第6話 魔導書を抱えた少女
翌朝、王都の西門で待っていたルナは、自分の身体ほどもある鞄を背負っていた。
中には魔導書や術具のほか、古代文字の資料が何冊も詰め込まれているらしい。
「それ、持つよ」
アレンは返事を待たず、ルナの鞄を持ち上げた。
「あっ……大丈夫です。自分で持てますから」
「重いだろ」
「ですが、私の荷物ですし……」
「俺は剣くらいしか持ってないから、ちょうどいい」
アレンはそのまま鞄を背負い、先に歩き出した。
ルナは取り返すこともできず、遠ざかる背中を見つめている。
エルシーがその隣へ並んだ。
「気にしなくていいよ。昔からああだから」
「昔から、ですか?」
「困っている人を見つけると、考えるより先に動くの。放っておいても聞かないから、あれくらいさせておけばいいよ」
ルナは少し迷ってから、エルシーへ顔を寄せた。
「あの、差し出がましいことをお聞きしますが……お二人は、どのようなご関係なんですか?」
「幼なじみ。家も近かったから、小さいころから一緒にいるの」
「そうだったんですね」
「何の話だ?」
少し先を歩いていたアレンが振り返る。
「アレンが昔からお節介だって話」
「そんな話をしてたのか?」
アレンの肩で、ミルが一度だけ頷いた。
ルナの口元が、わずかに緩んだ。
村へ向かう馬車の中で、エルシーは王都から預かってきた調査書を広げた。
そこには、捕らえられたガイルの供述がまとめられている。
「ガイルは、村の外から来た二人の男と組んでいたみたい」
「ほかにもいたのか?」
「うん。家畜を別の土地へ運んで売っていたのは、その二人。ガイルは見張りとして、村の様子を伝えていたみたい」
二人の男は事件が明らかになる前に村を離れており、まだ捕まっていない。
ガイルたちは、人が近づかない廃坑を、盗んだ家畜や荷物の保管場所として使っていた。
行方不明だった若者と家畜も、廃坑の入口に近い広間で発見されている。
「首輪と笛は、崩れた壁のそばにあった古い木箱から見つけた……か」
アレンが調査書を覗き込む。
「ガイルたちは、それが何のための道具なのか最初から知っていたのでしょうか?」
ルナが尋ねた。
「そこまでは分からないみたい。ただ、笛を吹けば首輪をつけた魔物が従うことに気づいて、それを利用したって」
エルシーは調査書を閉じた。
「廃坑の奥には入ってないと言ってる。道が岩で塞がれていたから、調べようともしなかったみたい」
「一見すれば、ただの廃坑ですから」
ルナは膝の上に置いた魔導書へ目を落とした。
「人目を避けて物を隠すには、それで十分だったのでしょう」
昼を過ぎたころ、三人はリュネ村の北にある廃坑へ到着した。
入口には、前回の調査で使われた松明が残されている。
坑道の奥は、昼を吸い込むほどに暗かった。
エルシーがランタンを掲げる。
「この先だよ。若者と家畜が見つかったのは」
坑道の中には、ガイルたちが使っていた毛布や空の水瓶が残されていた。
さらに進むと、壊れた木箱が転がっている広間へ出た。
箱の底は腐り、黒ずんだ藁がこぼれている。ガイルが首輪と笛を見つけたのは、この箱だった。
箱のそばでは壁が崩れ、大量の岩が正面の道を塞いでいた。
見たところ、どこにでもある落盤の跡だった。
「ガイルたちは、この広間までしか使っていなかったんだな」
アレンは鞄を下ろし、大きな岩へ手をかけた。
「これをどかせばいいのか?」
「待ってください」
ルナが呼び止めた。
彼女は魔導書を開き、岩の前へ手をかざす。
淡い青色の光が指先から伸び、岩の表面をなぞっていった。
「これは、自然に崩れたものではありません」
「どういうこと?」
エルシーが尋ねる。
