第4話 悪魔のうわさ 2
ミルが地面へ飛び降りる。尻尾の先に浮かぶ輪が、激しく明滅した。次の瞬間、倒れていた魔物の前脚が動いた。
「離れろ!」
魔族の男が叫ぶ。死んだと思われていた魔物が立ち上がり、少女へ爪を振り下ろした。アレンは少女を抱き寄せて飛び退く。
爪が近くの木の幹を深くえぐった。魔物は苦しむように頭を振っている。その首には、太い鉄製の首輪が取り付けられていた。
「首輪……?」
エルシーが息をのむ。自然に暮らす魔物が、自分で首輪をつけるはずがない。
「エル、その子を頼む!」
アレンは少女を預け、魔物へ向かって走る。振り下ろされた爪を横へ転がってかわし、前脚へ剣を打ち込んだ。魔物が咆哮する。
反撃の爪がアレンを捉えかけた瞬間、黒い影が間へ割って入った。魔族の男だった。傷ついた翼で攻撃を受け流し、アレンを突き飛ばす。爪が翼をかすめ、新たな血が舞った。
「傷だらけで無茶するな!」
「お前に言われたくない」
男は魔物の懐へ潜り込み、掌から放った黒い光でその胸を打った。巨体が大きくよろめく。アレンは体勢を立て直し、男の隣へ並んだ。
「動けるか?」
「誰に聞いている」
「なら、合わせろ」
「命令するな」
そう言いながらも、男はアレンから離れなかった。魔物が二人へ突進する。そのとき、森に甲高い音が響いた。
見張りの男が、小さな金属製の笛を吹いている。音を聞いた魔物は突然進路を変え、魔族の男へ飛びかかった。
「今の音……」
エルシーが見張りの男を見る。男は慌てて笛を服の内側へ隠した。
「その笛は何?」
「魔物を追い払うためのものだ!」
「違うわ。魔物は逃げなかった。あなたの笛を聞いて、攻撃する相手を変えた」
村人たちの視線が、男へ集まる。
「偶然だ!」
「なら、もう一度吹いてみて」
男は答えなかった。
「エル!」
アレンが魔物の爪を受け止めながら叫ぶ。
「首輪よ!」
エルシーは魔物の首元を指さした。
「笛で操っているなら、あの首輪に仕掛けがあるはず!」
鉄の首輪には、小さな赤い石が埋め込まれている。
「聞こえたか?」
アレンが尋ねる。
「お前が囮になれ」
魔族の男が答えた。
「分かった」
「迷わないのか」
「今はほかに方法がない」
アレンが魔物の正面へ走り、その注意を引きつける。その隙に魔族の男が翼を広げ、魔物の背へ飛び乗った。黒い光をまとった手刀が、首輪の留め具へ突き刺さる。
しかし、首輪は壊れない。魔物が激しく暴れ、男を振り落とそうとする。
「そのまま押さえてろ!」
アレンは地面を蹴り、手刀が突き刺さった場所へ剣を振り下ろした。甲高い音とともに首輪が砕け、赤い石が地面へ落ちる。魔物は何度か苦しそうに頭を振ると、ゆっくりとその場へ倒れた。
今度こそ動かなかった。アレンは荒い息を整えながら、砕けた首輪を拾う。内側には、いくつもの小さな針が並んでいた。
「誰かが、こいつを操っていた」
アレンが見張りの男を見る。男は一歩後ずさった。
「俺は知らない」
「その笛を見せて」
エルシーが言う。
「近づくな!」
男は懐から短剣を抜いた。村人たちがざわめく。
「ガイル……?」
エルシーはガイルの足元を見た。泥で汚れた革靴。
「小屋に残っていた足跡は、あなたのものね」
ガイルの顔がこわばった。
「見張りなんだ。小屋へ入ったことくらいある!」
「事件が起きた夜にも?」
ガイルは答えない。少女がエルシーの服を握った。
「あの人を見たの。家の裏から出ていったから、あとを追ったら……森の奥で笛を吹いてた」
「そんなの、子供のでたらめだ!」
ここぞといわんばかりに鋭いエルシーの眼光が光る。
「ところであなたの靴やけに泥だらけだし、なんだかかかとがかけてるみたいだけど」
