第9話 見た者の責任
大聖堂の扉をくぐった途端、アレンは足を止めた。旅立ちの日には朝の光で満たされていた広間が、今は薄暗い。壁に並ぶ燭台には火が灯されているものの、正面の女神像までは届いていなかった。
「剣を預かる」
入口に立つ聖堂騎士が手を差し出す。アレンは腰から剣を外し、その手へ渡した。続いてルナが魔導書を抱え直す。
「これも、お預けした方がよろしいでしょうか」
騎士は答える前に魔導書を見た。
「魔導院の者か?」
「はい」
「ならば、そのままでいい。ただし、許可なく術を使うな」
「分かりました」
エルシーの鞄も調べられた。腰の手帳を見られたときだけ、その手がわずかに強く表紙を押さえた。アレンの肩にいたミルも、騎士から不審そうな目を向けられる。
「その生き物は何だ」
「ミルです」
「名前ではなく――」
「猫です」
旅立ちの日と同じ答えだった。騎士はミルの額と尻尾を見比べたが、やがて諦めたように道を空けた。
三人が案内されたのは、大聖堂の奥にある小部屋だった。中央には長い机が置かれ、その向こうにアレンへ叙任の試練を与えた司祭が座っている。傍らには、記録係らしい若い聖職者が一人いるだけだった。
「座りなさい」
アレンたちは並んで椅子へ腰を下ろした。ミルはアレンの肩から膝へ移り、司祭を見上げる。
「先に言っておく。お前たちを処罰するために呼んだのではない」
司祭が口を開いた。
「リュネ村から届いた報告と、お前たちから事情を聞いた者の報告に食い違いがある。まずは、何が起きたのかを確認したい」
「門番からは、俺たちが魔族を逃がしたと聞きました」
「あれは、村から最初に届いた急報の内容だ」
司祭は机に置かれた書類へ目を落とした。
「魔族が少女とともに森で発見され、騎士見習いが村人を制止して逃がした。その時点では、それしか報告されていなかった」
「ガイルが魔物を操っていたことは?」
エルシーが尋ねる。
「その後に届いた報告には書かれている。行方不明だった若者と、盗まれた家畜が廃坑から発見されたこともな」
エルシーの指から、手帳を押さえていた力が抜けた。
「お前たちの働きによって、少女と村の若者が救われた。その点については、正当に評価されるべきだと考えている」
「それなら、何が問題なんですか」
アレンが尋ねる。
「魔族の素性を確認せず、解放したことだ」
司祭の声は穏やかなままだった。
「その魔族が少女を助けたことは、複数の証言から事実だと考えていい。魔物との戦いで、お前に協力したことも認めよう」
「だったら――」
「だが、それでその者が今後も危険ではないと、誰が保証する?」
アレンは口を閉じた。
「少女を守った一度の行動から分かるのは、その場で何をしたかだけだ。その者がどこから来たのか、なぜ天使の領内にいたのか、ほかに仲間がいるのかまでは分からない」
「捕まえようとすれば、あいつは抵抗していたと思います」
「そうかもしれない」
司祭は否定しなかった。
「その場合は、村人を下がらせ、応援を求めるべきだった。戦う必要がないと判断したのなら、少なくとも名と目的を確認し、その場で騎士団へ報告する必要がある」
「名前は、あとで分かりました」
エルシーが言った。
「ヴァイスと名乗りました。廃坑で、もう一度会ったんです」
「廃坑で?」
アレンは、王都へ戻るまでに起きたことを説明した。
ガイルの使っていた首輪に、A9F4という番号が刻まれていたこと。
ルナが術式を調べ、廃坑の奥に隠された空間を発見したこと。
鉄格子と鎖の残された牢獄。
装置につながれ、魔力を奪われていた魔族の少年。
そして、廃坑はかつて天使が魔族を捕らえるために使っていた場所だと、ヴァイスが話したこと。
話を聞き終えても、司祭はすぐには答えなかった。
「その魔族の言葉を、事実だと考えているのか」
「牢獄は実際にありました」
アレンが答える。
「聞いているのは、誰が作ったかという点だ」
「それは……」
「古い施設が存在したことと、その魔族の話がすべて正しいことは同じではない」
司祭はルナへ目を向けた。
「術式を調べたのは、君だな」
「はい」
「天使が作ったものだと断定できるのか」
ルナは膝の上に置いた魔導書へ目を落とした。
「使われていた文字は、古い天使文字と一致しています。術式の組み方にも、現在の魔導院へ伝わるものと共通点がありました」
「ほかの者が、天使の術式を流用した可能性は?」
「否定はできません」
「魔族が使用していた施設を、後から天使のものだと偽った可能性は?」
ルナは少し間を置いた。
「それも、現時点では否定できません」
司祭が頷く。
「ならば、調査が必要だ」
「私たちの話を信じていただけるのですか?」
「信じるかどうかを決めるために調べるのだ」