「岩の一つ一つに術式が刻まれています。決められた位置へ動かすことで、道を塞いでいるようです」
ルナは岩の隙間を覗き込んだ。
大きさの異なる岩が、互いを支え合うように組まれている。力任せに一つを引き抜けば、残りが一斉に崩れる仕組みだった。
壁の一部と一緒に木箱だけが外へ押し出されたため、ガイルたちは首輪を見つけられたらしい。
しかし、その奥に道が続いていることまでは気づかなかった。
「無理にどかすのは危険です。坑道ごと崩れるかもしれません」
アレンは岩から手を離した。
「開けられそうか?」
「刻まれた順番を読み取れれば、恐らく」
ルナは魔導書を胸の前へ広げた。
青白い文字が、ページの上へ浮かび上がる。
「少し離れていてください」
アレンとエルシーが後ろへ下がる。
ルナは岩へ向けて片手を掲げた。
「眠れる石よ。刻まれた道を思い出し、あるべき場所へ戻れ」
青い光が壁へ触れた瞬間、積み重なっていた岩が低い音を立てた。
一つの岩が持ち上がり、その下から別の岩が滑り出す。
大小さまざまな岩が、見えない手に運ばれているように位置を変えていった。
岩は坑道の両脇へ積み直され、正面に細い通路が現れる。
人工的に削られた通路の先には、継ぎ目のない黒い扉があった。
扉の中央には、首輪に埋め込まれていたものと同じ赤い石がはめ込まれている。
「騎士だけでは見つけられない、か」
アレンがつぶやく。
ルナは扉の前へ膝をつき、周囲に刻まれた文字を目で追った。
「開けられそうか?」
「時間をいただければ……恐らく」
ルナの声は頼りなかった。
それでも、その手はすでに魔導書のページをめくっている。
アレンとエルシーは何も言わず、ルナの後ろで待った。
やがて、扉を覆っていた赤い光が一つずつ消えていく。
最後の文字が消えると、重い音を立てて扉が開いた。
その先には、廃坑とは明らかに異なる空間が広がっていた。
壁も床も黒い石で整えられ、左右には鉄製の台が並んでいる。
台の上には円形のくぼみがあり、その一つひとつに四文字の記号が刻まれていた。
A9F1。
A9F2。
A9F3。
A9F4。
アレンは懐から首輪の欠片を取り出し、刻まれた文字と見比べた。
「ちょうど欠けている番号だ」
森の魔物につけられていた首輪の欠片には、A9F4と刻まれている。
「この場所に保管されていたものと考えて、間違いないと思います」
ルナは部屋の奥へ光を向けた。
同じ形をした台が、暗闇の先まで何列も並んでいる。
だが、置かれていたはずの首輪は一つも残されていなかった。
「これが全部、首輪の置き場所なの……?」
エルシーは思わず両腕を抱いた。
ランタンの火が揺れるたび、空の台がどこまでも続いているように見える。
「だとすれば、数が多すぎます」
ルナは壁へ近づいた。
床から伸びた細い溝が、それぞれの台を通り、壁の向こうへ集まっている。
「首輪へ命令を送るための術式です。やはり、保管場所とは別に管理装置があるようです」
ルナが壁へ手を伸ばす。
その瞬間、ミルの額と尻尾の輪が鋭く光った。
「ルナ、離れろ!」
アレンが駆け出す。
壁に刻まれていた文字が、一斉に赤い光を放った。
頭上で岩の割れる音がする。
エルシーをかばおうとしたアレンの前へ、半透明の壁が立ち上がった。
激しい音とともに、落下した石が光の壁へぶつかる。
「ルナ!」
両手を掲げたルナが、震えながら障壁を支えていた。
「長くは……もちません!」
光の壁に亀裂が走る。
次々と落ちてくる石が、その亀裂を広げていく。
アレンは剣を抜き、崩れかけた天井を見上げた。
だが、どこを斬れば止められるのか分からない。
「右奥の石です!」
