第8話 帰る場所
廃坑を出たころには、森の向こうへ日が沈みかけていた。
カイの身体はひどく衰弱している。魔力を奪われた状態で、夜の森を歩き続けるのは危険だった。
アレンたちは森の中に野営地を作り、一晩だけ休むことにした。
カイの容体は、夜の間もルナが何度か確認した。
ヴァイスはほとんど眠らず、そのそばに座っていた。
廃坑で見つけた紙片は端が焼け焦げ、ところどころ文字が欠けていた。
エルシーとルナが焚き火のそばで調べたが、その夜に読み取れたのは、いくつかの番号と日付だけだった。
翌朝。
朝露の残る森を抜けると、切り立った岩山の間に細い道が現れた。
周囲には背の高い木が密集している。遠くから見ただけでは、その先に道が続いているとは分からない。
「この先に集落があるの?」
エルシーが尋ねる。
「ああ」
ヴァイスはカイを背負ったまま歩き続ける。
「勝手に道を覚えるなよ」
「覚えようとしなくても、一度通った道は忘れないんだ」
「面倒な奴だな」
「褒め言葉として受け取っておくね」
「褒めてねえ」
やがて、木々の隙間から煙が見えた。
谷の奥に、小さな集落が隠れるように作られている。
石と木を組み合わせた家が並び、その間には畑が広がっていた。
人間の村と大きな違いはない。
軒先には洗濯物が干され、井戸のそばでは子供たちが木の実を拾っている。
ただ、そこに暮らしている者たちの頭には角があり、背中には黒い翼があった。
ヴァイスが集落へ足を踏み入れた瞬間、見張り台から鋭い声が飛んだ。
「止まれ!」
木の上から、二人の魔族が飛び降りる。
一人は槍を構え、もう一人は弓へ矢をつがえた。
その切っ先は、ヴァイスではなく後ろを歩くアレンたちへ向けられている。
「天使……!」
声を聞いた住民たちが家から出てくる。
アレンたちの姿を認めると、子供を家の中へ入れ、戸を閉め始めた。
「どういうことだ、ヴァイス」
槍を構えた男が尋ねる。
「なぜ天使をここへ連れてきた」
「話はあとだ」
ヴァイスは背負っていたカイを見せた。
「先にこいつを診てくれ」
「カイ……?」
弓を持っていた女が駆け寄る。
カイの顔を確かめると、すぐに集落へ向かって叫んだ。
「治療師を呼べ!」
住民の一人が奥の家へ走っていく。
槍を持つ男は道を空けたが、アレンたちへ向けた武器は下ろさなかった。
「天使は外で待たせろ」
「こいつらも来る」
「正気か?」
「カイを助けたのは、こいつらだ」
周囲が静まり返った。
「天使が、魔族を?」
「説明はあとだ。今はカイが先だ」
ヴァイスは男の横を通り過ぎた。
アレンたちもその後へ続こうとする。
男の槍が、アレンの前へ突き出された。
「それ以上、近づくな」
アレンは足を止めた。
剣へ手を伸ばすことも、言い返すこともしなかった。
「分かった。ここで待つ」
「アレン」
先を歩いていたヴァイスが振り返る。
「俺たちは外にいる。何か必要なら呼んでくれ」
アレンはそう告げると、道の脇へ移動した。
ルナとエルシーも続く。
ヴァイスは何か言いかけたが、カイを背負い直し、集落の奥へ向かった。
三人は入口に近い木の下で待つことになった。
住民たちは遠巻きにこちらを見ている。
敵意を隠そうともしない者もいれば、怯えたように家の中から覗いている者もいた。
「リュネ村と反対だね」
エルシーが小さな声で言った。
「あのときは、ヴァイスが一人で囲まれてた」
「今度は、私たちの番ということでしょうか」
ルナは魔導書を胸元へ抱いた。
「仕方ないよ。私たちが何もしていなくても、この人たちにとって天使は……」
エルシーは言葉を止めた。
その指が腰の手帳へ伸びる。
だが、表紙へ触れる直前で止まり、代わりに胸元の女神の聖印を強く握った。
足元では、ミルが集落の中を見つめていた。
その視線の先に、小さな魔族の少女がいる。
少女は家の陰から顔だけを出し、ミルを見ていた。
目が合うと、一度は隠れる。
だが、しばらくすると再び顔を出した。
今度は、小さな木の実を手に持っている。
