……お前」
鬼塚先輩の濁った瞳が、獲物を狙う肉食獣のように俺たち――
いや、弥太郎を捉えた。
その圧倒的な圧迫感に、弥太郎の顔から一気に血の気が引いていくのが分かる。
女子部屋に満ちた処刑直前の空気をどうにか打破しようと、弥太郎が引きつった笑みを浮かべながら、あからさまに声を張り上げた。
「あ、あはは……えっと、鬼塚先輩――何か、その……御用でしょうか?」
「おい、お前。遠回しに、私のことを口説いてるだろ? そういうのは止めろ」
「え……?」
鬼塚先輩の開口一番の言葉に、弥太郎はぽかんと口を開けた。
「とぼける気か? お前、私をモデルにしたキャラを褒めてただろ。照れ隠しのつもりか知らんが、バレバレなんだよ。だがな、お前みたいな軽い男はお断りなんだわ。私を口説こうなんて百年早い――身の程を知れ」
完全に想定外の方向から飛んできた言葉に、弥太郎の思考がフリーズする。
場の空気を少しでも良くしようと「ヒロインのモデルは鳴海さんだろ」と言ったのだが、なぜか彼女を遠回しにアプローチしたことに変換されてしまったらしい。
「い、いや! 別に俺、ナンパしたわけじゃ――」
「言い訳は見苦しいぞ。お前みたいなチャラチャラした奴が、私に気がある素振りを見せて近づいてくること自体が不愉快なんだ」
腕組みをした鬼塚先輩が、鼻でフンと息を鳴らす。
これ以上反論すれば事態がさらに悪化すると察したのか、弥太郎は冷や汗をダラダラと流しながら、必死に頭を下げた。
「そ、そうなんですね……。俺はただ、純粋に絵の上手さを褒めたかっただけなんですが……なんか、すいませんでした」
「ふん。わかればいいんだよ、わかれば」
自分に気がある(と信じ込んでいる)男子生徒をバッサリ振ってやったことで、鬼塚先輩は満足そうに顎をしゃくらせた。
弥太郎は「勘違いで振られた」という理不尽すぎる現実に打ちひしがれながら、白目を剥いて悄然と肩を落としている。
これでひとまず終わった。
―― 俺たちがそう胸を撫で下ろした、次の瞬間だった。
ずい、と鬼塚先輩の巨体が向きを変え、真っ直ぐ俺の方へ歩み寄ってくる。
* * *
その足取りに躊躇はない。
俺の目と鼻の先、わずか数十センチの距離でピタリと足を止めると、上から見下ろすようにギラついた目を向けてきた。
「おい、お前」
「……何でしょうか?」
「富岡って名前で間違いないか?」
「そうですが……」
俺が自分の名を肯定した、まさにその瞬間だった。
「ふんっ!」
野太い掛け声とともに、鬼塚先輩の右拳が突き出された。
(――なっ!?)
避ける暇すらなかった。
その一撃は、お世辞にも体幹が据わったキレのあるパンチなどではなく、ただ勢いに任せて腕を振り抜いた素人のものだった。
しかし、完全な不意打ちであったこと。
鬼塚先輩の体重がそのまま拳に乗っていたこと。
そして何より、運悪くみぞおちを抉るような綺麗なクリーンヒットとなって突き刺さってしまったこと――それらの条件が見事に重なってしまった。
どっ!!
「ぐはっ……!?」
体内の酸素が一瞬で丸ごと吐き出され、視界がぐにゃりと歪んだ。
* *
みぞおちを激しく抉られたような殺人的な衝撃と激痛が神経を駆け抜け、俺は呼吸すらできなくなったまま、その場に両膝をついた。
「ハッ……ガ……ッ……!」
床に両手をつき、必死に空気を吸い込もうとするが、横隔膜が痙攣して上手く息が入ってこない。
ボタボタと床に汗が滴り落ちる中、俺の頭上で鬼塚先輩が冷ややかに腕を組み、勝ち誇ったように俺を見下ろしていた。
「お前さー、女子の間で噂になってるんだけど。自宅に色んな女子を連れ込んでハーレムを作ろうとしてるって、まじさー、私そういうの許せないから」
「つ……っ……!?」
痛みに耐えながら顔を上げると、鬼塚先輩は不機嫌さを隠そうともせず、言葉を吐き捨てた。
「その顔は、心当たりがあるみたいだな。いいか、これは制裁だ。――公爵令嬢の拳は光のごとし、思い知ったかヤリチン野郎」
息を詰まらせながら、俺は冷めた思考で事態を整理した。
今年の春先から、詩織さんをはじめ、何人かの女性と関わる機会が急劇に増えたのは事実だ。
彼女たちが俺のアパートを訪れることもあったし、キャンパス内で親しげに話す姿も目撃されていたのだろう。
その情報に尾ひれがついて、「女子を自宅に連れ込んでハーレムを作っている」という酷い噂として一人歩きしてしまったらしい。
そして、その噂を真に受けた鬼塚先輩が、勝手な正義感で俺に物理的な制裁を加えた、というのが事の真相というわけだ。
* *
おそらく鬼塚先輩は、何かしらのキャラになり切っているのだろう。
しかし――
彼女は公爵令嬢ではない。
どの作品のキャラかは知らないが、こんなものは正義でも何でもない。
ただの暴行罪だ。
(……踏んだり蹴ったりとは、まさにこのことか)
「ふん、二度と女子を弄ぶような真似はするなよ」
捨て台詞を残し、鬼塚先輩は満足そうに鼻を鳴らすと、ドシドシと床を揺らして自分の作業席へと戻っていった。
俺は殴られっぱなしのまま――
みぞおちを押さえ、どうにか息を整えようと蹲りながら深呼吸を繰り返す。
だが、災難はそれで終わらなかった。
* * *
すっ、と膝をつく俺の背後に、気配もなく誰かが忍び寄ってきた。
次の瞬間。
どっ!