ルナが叫んだ。
「赤く光っている部分を壊してください!」
アレンは言われた場所へ走った。
崩れ落ちた岩を飛び越え、壁を蹴る。
赤い石へ剣を突き立てると、耳をつんざくような音が響いた。
石が砕けた瞬間、天井を走っていた赤い光が消える。
最後の岩が障壁へぶつかり、床へ転がった。
静けさが戻った。
ルナは障壁を解くと、その場へ膝をついた。
「大丈夫か?」
アレンが駆け寄る。
「はい……なんとか」
「助かった。ルナがいなかったら、全員埋まってた」
ルナは俯いたまま、自分の震えた手を見つめた。
「でも、もっと早く気づいていれば……」
「気づいたから、助かったんだろ」
アレンは当然のように言った。
ルナが顔を上げる。
その足元へ、ミルが近づいてきた。
小さな頭を、ルナの手の甲へ押しつける。
ルナは驚きながらも、その頭をそっと撫でた。
ミルは逃げなかった。
「珍しいな」
アレンが目を丸くする。
「俺と会ったころなんて、近づくだけですぐ物陰に隠れてたんだぞ」
「人に慣れてきたのでしょうか」
「どうだろう。嫌な相手には、今でも近づかないからな」
ミルは何も答えず、ルナの手へ額を預けた。
尻尾の先に浮かぶ輪が、穏やかな光を灯している。
「先へ進めそう」
エルシーの声がした。
砕けた赤い石の奥で、壁の一部が開いている。
その先から、冷たい風が流れ込んでいた。
三人は慎重に通路を進む。
壁には何かを引きずったような傷が残り、床の一部には黒く変色した血の跡もある。
やがて通路の両側に、錆びついた鉄格子が見え始めた。
格子の内側には、壁へつながれた手枷と、黒く変色した鎖が残されている。
どれも、人間が使うには大きすぎた。
「ここで、何をしていたんだ……?」
アレンの声が通路に響く。
そのとき、暗闇の奥から足音が聞こえた。
アレンが剣を抜き、エルシーとルナの前へ立つ。
現れた男の背中には、傷ついた黒い翼があった。
片方の翼には、少女から受け取った布が巻かれている。
「あのときの……」
エルシーが息をのむ。
魔族の男はアレンとエルシーを見ると、面倒そうに眉を寄せた。
「またお前らか」
その視線が、二人の後ろにいるルナへ移る。
「……そいつは誰だ」
「宮廷魔導院のルナです。この場所に残された術式を調べるため、同行しています」
ルナは緊張しながらも、男から目をそらさなかった。
男の手には、壊れた首輪の残りが握られている。
アレンが持つ欠片と同じく、表面にはA9F4の文字が刻まれていた。
「どうして、ここにいる?」
アレンが尋ねる。
「それはこっちの台詞だ」
男は並んだ鉄格子へ目を向けた。
「ここをただの廃坑だと思ってるなら、認識を改めろ」
握られた首輪の内側には、乾いた黒い血がこびりついている。
「これは、俺たち魔族を捕らえるため、昔の天使が使っていたものだ」
「天使が?」
エルシーの声が、冷たい通路へ響く。
「そんな話、聞いたことがない」
「お前らの歴史に残ってるわけがねえだろ」
男は吐き捨てるように言った。
「勝った側が、自分たちに都合の悪い話を残すと思うか?」
「でも、天使たちは女神様に導かれて、世界を救ったはずで……」
エルシーの声から、いつもの明るさが消えていた。
その指が、腰に下げた手帳へ伸びる。
だが、表紙へ触れる直前で止まり、代わりに胸元の女神の聖印を強く握った。
目の前に並ぶ鉄格子も、魔族をつないだという鎖も、教会で教えられた物語には存在しないものだった。
「そんなはず……」
続く言葉は出なかった。
男の足元へ、ミルが歩いていく。
男はすぐに気づき、警戒するように一歩下がった。
「何だ、こいつは」
「ミルだ」
「名前を聞いてるんじゃねえ」