司祭はそう答えた。
「古い天使文字が使われた牢獄が本当に存在するなら、見過ごすことはできない。たとえ、それが我々にとって都合の悪い事実だったとしてもだ」
エルシーの指が腰の手帳へ伸びた。今度は止まらず、その言葉を書き留める。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「もし、あの廃坑が本当に天使の作った牢獄だったら……教会は、そのことを公表するんですか?」
記録係の手が止まった。司祭はしばらくエルシーを見つめた。
「調査も終わっていない段階で、答えられることではない」
「そうですか」
「だが、隠すとも言っていない」
エルシーはその言葉も手帳へ書き加えた。司祭は再びアレンへ向き直る。
「お前が魔族を助けたこと自体を、罪だと言っているのではない」
アレンが顔を上げる。
「お前の判断によって少女が救われた。それは事実だ。だが、結果が良かったからといって、すべての判断が正しかったことにはならない」
「もし俺が規則に従って、ヴァイスへ剣を向けていたら?」
「新たな争いが起きていた可能性はある」
「だったら――」
「反対に、お前が見逃した者が別の村を襲う可能性もあった」
司祭の言葉に、アレンは黙った。
「お前は、自分が罰を受ければ責任を取れると考えているのかもしれない。だが、騎士の責任とは、失敗したあとで罰を受けることではない」
司祭は机の上の報告書へ手を置いた。
「自分の判断によって、失われるかもしれない命まで考えることだ」
アレンの膝の上で、ミルが顔を上げる。金色の目が、アレンの横顔へ向けられていた。
「俺は、間違っていたんでしょうか」
アレンが尋ねる。
「それを私に決めてもらうのか?」
司祭は静かに問い返した。
「お前は、その場で見たものを信じて剣を下ろした。ならば、その判断が正しかったのか、最後まで自分で確かめなさい」
部屋に短い沈黙が落ちた。やがて、司祭が記録係へ合図する。若い聖職者が立ち上がり、小さな木箱を机の上へ置いた。
「首輪の欠片を見せてくれ」
アレンは懐から、布に包んだ欠片を取り出した。A9F4の文字が見えるように机へ置く。司祭は直接触れず、刻まれた番号と内側の針を確かめた。
「これは大聖堂で預かり、魔導院へ調査を依頼する」
アレンの手が欠片へ伸びる。
「調査結果は、俺たちにも教えてもらえますか」
「ああ」
司祭は記録係へ視線を向けた。
「預かり証を作りなさい。欠片の状態と刻印を記録し、封印にはアレンとルナにも立ち会ってもらう」
「よろしいのですか?」
ルナが尋ねる。
「疑いを残さないためだ」
欠片は木箱へ収められた。記録係が紐をかけ、その上へ溶かした蝋を落とす。大聖堂の印章が押されたあと、アレンとルナも記録へ署名した。
「廃坑には、明後日の朝、正式な調査隊を送る」
司祭が告げる。
「騎士団から四名、魔導院から術式の専門家を二名。それに、村までの案内役を加える」
「俺も行きます」
アレンはすぐに立ち上がった。
「認められない」
「どうしてですか。あの場所を見つけたのは俺たちです」
「だからこそだ」
司祭は椅子から動かなかった。
「今回の調査では、お前たちの報告が正しいかを第三者が確認する必要がある。行動について審査を受けている者を、調査隊へ加えることはできない」
「なら、入口まででも――」
「道は村の者に案内させる」
「でも、隠された扉を開けられるのはルナだけです」
「その点については、こちらも承知している」
司祭の視線がルナへ向く。
「ルナ。君には調査隊への同行を求める。廃坑の封印を解除し、確認した術式について説明してもらいたい」
ルナの肩がわずかに動いた。
「私一人で、でしょうか」
「アレンとエルシーの同行は認められない。無論、君一人で廃坑へ入れという意味ではない。調査隊が護衛する」
「俺も一緒に行かせてください」
アレンは引かなかった。
「ルナだけに任せることはできません」
「アレンさん」
ルナが名前を呼んだ。アレンが振り返る。ルナは魔導書を抱えたまま立ち上がった。
「任せてください」
「でも――」
「私も、あの場所を見ました。封印も、首輪の術式も説明できます」
声には不安が残っていた。それでも、目はそらさなかった。
「私が見たものを、見たまま伝えてきます」
アレンは何かを言いかけた。その袖を、エルシーが引く。
「ルナがこう言ってるんだから、任せよう」
「エルまで……」
「何でも一人でやろうとするのは、信じてないのと同じになっちゃうよ」
アレンはルナを見る。ルナの腕には力が入り、魔導書が胸元へ強く押しつけられている。しばらくして、アレンは椅子へ座り直した。
「分かった」
ルナの肩から、わずかに力が抜ける。
「ただし、危ないと思ったらすぐに戻ってきてくれ」
