第7話 鎖の音
鎖を引きずる音は、通路の奥から一定の間隔で聞こえていた。
二度、床を擦る。短い静寂を挟み、また二度。
「誰かいる」
ヴァイスが走り出す。アレンもすぐにその後を追った。
「待って。罠があるかもしれない」
エルシーは声を抑えて呼び止めたが、ヴァイスは足を止めなかった。ルナは魔導書を抱え、エルシーとともに二人を追う。ミルはアレンの肩へ爪を立て、振り落とされないよう身体を低くしていた。
奥へ進むほど、鉄格子に残された血の跡が新しくなっていく。やがて通路が途切れ、円形の広間へ出た。壁に沿って、いくつもの牢が並んでいる。
その中央に、一人の少年が倒れていた。
灰色の髪の隙間から、短い角が伸びている。背中に翼はないが、首には鉄の首輪がはめられていた。首輪から伸びた鎖は、広間の中央にある黒い石の台座へつながっている。
少年は鎖を握り、弱々しく引いていた。先ほどから聞こえていた音は、それだった。
「カイ!」
ヴァイスが少年のもとへ駆け寄る。
「おい、聞こえるか!」
閉じかけていた少年の目が、わずかに開いた。
「……ヴァイス?」
「そうだ。迎えに来た」
ヴァイスは少年の首輪へ手をかけた。
「触らないでください!」
ルナの声が広間へ響く。ヴァイスの手が止まる。振り返った目には、隠そうともしない苛立ちが浮かんでいた。
「邪魔するな」
「その首輪は先ほどのものと違います。無理に外せば、この方の身体へ術式が流れます」
「だったら、どうしろってんだ」
「調べます。少しだけ時間をください」
「少しって、どれくらいだ」
「分かりません」
ルナの答えに、ヴァイスは立ち上がった。
「分からねえなら退け。鎖ごと壊す」
「駄目です」
ルナは声を震わせながらも、そこから動かなかった。
「首輪と台座がつながっています。鎖を壊した瞬間、蓄えられた魔力がすべて首輪へ戻る可能性があります」
「可能性だろ」
「この方の命で試すつもりですか?」
ヴァイスの表情が変わった。黒い翼が大きく開き、冷たい風が広間を抜ける。それでも、ルナは目をそらさなかった。二人の間へアレンが立つ。
「ヴァイス。ルナに任せよう」
「こいつが失敗したらどうする」
「大丈夫だ」
アレンは迷わず答えた。
「何を根拠に言ってやがる」
「いえ、大丈夫です。もう少し時間をください」
ルナは、いつになく力強い声でそう答えた。再び首輪へ向き直り、浮かび上がった術式を目で追っていく。
「もし何かあったときは、お願いします」
「ああ、任せろ」
アレンは剣を抜き、広間の入口へ向き直った。ヴァイスはまだルナを睨んでいた。やがて舌打ちすると、カイのそばから離れる。
「失敗したら承知しねえぞ」
「はい」
ルナは短く答え、首輪へ手をかざした。青い光が鉄の表面を走る。幾重にも重ねられた文字が、首輪の周囲へ浮かび上がった。その数は、魔物につけられていたものとは比べものにならない。
「奪うための術式だけではありません」
ルナが文字を目で追う。
「動きを封じるものと、意識を奪うもの。それから……」
言葉が止まった。
「それから、何だ?」
「装着した者が抵抗した場合、命を奪うための術式です」
ヴァイスの拳が固く握られた。カイの首輪の内側には、すでに針が食い込んでいる。皮膚を伝った血が乾き、黒い筋になっていた。
エルシーは周囲の牢を見回した。床には食器や破れた衣服が残されている。
ここにいたのは、カイ一人ではない。
「ほかの人たちは?」
「連れていかれた」
カイがかすれた声で答えた。
「三日前に……俺だけ、残された」
「どこへ?」
「分からない。顔も……見てない」
カイが話すたび、首輪につながった赤い石が明滅する。
「もう話さなくていい」
ヴァイスが言った。そのとき、アレンの肩でミルが身を起こした。額の紋様が鋭く光る。
広間の壁に並んでいた石像の一つが動いた。天使をかたどった像だった。石造りの翼が開き、表面を覆っていた埃が床へ落ちる。続いて、向かい側にあるもう一体の石像も剣を持ち上げた。
「来るぞ!」
アレンが叫ぶ。石像の剣が振り下ろされる。アレンは正面から受け止めた。金属同士を打ちつけたような音が響き、両足が床を滑る。