少女は大人たちの様子をうかがいながら、少しずつ近づいてきた。
「この子、噛む?」
「噛まないよ」
エルシーが答える。
「たぶん」
「たぶん?」
少女の足が止まった。
「大丈夫だ。ミルは優しいから」
アレンの言葉に、ミルがゆっくりと顔を上げる。
少女は地面へ木の実を置き、すぐに数歩下がった。
ミルは木の実へ近づき、匂いを嗅いだ。
食べはしなかったが、その場から逃げようともしなかった。
少女の表情が明るくなる。
そのとき、奥の家からヴァイスが出てきた。
「お前ら、こっちへ来い」
槍を持った男が何か言おうとしたが、ヴァイスが先に睨み返した。
「俺が見てる。文句あるか」
男は槍を下ろさないまま、道を空けた。
アレンたちはヴァイスに案内され、集落の奥にある家へ入った。
寝台では、カイが眠っていた。
首輪の傷には薬が塗られ、清潔な布が巻かれている。顔色はまだ悪いが、呼吸は廃坑にいたときよりも安定していた。
寝台のそばには、白髪の女が座っていた。
頭から曲がった角が伸び、背中の翼は片方だけが途中で失われている。
「この子から首輪を外したのは、お前たちか」
女が尋ねる。
「外したのはルナです」
アレンが答えた。
女の視線がルナへ向く。
「天使の術を、魔族のために使ったのか」
「目の前に、助けを必要としている方がいましたから」
ルナはそう答えた。
声は小さかったが、目をそらさなかった。
女はしばらくルナを見つめた。
それから、カイの額に置いていた布を水へ浸す。
「礼を言う」
ルナが目を見開く。
「いえ……私は、自分にできることをしただけです」
「それでも、この子が生きているのはお前のおかげだ」
女は新しい布をカイの額へ載せた。
「ここ数か月で、集落から十二人が消えた」
部屋の空気が変わった。
「最初にいなくなったのは、森へ薬草を採りに行った二人だった。その次は、狩りへ出た若者が三人。それからは、集落の近くでも姿を消す者が出始めた」
エルシーが手帳を取り出す。
今度は迷わず、聞いた人数と時期を書き留めた。
「カイさん以外の人は、まだ戻っていないんですね」
「ああ」
女は頷いた。
「連れ去った者の姿を見た者もいない。残されていたのは、争った跡だけだ」
ヴァイスが懐から焼け焦げた紙片を取り出し、机へ置いた。
廃坑で見つけた搬送記録だった。
「消えた奴らは、別の場所へ運ばれた可能性が高い」
「どこか分かるの?」
エルシーが尋ねる。
「分からねえ。残ってる文字だけじゃ、行き先までは読めない」
ルナが机へ近づき、紙片を光へかざした。
焼け残った文字を指先でたどっていく。
「王都へ持ち帰れば、魔導院で詳しく調べられるかもしれません」
ヴァイスはすぐに手を伸ばし、紙片を押さえた。
「こいつは渡さねえ」
「ですが、貴重な手がかりです」
「天使の作った牢獄で見つけた記録を、天使の国へ持っていけっていうのか?」
ルナは口を閉じた。
「それに、どうせ持っていったところで、偽物扱いされて処分されるのが関の山だ」
「それは……」
ルナは否定しきれず、視線を落とした。
アレンは机の上にある紙片を見る。
「エル。書き写せるか?」
「うん。読める部分だけなら」
エルシーは新しいページを開き、焦げた紙に残る文字を一つずつ書き写していく。
番号。
日付。
適合せず。
次所へ移送。
回収量、不足。
最後まで書き終えると、ヴァイスは紙片を懐へ戻した。
首輪の大部分と搬送記録の原本は、ヴァイスたちのもとに残る。
砕けた首輪の欠片と、記録の写しはアレンたちが持ち帰る。
廃坑で見つかった証拠は、人間と魔族の双方へ分かれて残ることになった。
「俺たちは王都へ戻る」
アレンが言った。
「廃坑のことと、消えた人たちのことを報告する」
「報告してどうなる」
ヴァイスが壁にもたれたまま尋ねる。
「さあな」
「分からねえのかよ」
「分からないから、確かめる」
アレンはヴァイスを見る。
「一緒に来ないか。お前から話した方が、伝わることもある」
「断る」
答えは早かった。