エルシーの発言とともに、アレンが何かに気が付いたような声を上げる。
「あっ! さっきの足跡! 踵が三角形に欠けていたからあんな形だったのか」
村人たちの視線が、一斉にガイルへ向けられる。
「ち、違う!」
「俺は村を守ろうとしただけだ!」
「家畜を盗むことが?」
「何も知らないくせに!」
ガイルは少女へ向かって駆け出した。その前にアレンが立つ。短剣が振り下ろされるより早く手首をつかみ、そのまま地面へ押さえ込んだ。
「離せ!」
「話は村で聞く」
「俺が……俺がいなければ、この村は終わるぞ」
「村を守るはずの人間が、子供に刃を向けるものか!」
アレンはガイルの腕を縛り上げた。その後、森の奥にある古い廃坑から、行方不明になっていた若者と盗まれた家畜が見つかった。
ガイルたちは捕らえた魔物へ首輪をつけ、家畜小屋を襲わせていた。どうやら混乱に乗じて家畜を盗み、別の土地へ売る算段だったらしい。若者を引き取りに来た家族は、名を名乗る前にアレンの手を握り、しばらく離さなかった。
小屋の爪痕も、森から聞こえていた声も、本物だった。ただ、その魔物を操っていた者の存在だけが、語られていなかった。
夜が明けるころ、アレンたちは村へ戻った。少女は母親のもとへ駆けていく。一方、村人たちは魔族の男から距離を取り、誰も近づこうとはしなかった。
男は治療も受けず、森へ戻ろうとしている。
「待て」
アレンが呼び止める。
「傷の手当てくらいしていけ」
「必要ない」
「その翼じゃ飛べないだろ」
「お前には関係ない」
「一緒に戦ったんだから、少しくらい関係ある」
男は理解できないものを見るような目を、アレンへ向けた。
「お前は天使だろう。なぜ俺を助ける」
その呼び方に、エルシーがわずかに眉を寄せた。魔族が人間をそう呼ぶことを、彼女は知識として知っている。遠い昔、悪魔を退けた側の子孫。それが、向こうから見た自分たちの名前だった。
アレンは少し考えた。
「お前があの子を助けたからだ」
「それだけか」
「ほかに何か必要なのか?」
男は答えなかった。エルシーが布と薬を差し出す。
「自分で手当てをするなら、せめてこれを持っていって」
男は受け取ろうとしない。代わりに少女が薬を受け取り、男の前へ差し出した。
「お願い」
男は少女の顔を見つめ、やがて諦めたように薬を受け取った。礼は言わなかった。そのまま背を向け、朝靄の残る森へ消えていく。
「悪魔にも、あんな奴がいるんだな」
アレンがつぶやく。エルシーは森を見つめたまま答えた。
「私たちが知らなかっただけかもしれないわ」
「エルは、悪魔が悪くないと思うのか?」
「まだ分からない。でも、あの人が少女を守ったことは見た。ガイルが魔物を操っていたことも見た。それだけは、誰が何と言っても変わらないわ」
アレンは小さく頷いた。
「でも、魔族を助けただなんて教会に知られたら、きっとただでは済まないわよ」
「そうかもな」
アレンはまっすぐ前を見つめたまま、歩き出した。
その夜。村から借りた部屋で、エルシーは手帳を開いていた。今日あった出来事を次々と書き記していく。
魔物に取り付けられた首輪。笛で魔物を操っていた男。少女をかばった黒い翼。
傷つきながら戦った、名も知らない魔族。最後に、エルシーは一文を書き加えた。
――少女を救ったのは、魔族だった。
村ではすでに、「悪魔が子供をさらおうとした」という噂が広まり始めている。いずれ、その噂を本当の出来事として語る者も現れるのだろう。でも私は違う。
私は自分の目で見たんだ。その日に誰が傷つけ、誰が守ったのかを。エルシーはそっと手帳を閉じた。