「石のくせに、重いな……!」
もう一体がルナへ向かう。その前へヴァイスが割って入った。黒い魔力をまとった拳が、石像の腹へ突き刺さる。石の身体に亀裂が走ったが、動きは止まらない。
「こいつらを壊せばいいんだな?」
「待ってください!」
首輪から目を離さないまま、ルナが答える。
「その石像も台座につながっています! 壊せば、首輪へ魔力が流れるかもしれません!」
「面倒な仕掛けだな!」
ヴァイスは振り下ろされた剣を翼で受け流した。刃が翼をかすめ、巻かれていた布が裂ける。
「ヴァイス、右だ!」
アレンの声に、ヴァイスは身を沈めた。その頭上をアレンの剣が通り抜け、石像の腕を弾く。ヴァイスは低い姿勢のまま踏み込み、石像の脚を払った。
巨体が床へ傾く。アレンが肩からぶつかり、そのまま壁へ押しつけた。
「命令するなって言っただろ!」
「これは命令じゃない!」
「なんだと?」
「もう、こんなときまで喧嘩はやめなさい!」
エルシーが声を上げる。
「お前も命令するな!」
「まったくもう!」
二人が石像を引きつけている間に、エルシーは台座の周囲を調べ始めた。床には円を描くように文字が刻まれている。その一部だけが、石像が動くたびに赤く光っていた。
「ルナ、ここの文字が光ってる!」
エルシーが指さす。
「同じ言葉が、何度も繰り返されてるみたい」
ルナが一瞬だけ視線を向けた。
「命令を循環させるための術式です。そこを消せれば、石像の動きを止められるかもしれません」
「どうやって消すの?」
「溝を何かで削ってください!」
エルシーは腰の鞄を開き、筆記用の小刀を取り出した。床へ膝をつき、赤く光る文字の一つへ刃を押し当てる。だが、黒い石は簡単には削れない。
エルシーが両手で小刀を握った、その背後で石像がアレンを振り払った。巨体がエルシーへ向きを変える。ミルがアレンの肩から飛び降りた。エルシーの前へ駆け、尻尾の輪を激しく明滅させる。
「エル、後ろ!」
エルシーが振り返る。石像の剣が迫っていた。アレンが横から飛び込み、その身体を抱えて床を転がる。刃が二人のすぐ脇へ突き刺さった。
「怪我は?」
「ない。でも、文字が……」
エルシーが削りかけた場所へ目を向ける。小刀でつけたわずかな傷から、赤い光が漏れていた。
「傷をつければいいんだな」
ヴァイスは石像の胸を蹴り、その反動で宙へ舞い上がった。翼を広げて空中で身をひねり、右の掌へ黒い魔力を集める。落下の勢いを乗せ、その手をエルシーが傷つけた文字へ叩きつけた。
黒い光が床を走る。文字の刻まれた石が砕け、円形の術式が途中で途切れた。二体の石像が同時に動きを止める。
しかし、静けさは一瞬しか続かなかった。
広間の中央にある台座が、激しく赤い光を放ち始めた。カイが苦しそうに身体をのけぞらせた。首輪の針が、さらに深く食い込んでいく。
「カイ!」
ヴァイスが駆け寄る。
「触らないでください!」
ルナは首輪へ両手をかざした。青い光が、台座から流れ込む赤い光とぶつかる。
「術式が途切れたことで、残っていた魔力が首輪へ戻ろうとしています」
「止められるのか!」
「止めます!」
ルナの声が広間に響いた。開かれた魔導書のページが、風もないのに激しくめくれていく。赤い光が少しずつ首輪へ近づいていく。ルナの青い光は、それを押し返しきれていない。
その前へ、ヴァイスが膝をついた。
「足りねえのか」
「はい。私一人の魔力では、押し返せません」
「俺は何をすればいい」
先ほどまでルナを疑っていた男が、その答えを待っている。ルナは一度だけ頷いた。
「首輪へ、ご自身の魔力を流してください」
「流せばいいのか?」
「私の光に合わせてください。強すぎれば、カイさんの身体がもちません」
「分かった」
ヴァイスが首輪へ手を添える。黒い魔力が、青い光の中へ流れ込んだ。反発するはずの二つの力が、ルナの術式によって一本の流れへ変わっていく。
赤い光が押し戻された。台座へ向かって、青と黒の光が走る。
「アレンさん!」
「どこを斬ればいい?」
「台座の中央です!」
アレンは剣を両手で握った。床を蹴り、赤く輝く石へ刃を振り下ろす。一度目では砕けない。衝撃で腕がしびれ、剣の刃が欠ける。それでも、アレンはもう一度剣を持ち上げた。