「俺が王都へ入った時点で、話を聞く前に剣を向けられる。それに、カイを置いていくつもりもねえ」
「それなら、治療が終わってからでも――」
「勘違いするな」
ヴァイスがアレンの言葉を遮る。
「一度共闘したからって、お前らの仲間になったつもりはねえ」
「俺も、今すぐ仲間になれとは言ってない」
「顔に書いてあるんだよ」
「そうか?」
「気づいてなかったのかよ」
エルシーが吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
ヴァイスがそちらを見る。
「何がおかしい、赤いの」
「何でもない」
「笑ってただろ」
「決して笑ってなどない」
「目を見て言え」
エルシーはヴァイスと目を合わせないまま、手帳を鞄へしまった。
「そろそろ出発しようか、アレン」
「ごまかすな」
部屋に張りつめていた空気が、わずかに緩んだ。
アレンたちは集落の入口まで戻った。
来たときほど露骨に武器を向けられることはなかったが、住民たちの警戒は消えていない。
先ほどの少女が、家の陰からミルを見ている。
ミルは一度だけ少女へ振り返ると、アレンの肩へ飛び乗った。
「おい、青いの」
ヴァイスが呼び止める。
「私のことでしょうか」
ルナが振り返る。
「カイの傷は、あの薬を塗っておけばいいんだな」
「はい。一日に一度、傷口をきれいにしてから塗り直してください。もし高い熱が出たり、意識が戻らなかったりした場合は――」
ルナは鞄から紙を取り出すと、薬の使い方と注意点を書き始めた。
ヴァイスは黙って待っている。
書き終えた紙を差し出すと、今度は拒まずに受け取った。
「文字は読めますか?」
「馬鹿にしてんのか」
「いえ、そういうつもりでは……」
「読める」
「でしたら、大丈夫です」
ルナは胸をなで下ろした。
エルシーが二人の間から顔を出す。
「名前で呼べば、もっと早く済むと思うけど」
「うるせえぞ、赤いの」
「だから、私もエルシー!」
「知るか」
「知ってるでしょ!」
ヴァイスはエルシーを無視し、受け取った紙を懐へしまった。
アレンがその前へ立つ。
「それじゃあ、ここで別れる」
「ああ」
「消えた人たちの手がかりが見つかったら、知らせてくれ」
「どうやって」
「……考えてなかった」
ヴァイスが呆れたように息を吐く。
「王都の大聖堂に、アレン宛てで送れば届くよ」
エルシーが教える。
「魔族の俺が大聖堂へ手紙を送れって?」
「差出人を書かなければいいんじゃない?」
「怪しすぎるだろ」
「じゃあ、私宛てでもいいよ」
「変わらねえよ」
エルシーは気にせず笑った。
「またね、ヴァイス」
「次があるみたいに言うな」
「あるよ。こういうことは、言っておいた方が本当になるから」
ヴァイスは答えなかった。
アレンたちは集落へ背を向け、細い山道を歩き出す。
しばらく進んだところで、アレンの肩にいたミルが後ろを振り返った。
ヴァイスはまだ、集落の入口に立っていた。
ミルと目が合うと、眉をひそめる。
「何だよ、猫もどき」
ミルは何も答えず、前へ向き直った。
尻尾の先に浮かぶ輪が、木漏れ日の中で一度だけ光った。
三人と一匹は、その日の夕方に王都へ戻った。
西門をくぐろうとしたところで、門番がアレンを呼び止める。
「騎士見習いアレンだな」
「ああ」
「大聖堂から出頭するよう命令が出ている」
アレンはエルシーと顔を見合わせた。
「もう、廃坑のことが伝わったのか?」
「廃坑?」
門番は首を傾げた。
「呼び出しの理由は?」
門番は周囲を確かめてから、声を落とした。
「リュネ村で、魔族を逃がした件についてだ」
エルシーの手が、腰の手帳へ伸びる。
そこには、少女を救った者のことも、廃坑で見つけた牢獄のことも記されている。
しかし、大聖堂へ先に届いたのは、そのどちらでもなかった。
アレンは門の向こうに見える女神像を見上げた。
「分かった。今から行く」
三人は再び歩き出す。
王都の鐘が鳴っていた。
旅立ちの日と同じ音のはずなのに、今は少しだけ違って聞こえた。