「猫だ」
「どうして、それをただの猫で済ませられるんだ」
ミルは男を見上げた。
額の紋様が、かすかに明滅する。
男もまた、ミルから目を離さなかった。
「その紋様……」
問いかけるように手を伸ばす。
しかしミルは身を翻し、ルナの足元へ移動した。
そして、何事もなかったように座り込む。
「私、でしょうか?」
ルナが恐る恐る手を伸ばす。
ミルは逃げなかった。
指先が頭へ触れると、金色の目を細める。
男は納得のいかない顔でミルを見ていたが、それ以上は何も言わなかった。
ルナは男の持つ首輪へ目を向ける。
「それを見せていただけますか?」
「断る」
「術式を調べたいだけです」
「その言葉を信じろと?」
「信じるかどうかは、あなたが決めてください」
ルナは逃げずに男を見返した。
聞き覚えのある言葉に、男の眉がわずかに動く。
沈黙のあと、首輪がルナの足元へ投げられた。
「壊すなよ」
ルナは首輪を拾い上げ、慎重に内側を調べた。
アレンが持っている欠片と合わせると、刻まれていた術式が一本につながる。
「間違いありません。A9F4の首輪です」
「これをどこで?」
「森でお前らが砕いたものを拾った。見覚えがあったからな」
男は鉄格子の奥を睨んだ。
「俺のいた集落では、ここ数か月で何人も姿を消している」
「何人も?」
「ああ。残っていたのは、争った跡だけだ」
男は首輪を握るルナへ視線を戻す。
「森でこいつを見たとき、昔の牢獄がまた使われてるんじゃねえかと思った。それで、ここまで調べに来た」
「消えた人たちが、この中にいるかもしれないの?」
エルシーが尋ねる。
「分からねえ。だが、ここへ何かを運び込んだ跡がある」
男が顎で通路の奥を示す。
床には、新しい靴跡がいくつも残されていた。その横を、鎖を引きずったような二本の傷が続いている。
ルナは調べ終えた首輪を男へ返した。
「この首輪には、装着した相手の魔力を奪う術式があります。奪った魔力を、別の場所へ送る仕組みも」
「別の場所?」
「この先です。床に刻まれた線が、奥へ続いています」
男は首輪を受け取ると、一人で歩き出した。
アレンがその肩をつかむ。
「俺たちも行く」
「必要ない」
「この装置を作った奴を調べるのが、俺たちの仕事だ」
「足手まといだ」
「それは、一緒に戦ってから決めればいい」
男はアレンの手を振り払った。
「好きにしろ」
そう言って、再び通路の奥へ歩き出した。
エルシーがランタンを持ち上げる。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったね」
男は答えない。
「一緒に行くなら、名前くらい知らないと困るでしょう?」
「一緒に行くとは言ってねえ」
「じゃあ、同じ道を歩く人の名前を教えて」
しばらくの沈黙のあと、男は小さく息を吐いた。
「ヴァイスだ」
「私はエルシー。こっちはアレンとルナ。それからミル」
「聞いてねえよ」
「私は聞いたから、こっちも名乗っただけ」
エルシーは明るく笑った。
ヴァイスは何も言い返さず、通路の奥へ目を向ける。
「勘違いするな。俺はお前らについていくわけじゃねえ。行き先が同じだけだ」
「ああ。それでいい」
アレンは剣を収めた。
ヴァイスが先頭に立ち、その隣へアレンが並ぶ。
少し後ろを、ルナとエルシーが続いた。
ミルはルナの足元から離れると、いつものようにアレンの肩へ飛び乗る。
通路の奥から、冷たい風が吹いてくる。
その風に混じって、ごく小さな音が聞こえた。
鎖を引きずる音だった。
ヴァイスの表情が変わる。
「急ぐぞ」
四人と一匹は、廃坑のさらに深い場所へ足を踏み入れた。