「ヴァイス!」
「命令するなって言ってるだろうが!」
そう怒鳴りながら、ヴァイスは片手を台座へ向けた。掌から放たれた黒い魔力が、赤い石の表面へ亀裂を走らせる。その中心へ、アレンの剣が突き刺さった。
赤い石が砕ける。広間を満たしていた光が消えた。石像は崩れ落ち、カイの首輪から力が抜ける。鉄の輪が二つに割れ、床へ落ちた。
ルナはその場へ座り込んだ。ヴァイスがカイの首元を確かめる。針は抜けている。浅い呼吸を繰り返しているが、命に別状はなさそうだった。
「助かったのか?」
「はい」
ルナは息を整えながら頷いた。
「魔力を奪われています。すぐに休ませる必要はありますが……生きています」
ヴァイスは何も言わなかった。カイを抱き上げ、その身体を自分の外套で包む。
「おい、青いの」
「私のことでしょうか」
何を言われるのかと、ルナが不安げに顔を上げる。ヴァイスは視線を合わせないまま、短く告げた。
「……助かった」
ルナは目を見開いた。
「はい」
小さく答えたあと、その口元がわずかに緩んだ。
「カイを助けてもらったのに、その態度は何よ。ルナでしょ? ル、ナ!」
「ちっ、なんだよ。うるせえな、赤いの」
「何よ、赤いのって!」
「わ、私は気にしていませんから、エルシーさんも落ち着いてください」
慌てて二人をなだめるルナを横目に、アレンは崩れた台座のそばへ落ちていた紙片を拾った。
「みんな、これを見てくれ」
古びた紙片に気づいたエルシーが、すぐに駆け寄る。
「ちょっと見せて」
アレンの手から紙片を受け取り、そこに並ぶ文字へ目を走らせる。先ほどまで怒っていたエルシーの表情から、すっと感情が消えた。ほとんどが黒く焼け焦げている。それでも、残された文字の一部は読めた。
「搬送記録……?」
紙には複数の番号と日付が並んでいる。その横には、同じ言葉が繰り返し書かれていた。
――適合せず。
――次所へ移送。
――回収量、不足。
「人を、何だと思ってるの……」
エルシーが紙片を握りしめる。アレンは周囲の牢を見回した。鉄格子の数は、四十を超えている。床に残された食器や衣服を見る限り、つい最近まで多くの者がここへ閉じ込められていた。
助けられたのは、カイ一人だけだった。
「ほかの人たちは、どこへ連れていかれたんだろう」
「調べる」
ヴァイスが答えた。その声には、怒りがにじんでいた。
「何をするつもりだ?」
アレンが尋ねる。
「決まってる。連れていかれた奴らを見つける」
「手がかりは?」
「なくても探す」
ヴァイスはカイを抱えたまま、来た道へ向かう。
「まずは集落へ戻る。こいつを休ませないといけねえ」
「俺たちも行く」
アレンの言葉に、ヴァイスが足を止めた。
「来る必要はねえ」
「負傷者がいる。それに、ほかの人たちを探すなら人数は多い方がいい」
「魔族の集落だぞ」
「分かってる」
「お前ら天使が入れば、騒ぎになる」
「外で待っててもいい。カイが無事に帰るところまでは一緒に行く」
ヴァイスはアレンを睨んだ。アレンも引かなかった。エルシーが二人の間から顔を出す。
「ルナも休ませないといけないし、今日は途中で野営した方がよさそうだね」
「勝手に決めるな」
「ヴァイス一人で、カイを抱えたまま見張りもするの?」
「できる」
「傷ついた翼で?」
ヴァイスが言葉に詰まる。翼に巻かれていた布は裂け、傷口から再び血がにじんでいた。エルシーはそれを見逃さなかった。
「決まりだね」
「何も決まってねえ」
「食事は多めに作るから、安心して」
「聞けよ」
エルシーはすでに帰り道へ向かっていた。ルナも魔導書を抱えて立ち上がる。アレンは荷物を背負い直し、ヴァイスの隣へ並んだ。
ミルはアレンの肩へ戻ると、抱えられたカイをじっと見つめた。その額に浮かぶ紋様が、淡い光を灯している。
ヴァイスは三人と一匹を順番に見た。追い返すことを諦めたように、小さく舌打ちする。
「好きにしろ」
その言葉だけを残し、カイを抱えて歩き出す。今度は誰も、ヴァイスより先へ行こうとはしなかった。
暗い坑道の中を、四人分の足音が重なっていく。
鎖の音は、もう聞こえなかった。




