第3話 悪魔のうわさ 1
森を抜けた先に、小さな村が見えた。畑には誰もいない。閉じた窓の向こうから、こちらをうかがう気配だけはある。
だが、外へ出てくる者は一人もいなかった。村の入口には女神の紋章を刻んだ石柱が立って、その根元には、魔物除けの白い布が何重にも巻かれていた。アレンたちが近づくと、見張り台の上から声が飛んできた。
「そこで止まれ!」
弓を構えた村人が、二人をにらんでいる。
「何者だ!」
アレンは敵意がないことを示すため、両手を上げた。
「王都から来た。村で起きている事件を調べる」
「証明できるものは?」
アレンが教会の印章が押された書状を掲げる。見張りの男はしばらくそれを確認した後、ようやく門を開けた。
「遅かったな」
男は弓を下ろさないまま言った。
「昨夜、また一頭やられた」
案内された家畜小屋には、荒らされたような跡が残っていた。床には乾いた血がこびりつき、木の壁には大きな爪痕が刻まれている。アレンはその傷へ手を当てた。
「かなり大きいな」
「だから言っただろう。きっと悪魔の仕業だ」
村人が答える。一方、エルシーは小屋の扉の前へしゃがみ込んでいた。壊れた閂を拾い、表と裏を交互に確かめている。
「エル?」
「これ、本当に外から壊されたのかしら」
「どういう意味だ?」
エルシーは閂をアレンへ見せた。木材の裂け目は、外側ではなく内側へ向かって広がっていた。それに、扉のそばに残る泥には、獣のものとは違う跡が続いている。
「でもなんだこの形?」
靴の跡だった。かかとの片側が、三角形に欠けている。まるで、誰かが靴を履いたまま小屋へ入り、内側から扉を壊したような跡だった。
「魔物が中へ入ったのではなく、最初から中にいたようにも見えるわ」
エルシーの言葉に、村人の顔色が変わる。
「馬鹿なことを言うな。そんなはずはない」
そのときだった。
村の奥から、甲高い悲鳴が聞こえた。全員が振り返る。一人の女性が、転びそうになりながら広場へ駆け込んできた。
「娘が……娘がいないの!」
震える手が、暗くなり始めた森を指している。
「さっきまで家にいたのに、姿が見えないの。裏口が開いていて……」
アレンはすぐに剣の柄へ手をかけた。肩の上で、ミルの額が鋭く光る。
「エル」
「分かってるわ」
二人はほとんど同時に、森へ向かって走り出した。
木々の間には、すでに夜の闇が降り始めていた。アレンが先頭を走り、エルシーがその後を追う。ミルはアレンの肩へ爪を立て、落ちないよう身体を低くしていた。
「足跡だ……」
アレンはその場へ膝をついた。湿った地面に、小さな靴の跡が続いている。その隣には、何かを引きずったような細長い跡が残されていた。
二人は足跡を追い、森の奥へ進む。やがて、前方から獣の唸り声が聞こえた。アレンは剣を抜く。
「俺が先に行く。エルは後ろに」
「一人で飛び出さないって、さっき約束したばかりでしょう」
「じゃあ、一緒に行こう」
「……うん」
エルシーは短く答えた。地図を持つ手に、知らず知らずのうちに力が入っている。人のいない森の暗さも、近づいてくる獣の気配も、彼女がこれまで知っていた旅とは違っていた。怖くないはずがない。
それでもエルシーは一度だけ深く息を吸い、アレンの隣へ並んだ。木々を抜けた先に、月明かりの差し込む小さな空間があった。そこに、少女はいた。
倒れた大木のそばで膝をつき、何かを守るように両腕を広げている。
「無事か!」
アレンが駆け寄ろうとした瞬間、少女が叫んだ。
「来ないで!」
アレンの足が止まる。少女の背後で、黒い影が動いた。人の姿をしている。
しかし、その頭には短い角があり、背中からは黒い翼が伸びていた。着ている外套は裂け、肩から流れた血が地面へ落ちている。
悪魔だった。
アレンは剣を構える。その横で、ミルの額の紋様が鋭く光った。悪魔は傷ついた身体を起こし、少女を背中へかばうようにアレンと向き合った。
「その子から離れろ」
アレンが告げる。悪魔は答えない。代わりに少女が、何度も首を横へ振った。
「違うの。この人じゃない」
「何が違う?」
「この人は、私を連れてきたんじゃない」
少女の声は震えていた。それでも、悪魔の前から退こうとはしない。
「この人は、私を助けてくれたの」
風が吹き、頭上の枝葉が揺れた。その向こうには、巨大な獣が倒れている。悪魔の翼に刻まれた傷は、家畜小屋の壁に残っていたものと同じ、長く湾曲した爪の形をしていた。
アレンの握る剣が、わずかに下がった。悪魔は何も弁明しなかった。ただ傷ついた翼を広げ、今も少女を守っている。
アレンが少女を見つめる中、ミルはどこか違う方向を向いていた。その時エルシーは、この光景を目に焼き付けるように見ていた。私は、その光景から目を離せなかった。
絵本の中で血に濡れた剣を握っていたはずの悪魔が、今は血に濡れた背中で、一人の少女をかばっていた。
「本当に、そいつが助けたのか?」
アレンが尋ねると、少女は何度も頷いた。
「森であの魔物に襲われたの。もう駄目だと思ったとき、この人が来て……」
少女の後ろで、魔族の男が片膝をつく。
「お兄ちゃん!」
少女がその身体を支えた。男は荒い呼吸を繰り返しながらも、アレンから目を離さない。
「その子を連れ去ったのは、お前じゃないんだな」
「悪魔の俺が何を言ったところで無駄なことだ」
男が初めて口を開いた。低く、かすれた声だった。その目には敵意がある。
だが、獲物へ向けるものではない。追い詰められた者が、自分と少女を守るために見せるものだった。アレンはゆっくりと剣先を下げた。
「アレン」
エルシーが小さく名前を呼ぶ。
「まだ何も分かってないわ」
「ああ。だから、まず話を聞く」
そのとき、背後の茂みから複数の足音が聞こえた。
「いたぞ!」
松明を持った村人たちが広場へ入ってくる。先頭にいたのは、村の入口で会った見張りの男だった。男は少女と魔族の姿を認めると、迷わず矢をつがえた。
「その子から離れろ、悪魔!」
「待って!」
少女が両手を広げる。
「そいつが村を襲った犯人だ! その子も操られている!」
弦が鳴った。放たれた矢が、少女のすぐ脇へ迫る。鋭い金属音とともに、アレンの剣が矢を弾き落とした。
「何をする!」
見張りの男が怒鳴る。
「それはこっちの台詞だ。今の矢は、この子に当たってたかもしれない」
「そいつを逃がせば、また村人が襲われる!」
「この人じゃない!」
少女が叫ぶ。それでも、村人たちの疑いに満ちた視線は変わらなかった。
誰も倒れた魔物を見ようとはしない。
誰も魔族の傷を見ようとはしない。
目の前に悪魔がいる。それだけで十分だった。