「はい」
「無理もしないでくれ」
「はい」
「知らない術式には触るな」
「アレン」
エルシーが止める。
「心配なのは分かるけど、ルナのお母さんみたいになってるよ」
「そんなつもりはない」
「分かっています」
ルナの口元が、わずかに緩んだ。司祭が小さく咳払いをする。
「話がまとまったのなら、座りなさい」
「すみません」
三人は改めて席へ戻った。
「調査が終わるまで、アレンの叙任試験は保留とする」
「分かりました」
「処罰ではない。お前が騎士として判断を下せる者か、改めて確認するためだ」
アレンは頷いた。
「ルナは明日のうちに魔導院へ報告し、必要な術具を準備しなさい。出発は明後日の朝だ」
「承知しました」
聴取が終わり、三人は部屋を出た。預けていた剣と鞄を受け取るころには、大聖堂の外はすっかり暗くなっていた。石段の下では、夜の王都に明かりが灯り始めている。
「ルナは、これから魔導院へ戻るのか?」
アレンが尋ねる。
「そのつもりでしたが……報告は明日の朝でも間に合います」
「だったら、一緒に食べていこうよ」
エルシーが明るく言った。
「食事、ですか?」
「まだ何も食べてないでしょ?」
ルナは答える前に、自分の腹元へ視線を落とした。その直後、小さな音が鳴った。三人の間に沈黙が落ちる。ルナの頬が赤くなった。
「これは、その……」
「決まりだな」
アレンが言う。
「何がでしょうか」
「一緒に食べよう」
「今の音は関係ありませんからね」
「分かってる」
「絶対に分かっていません」
エルシーが笑いながら、二人の背中を押した。
「ほら、早く行こう。いつもの店なら、まだ開いてるから」
三人と一匹は、大聖堂から少し離れた食堂へ入った。夕食時を過ぎた店内には、仕事帰りの客が数人残っているだけだった。奥の丸い机を囲み、温かいスープと焼きたてのパンを注文する。
料理が運ばれてくると、ルナは湯気の立つ器を両手で包んだ。
「温かい……」
「魔導院では、いつも何を食べてるの?」
エルシーが尋ねる。
「食堂のパンか、研究室へ持ち込めるもので済ませることが多いです」
「ちゃんと食べないと駄目だよ」
「エルも人のこと言えないだろ」
「私はちゃんと食べてるよ」
「昨日の朝は干し果物だけだった」
「どうして覚えてるの?」
「目の前で食べてただろ」
「そういうところだけ妙に細かいんだから」
二人のやり取りを見て、ルナが小さく笑った。アレンがそちらを向く。
「どうした?」
「いえ。お二人は、本当に仲が良いんですね」
「長いだけだよ」
エルシーが答える。
「長いって?」
「小さいころから一緒なの。アレンは昔から、困っている人を見つけるとすぐに走っていくから」
「放っておけないだろ」
「それで自分が迷子になって、私が捜しに行くんだけどね」
「そんなことあったか?」
「何度もあったよ」
ルナは再び笑った。今度は先ほどよりも、はっきりとした笑みだった。
足元では、ミルが三人を順番に見上げている。やがてルナの椅子のそばへ移動し、その場で丸くなった。
「ミルさんは、いつからアレンさんと一緒にいるんですか?」
「子供のころからだ」
「森の古い礼拝堂で、倒れているところを見つけたんだよね」
エルシーが続ける。
「拾ったというより、アレンがついてこられたと言った方が近いかも」
「ミルが俺を選んだんだ」
「どうしてそう都合よく考えられるの?」
「違うのか?」
ミルは答えず、目を閉じた。
「否定してないぞ」
「寝ただけでしょ」
ルナは足元のミルへ目を向けた。
「ミルさんは、不思議な子ですね」
「どう見ても猫だろ?」
「そこまで普通の猫だと思っているのは、アレンさんだけではないでしょうか」
「ルナまで?」
エルシーが声を抑えて笑う。大聖堂での張りつめた空気は、もう残っていなかった。
食事を終えたあとも、三人はしばらく席を立たなかった。エルシーが手帳を開き、明日の予定を書き出していく。
「術具の準備はルナ。廃坑までの地図は私が写す。アレンは荷物持ち」
「俺だけ役割がおかしくないか?」
「一番向いてるよ」
「俺にも準備くらいできる」
「じゃあ、保存食をお願い」
「分かった」
「お菓子だけ買ってこないでね」
「買わない」
アレンは答えたあと、少し考えた。
「少しくらいは必要じゃないか?」
「何に使うの?」
「疲れたときに食べる」
「自分が食べたいだけでしょ」
「ルナも甘いものは食べるか?」
突然尋ねられ、ルナは一度目を瞬いた。
「……好きです」
「なら必要だな」
「今、私を言い訳に使いませんでしたか?」
「使ってない」
「使ったね」
エルシーが笑う。ルナの足元で、ミルがゆっくりと目を開いた。尻尾の先に浮かぶ輪が、食堂の灯りの中で静かに揺れていた。