背中の真ん中に、鈍い衝撃が走った。
「うぐっ!?」
「……フン」
振り向くと、そこには短髪に丸メガネをかけた二年生のオザキちゃんが立っていた。
彼女は冷ややかな目で俺を見下ろすと、足を引いて鼻を鳴らした。
さっき俺にロジックで言い返せなくなり、涙目になって押し黙っていた腹いせだろう。
鬼塚先輩の暴行に便乗して、ドサクサに紛れに蹴りを叩き込んできたのだ。
小柄な彼女の蹴り自体は大した威力ではなく、痛みの大半はみぞおちの激痛にかき消されていたが、理不尽に追撃されたという憤りだけはフツフツと胸の底で増大していく。
* *
(……マジで最悪だ。こんなところに来るんじゃなかった……)
怒りに任せて立ち上がり、殴り返すことも頭をよぎった。
だが、『やられたからやり返す』が社会的に通用するだろうか?
相手は一応、女子生徒だ。
我を忘れて俺が暴れれば、それこそ「噂通りの最悪な男」として処理され、泥沼のトラブルに発展するのは目に見えている。
現実の世界で暴力に訴えるのはリスクが大きすぎる。
下手をすると100対0で、こちらが一方的に悪いと判断されかねない。
これ以上、被害を拡大させないためにも、今はじっと黙って耐えるのが一番賢明な選択だった。
(……悔しいが仕方ない)
もともと俺は、人間関係のいざこざや面倒事が大嫌いなのだ。
俺が固く口を閉ざしたまま床を見つめていると、頭上からかすかな衣擦れの音が聞こえた。
ふわりと漂ってきたのは、石鹸のような清潔感のある甘い香り。
「ご、ごめんね……こんなことになっちゃって……」
消え入るような小声で謝ってきたのは、『オタサーの姫』こと鳴海さんだった。
* * *
困惑と申し訳なさで胸元に両手を添え、潤んだ大きな瞳で俺を上目遣いに見つめてくる。
その可憐な仕草は相変わらず可愛かった。
俺は痛みで顔を歪めながら、低く掠れた声で返した。
「……いや。鳴海さんが悪いわけじゃないから」
「ううん、私が富岡君たちをこの部屋に呼んじゃったから……本当にごめんね?」
鳴海さんは申し訳なさそうに視線を泳がせながら、俺たち三人に向かって、彼女が今日訪ねてきた本当の理由を明かし始めた。
「実はね……三人には助っ人を頼もうと思ってたんだ」
「……助っ人?」
痛みに耐えながら問い返すと、鳴海さんは小さく頷いた。
「うん。夏季休暇に入ったら、女子チームの作画の手伝いを少し頼めないかなって。陣内君たちのショートアニメの制作、順調そうだったから……手が空いた時に手伝ってもらえたら嬉しいなって思ってたの」
要するに、最初からそういう「下心」があって、俺たちをこの修羅場に呼び出したというわけだ。
彼女にしてみれば、男部員たちの好意やモチベーションを上手く利用して、自分たちのチームの作業を効率化させようとしたのだろう。
だが、俺に落胆はなかった。
もともと俺はモテない男として生きてきたし、完全な善意や好意だけで動く人間なんてこの世にいないことくらい、嫌というほど知っているからだ。
むしろ、期待を寄せていなかった分、精神的なダメージはゼロに近かった。
――問題は、俺以外の二人だった。
* *
「そ、そんな……てっきり、俺に気があるのかと……」
「僕のことを、密かに好きなわけじゃなかったんだ……」
弥太郎と賢吾の二人は、魂が抜けたような顔で絶望していた。
鳴海さんが自分に気があって、純粋に仲良くなりたくて距離を縮めようと女子部屋に招いてくれたのだと、本気で期待していたのだろう。
その淡い恋心と甘い幻想は、見事に打ち砕かれたのだ。
みぞおちの激痛に耐えながら、俺は心の中で冷ややかに呟いた。
(……まあ、いいじゃないか)
打ちひしがれる二人を横目に、俺はゆっくりと立ち上がった。
男心を弄ばれて勝手にショックを受けている二人と、理由もなく殴られ、蹴られ、物理的な暴行を受けた俺。
(どう考えても、俺より不幸な人間なんて、この部屋には一人もいないんだからな)
腹を押さえながら、俺は早くこの惨劇の部屋から退出することだけを静かに考えていた。




